その名は、世を凪ぐ者
(2)

 限夢界。
 限夢宮。中庭。
 そこは、世凪のくつろぎの場。 
 世凪にとって、大切な場。
 柚巴とともに、おだやかな時間をすごすための場所だから。
 しかし、今は、その柚巴がいない。
 同時に、その場は意味をなくす。
 柚巴なしでは、心穏やかになどいられない。
 世凪の心の平和は、柚巴だから。

「では、強制的に、天上界への道をひらきます」
 きっとするどく上空を見上げ、雫蛇がそう告げた。
 瞬間、組まれ、大空へと向けられた雫蛇の手から、風が巻き起こり、それが、青空へとすいこまれていく。
 つむじになり。
 すると、吸い込んだその一点を中心として、空はぐるぐると渦をまいていく。
 青かった空も、黒く変化していく。
 時折、稲妻がはしる。
 目がくらむほど激しく、そして妖しい光。
 ふっと……限夢界が闇に支配される。
 刹那、どこからともなく、ざわめきが起こった。
 それは、悲鳴ともとれるものだったかもしれない。
 突然のこの異変に、恐怖におののくその声。
 まるで、世界の終わりに立たされたような、絶望を告げる声。
 この場にいて、それを見ている使い魔たちだって、それには動揺の色を隠せない。
 限夢界の空が、こんな不気味な様相を見せたのは、記憶にある限り、ない。
 しかし、王宮のあちらこちらから聞こえて来る、恐怖の声とは同じではない。
 彼らは……今、ここで行われていることを知っている。
 だが、この行為によって、このような現象が起こるなど、きいていない。
 ただ、これから、強引に天上界へのりこんでいくということしか……。
 そうして、闇に支配された空を見上げていると、そこからかすみのような真っ白い階段が姿をあらわした。
 それは、足をつける場だけかたちとなり、それ以外はそこからはなれるにつれ薄くなり……。
 最後には、かたちなく消えている。
 ぼんやりとあわく白く光る、その不思議な階段。
 ……いや。帯? 比礼?
 それが現れると同時に、息もできないほどの強風が押し寄せてきた。
 それに、誰もが必死に抗う。自らの体を支える。
 下手をすると、吹き飛ばされかねない。
 それが、数秒……数十秒続いたかと思うと、ふとやんだ。
 そして、額から一筋の冷や汗をたらした雫蛇が、疲れきったように世凪へ視線を流してくる。
「道はひらきました。これにのって……」
「ああ。いくぞ!」
 雫蛇の言葉を最後まで待たずに、世凪はマントをなびかせ、その帯状の階段に足をつけていく。
 そして、駆けのぼる。
 その姿を、驚きとともに、慌てて使い魔たちもおいかける。
 この先に、この階段をのぼりきったところに、柚巴がいると信じて。確信して。
 本来、天上人ならば、このようなことをせずとも、自由に四つの世界を渡り歩ける。
 しかし、半分しか天上人の魂を持たない雫蛇は、この方法をもってしか、天上界へいくことがかなわない。
 それが、二つの世界に通じる者に与えられた、唯一の特権ともいえるかもしれない。
 ただの限夢人では、このようなことは決してできないから。
 見送る王に、小さく礼をして、雫蛇も使い魔たちの後に続いていく。
 王の顔が、苦しげにゆがむ。
 自分も、彼らとともに行きたいと。

 ――世界の運命は、彼らと、そして一人の少女にかかっている。
 そのことを知っていてなお、王はその事実だけは彼らに伝えようとしない。
 伝えては、気づいてしまったその真実のさまたげになりかねないから。
 そして、それは、最高神・シュテファンの意にもそむく。
 神がそれを望むなら、この流れに身をまかせよう。
 恐らくそれが、最善だろうと思うから。


 しゃらりと流れる、その透ける美しい衣。
 動くたびに鳴く、リンとした清涼な音。
 すべては、彼女のために用意されたかのような、汚れない比礼。
 天上界特有の衣装を身にまとう、柚巴の姿がそこにある。
 薄い衣一枚だけで、その体を包んでいる。
 彼女の吐息一つが、星屑になるが如く――
 そこにいるだけで、花々が美しく咲き乱れる。
 すべてが、浄化されていく。
「ああ。やっぱり、綺麗だよ。柚巴。その方が、だんぜん……」
 戸惑いを隠せず、ぼんやりとした柚巴が、そこに静かに立っている。
 ケイカ・ユリウスの前。
 彼の手がすぐとどくそこに。
 あの違和感に気づいてしまってから、柚巴はどうにも、抗えなくなってしまっている。
 理不尽に、このような衣装に身を通してしまえる程度に。
 ――どうして、抗えないのか、それは、柚巴自身がいちばん不思議に思っていること。
 ゆっくりと、ケイカ・ユリウスの手がのびてきて、柚巴を優しく包み込む。
 柚巴と同じ衣装をまとい。
 そして、そのやわらかな髪を、我が物のようにすいていく。
 ふわりと香る、あまい花の香り。
 もう、あの男の香りはしない。
 憎らしい、あの香りは。
 うっとりと、柚巴を見つめる。
 ずっと、こうして、柚巴を抱きしめたかったと。
 また、柚巴の胸に、不思議なぬくもりが広がっていく。
「この世界の衣装、君になら似合うと思っていたんだ。ねえ、柚巴。柚巴はもう、僕のものだからね」
 そうささやき、抱き寄せる柚巴の薄い衣に手をかけていく。
 それはまるで、何かを暗示するように。
 この後の柚巴の運命を告げるように。
 そして、そっと、胸元に唇を寄せていく。
 柚巴はただ、静かに、その動きを見つめることしかできない。
 金縛りにでもあったかのように。
 とくん……と、小さな音が鳴る。
「本当に、美しい。まるで、女神のようだ。――そう。例えば、伝説の……」
「柚巴!!」
 そっと唇を寄せ、ふわりと息でなでながら、そこでささやいた時だった。
 世界が、ぐらりとゆれた。
 それと同時に、稲妻がかけぬける。
 ケイカ・ユリウスが怪訝に柚巴の胸元から顔をあげていくと……そこには、雷鳴を背負った世凪が立っていた。
 その背後に控えるは、使い魔たち。
 彼らは皆、柚巴を守る限夢人――


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update:06/10/11