その名は、世を凪ぐ者
(3)

「……もうきちゃったの? 気がきかない奴らだね」
 ふぁさりと、とても愛しそうに背から柚巴をだきしめ、ケイカ・ユリウスは不敵な笑みを世凪へそそぐ。
 マントの下に隠した世凪の拳が、ぶるぶるとふるえている。
 見てしまった。
 見せられてしまった。
 見たくなかったその光景を。
 ケイカ・ユリウスが、柚巴の胸に唇を寄せる、そのような場面。
 柚巴は、世凪だけのものなのに。世凪だけのものでなければならないのに。
 その行為は、世凪にだけ許されているものなのに。
 何故、どうして、柚巴は、抵抗らしい抵抗を見せない?
 ……それが、悔しくてたまらない。
 柚巴のことだから、何か考えがあってのことかもしれないけれど……。
 しかし、純粋に、抗えないだけかもしれない。
 ただ、望んでそうしているわけではないということだけは、わかる。そう信じている。
 柚巴は、明らかな困惑の色が浮かぶ視線を、世凪へ向けてくる。
 柚巴自身も、どうすればよいのかわからなくなってしまっているのだろう。
 ――事実、わからない。
 抗わなければならないはずなのに、このぬくもりは、柚巴にはどうにも手放しがたい。
 そのような柚巴に、世凪の胸の内は、かきむしられる。
「……柚巴を……返せ」
 必死に怒りと衝動をおさえこみ、世凪は声を押し殺すようにそうはきだす。
 気を少しでも抜けば、自分でも自分をおさえきれなくなることに気づいているから。
 使い魔たちは、ただはらはらとした思いで、世凪を見守ることしかできない。
 もう、誰もがわかってしまっていること。
 柚巴を失った世凪は、誰もとめられない。
 あとは、壊れていくのみ。
 世界を道連れに。
「王子さんよ。頼むから、まだ暴走しないでくれよ……」
 だから、唖呂唖も、思わず、そうこぼしてしまっていた。
 比礼界でのあの別れ際、限夢界が比礼界の二の舞にならないと確信したのは、それは、傍らに柚巴がいたから。
 その少女がいたから、だから唖呂唖は大丈夫だと思った。
 しかし、その少女を失ったら……?
 保証などない。
 あの少女は、世凪という名の魔物をつなぎとめておく、鎖のような存在だから。
 鎖を失い、魔物が暴れ出せば、もう誰もとめられない。
 世界は、終わる。
 たった一匹の狂気の魔物のために。
「残念だけれど、それはできないよ。帰ってくれない? 柚巴は、僕のものだから」
 そう言って、ケイカ・ユリウスは、柚巴の髪に指をからませ、顔をうずめていく。
 やはり、愛しそうに。慈しむように。
 もうずっと、そうして柚巴に触れたかったと。
 それでも柚巴は、困惑の色を見せるだけで、抗う様子はない。
 びりり……と、その場に電撃がはしった。
 同時に、使い魔たちを、痛みが襲う。
 それは、世凪からあふれでる怒り。
 それが、彼らをも痛めつける。
 ……やはり、見境がなくなっている。
「君達は、もういらないのだよ。さっさと消えちゃってくれないかな?」
 指にからませた髪をもてあそびながら、ケイカ・ユリウスは蔑みの眼差しを世凪へ向ける。
 そう。もう、世凪など必要ない。
 ……いや。世凪だけでなく、そこにいる者全てが。
「結局、たどる道は同じなのだよ。それが、五百年前から今まで先延ばしされたというだけで」
 柚巴のやわらかな髪や肌になめるように触れながら、ケイカ・ユリウスはたんたんと語っていく。
 その行為が続けば続くほど、使い魔たちの緊張も頂点へと達していく。
 いや、すでにもう、ピークを越えているかもしれない。
 いつこの目の前の魔物が暴れ出してもおかしくない。
「我々は、世界の均衡をたもたせてあげるのだよ。もうすでに、最後の審判は下されているのだから」
 比礼界は、王がすべての引き金を引いた。
 自らの野心のため、民を顧みず、世界は乱れていった。
 そしてついには、その首を掻っ切られてしまった。
 それは、自業自得。
 その愚かな王にかわり、新しい王がたったとしても、結局は同じ。
 その者もまた、自らの欲望に狂うだろう。
 そして、限夢界。
 その世界も、欲望にまみれた汚らわしい世界。
 貧富の差が激しい。
 この場にいる者たちは、富める者達。
 しかし、今こうしている間にも、限夢界の城下の裏通りといわれているそこでは、一人、また一人と、貧しさにまけて命を失っていることだろう。
 かたちは違えど、結局、どちらの世界も同じ。
 その罪深さは変わらない。
 汚れた者たちが支配する世界。
 そんな世界の犠牲に、この汚れなき柚巴をさせるわけにはいかない。
