女神覚醒
(1)

 世凪の頭上から広がったそのひずみは、次第に規模を増し、この天上界すべてを覆いつくす勢いにある。
 見渡す空、全てが悲しい色に染まっている。
 吹き荒れる、風。
 すべてをのみこむ、風。
 世凪に与えられた運命をつきつけられ、誰もが絶望の淵に立たされる。
 荒ぶる神を目覚めさせてしまった今、もう誰もそれをとめられない。
 全ての者が、全ての望みを失った。
 しかし、そのような時、必ず奇跡は起こる。
 限夢界の閲覧禁止の書庫に眠る書物の一つに、そう記されていたではないか。
 ケイカ・ユリウスの名を記した、その書物に。
 その名とともに。
 ――それは、目覚めの時。
 少女が孵化する時。
 すべての運命に導かれ。
 まわりだした歯車に(いざな)われ。
 時が満ちた時、その奇跡が、姿を現す。
 ――それは、孵化をむかえる前の準備期間。
 生まれた瞬間、蝶がはばたく。
 ケイカ・ユリウスの腕の中でうつろな目をした柚巴の体が、びくんと震えた。
 そして、次の瞬間、その目はたった一つを見つめ、焦点が定まる。
 たった一つを見つめ、たった一人を見つめ。
 それが、全てだとその目が告げる。
「このようなことくらいで、何をうろたえているのです」
 希望を捨てた使い魔たちに、その言葉が投げかけられる。
 なめらかにからめるケイカ・ユリウスの腕を解き放ち、その腕の中からすり抜けてくる。
 そして、もてる限りの体、心を使い号泣している、その悲しき定めの王子へと歩み寄っていく。
 その前に、立ちはだかる。
 気高く。凛々しく。神々しく。
 何よりも、美しく。
 長い眠りから、その女神が目を覚ました。
 むかえた、覚醒の時。
「やめなさい。そのようなことをしては、あなたが傷つく。――心優しき王子よ」
「え……? 柚巴?」
 それまでおぼろだった柚巴を、世凪はその目にしっかりとおさめる。
 そして、すぐ目の前にたたずむ、その少女に手をのばしていく。
 すると、触れることができる。
 もう、二度と触れることはかなわないと諦めかけていたその少女に、触れることができる。
 しかし、次に少女の口からもたらされたそれは、世凪に大きな衝撃を与えた。
「わたしは、女神・ファンタジア。世界の危機を救いにきた者――」
 妙におだやかに、だけど冷たく、そう告げられた。
 そこに立つのは、柚巴ではなかった。
 柚巴の姿かたちをした、まったくの別人。
 だって柚巴は、こんなにも冷たい眼差しで、世凪を見ることはないから。
 ふれるその手を、優雅に振りほどいていく。
 振りほどかれた手を、世凪は思わず凝視してしまった。
 このようなことが、あるはずがない。
 柚巴が、世凪の手を振りほどくなど……。
 しかし、今は、それが現実。
 その目は、たしかに世凪を映しているのに、その心は、世凪を見てはいない。
 その瞬間、悟る。――柚巴はこの世から消えた。
 ファンタジアという名の女神が、柚巴を連れ去っていった。消してしまった。
 世界が、終わりを告げる。
 世凪の、世界が――
 同時に、世凪の頭上から広がっていたその渦は、次第に勢力をよわめていく。
 ……奇跡が、起こった。
 すべてをあきらめた今、奇跡が起こった。
 それは、何故? どうして?
 世凪の世界は終わりを告げたのに、それなのに、何故、奇跡が?
 世凪の世界が終わりを告げたからこそ、狂気の証のその渦が消えていくのだろうか?
 ……崩壊をむかえ、そして無に帰していくということ?
 すべてが消え去れば、あとに残るものはない。
 誰もが、呆然とその光景に見入ってしまっていた。
 急速に、渦が消えていく。
 そこにいるのは、もう柚巴ではない。
 柚巴は、この世から消えてしまった。
 それが、誰にでもわかる。
 柚巴は、そんなに冷たい目で世凪を見たりなどしないから。
 そして、思い出す。
 限夢界のたくさんの書物にかかれた、その名を。
 奇跡の女神・ファンタジア。
 またの名を、不幸と恐怖の象徴。
 彼女が現れる時、それは、世界の終わり――
 限夢界が危機にひんする時に現れるという、奇跡とともに恐怖の象徴とされる女神が、とうとう現れた。
 しかし、それは、思っていたよりも、もっとずっと……。
 いや、まったく違うもののように思う。
 だって、こんなに美しく輝き、清浄な気をまとっているのだから。
 神々しさ、汚れなさ、気高さを兼ね備えた、孤高の女神、ファンタジア。
 ……ただ、その目だけは、冷たい。