 柚巴は、天上界……ケイカ・ユリウスにとって、特別な存在だから。
 ……よって、審判はそう下された。
 二つの世界を、滅びさせよと。
「どちらにしても、君達はともには生きていけない。ならば、同じでしょう? 限夢界の王子様。君といては、柚巴は不幸になる」
 たとえそれがなくても、結局はたどる道は同じ。
 ともに同じ時間の流れを生きることはできないのだから。
 それで愛しい柚巴が苦しむのは、不幸になるのは、たえられない。
 ならば、ゆっくりと、恐ろしいほどゆっくりと時が流れるこの天上界で、ケイカ・ユリウスとともに過ごした方が、柚巴は幸せになれるだろう。
 たった百年の寿命が、その何十倍、何百倍とのびるのだから。
 この世界は、そのような奇跡をも起こせてしまう世界だから。
 そして何より、柚巴を誰の手にもわたしたくない。
 ケイカ・ユリウスよりも、柚巴を幸せにできる者以外には。
 生れ落ちたその時から、ずっと見守っているその存在。
 誰よりも、何よりも、愛しいその存在。
 ケイカ・ユリウスのその言葉が世凪にとどけられた瞬間、世凪の頭の中は真っ白になってしまっていた。
 それは、まがうかたなき事実。
 柚巴と世凪は、ともに生きることができない。
 その大きすぎる寿命の差のためだけに。
 そして、それに、柚巴は苦しんでいる。
 ……だけど、待て。
 本当に、そうなのか?
 本当に、たかが寿命の差ごときで、柚巴は不幸になるのだろうか?
 ――違う。そうではないはず。
 そのようなことよりも、もっと大切なことがあるはず。
 それは……。
「……世凪」
 ケイカ・ユリウスの腕の中にいる柚巴が、不安げにそうぽつりとつぶやいた。
 瞬間、世凪の胸に広がる、優しいぬくもり。
 心に響く、そのかわいらしい声。
 胸に染みる、その汚れない眼差し。
 包み込む、その愛しい存在。
「世凪」
 そうして、再び、愛しい少女は、優しく、求めるようにその名を呼ぶ。
 ちゃぷーんと、胸の内で雫が落ち、波紋を描き広がっていく。
 それで、十分ではないか。
 それが、すべてではないか。
 それさえあれば、何も恐れることはないではないか。
 何があっても、世凪には柚巴が必要で、そして、柚巴にも世凪が必要だということだけで。
 ぎゅっと柚巴を抱きしめるケイカ・ユリウスをまっすぐににらみつけ、世凪はきっぱりと言い放つ。
 天上界に吹く風にその身をまかせ。
 おぼろな風が、世凪を包み込む。
「俺は、もう望まない。どのようにしても手に入れられないとわかっているものなど。柚巴以上に、ほしいものはないから。それが、俺の全てだから」
 そうして、ゆっくりとケイカ・ユリウスへ歩み寄っていく。
 まっすぐと、ケイカ・ユリウスをその眼差しで射抜き。
 その腕の中では、相変わらず、柚巴が戸惑ったように世凪を見つめている。
 一体、どうしたというのだろう。
 このような柚巴、今まで見たことがない。
 柚巴ならば、抗い、その腕の中から抜け出すことも可能だろうに。
 まるで、思いはここにあるけれど、意識がどこか遠くへ行ってしまっているかのように見える。
 今は、ただそれだけが、世凪のきがかり。
 ……今の柚巴は、まるで、何かの時を待っているかのよう。
 目覚める、その瞬間を。
「寿命なんてくそくらえだっ。そんなものがなくたって、柚巴とともに生きる時間、一つ一つを大切に生きれば、それですむことじゃないか」
 何故、今まで、そのような簡単なことに気づかなかったのだろう。
 全てはそこからはじまり、全てはそこにいきつく。
 寿命の差なんて、取るに足らないどうでもいいこと。
 大切なのは、抱くその思い。
 一つ一つの時間を、大切に生きていくこと。
 限られた時間でも、誰よりも何よりも愛しいその存在と、ともに過ごせるなら、それで救われるではないか。満たされるではないか。
 世凪が望むものは、柚巴だけなのだから。
 柚巴の笑顔と、幸福だけなのだから。
 ちっぽけなそんな不安、自らの手で消し去ってやる。
 もう、何かに、誰かに望むことは、しない。
 欲しいものは、自分の手で手に入れる。
 どんなことをしても。
「馬鹿馬鹿しい。限られているからこそ、大切にできるというものだ」
 そう言って、一気にケイカ・ユリウスの胸の中の柚巴に、腕をのばしていく。
 さあっと、花の香りをふんだんにふくんだ風が、通り過ぎていく。
 すべては、その愛しい存在のために。


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update:06/10/18