 全てのものの前で、今奇跡が起こる。
 彼らは皆、奇跡の証言者となる。
 彼女こそが、生きる奇跡――


 世凪からすいっと視線をそらし、女神・ファンタジアは、ケイカ・ユリウスへ移す。
 すると、ケイカ・ユリウスの体が一瞬びくんとふるえ、身構えた。
「ユリウス。そろそろよいでしょう。あなたが望んだ結果は、もう得られるはずよ。……そう。もうすぐ」
 神秘的な気をまとい、ファンタジアはケイカ・ユリウスにそう告げる。
 破壊に魅入られし神によって崩壊された、この荒野に凛と立ち。
 ケイカ・ユリウスは、自らの腕の中で(かえ)してしまったその女神を、苦しげに見つめる。
「……ファンタジア……」
 そう、名をつぶやいて。
 そして、ふいっと視線がそらされる。
 ……まだ、得られていない。
 本当に欲しいものは、まだ得られていない。
 ケイカ・ユリウスが真に望むものは――
「あなたは、柚巴が好きなのね?」
 その思いを知っているのか、ファンタジアは、静かにそう告げる。
 また、ケイカ・ユリウスの体がびくんとふるえた。
 同時に、この光景にようやく慣れはじめた使い魔たちも、彼を注視する。
 これから、一体、何がはじまるというのだろうか。
 皆、乱れた己の姿を整えることも忘れ、それに注目する。
 体のあちこちに、無残に散らされた花びらが、まとわりついている。
 まっすぐに、見透かすように見つめてくるファンタジアのその瞳に、ケイカ・ユリウスはとうとう折れてしまった。
 相手が神なのだから、しかもそれは、あの女神・ファンタジアなのだから、逆らえるはずがない。
 そして、彼女は知っている。
 ケイカ・ユリウスの真の望みを。
 ……彼女こそが奇跡なのだから、知らないはずがない。
「……ずっと見てきた。幼い頃から。だから、柚巴が傷つく姿など見たくなかった。寿命が違うのに、愛し合うなんて……。柚巴は、誰よりも幸せにならなければいけない」
 まとう比礼が、力なく、肩からずり落ちていく。
 そして、淋しく、白亜の床に広がる。
 無残に引きちぎられ、散らばった花々とともに。
 その床に一瞬目をやり、そしてまた、ファンタジアへと視線を戻してくる。
 戻してきたその視線が、悲痛に泣いていた。
 そして、すがるように、ファンタジアを見つめる。
「女神・ファンタジア。あなたは、奇跡の女神だろう? ならば、奇跡を――」
 柚巴に、奇跡を与えてやって欲しい。
 柚巴が最も願う、その望みをかなえてやって欲しい。
 大切な者と、同じ時間の流れを生きるという、その奇跡を……。
 しかし、ファンタジアは、その哀願を、残酷に拒絶する。
 ……いや。拒絶したのではない。
 ファンタジアとて、それはできない。不可能。
 だって、ファンタジアはもともと――
「――ファンタジア。それは、幻想。決して、奇跡などではない。本当の奇跡は、あなたたちの思いの強さが起こすもの。わたしは、奇跡は起こせない。ただ、きっかけを与えるのみ。だから、ファンタジア――幻想なの」
 淋しげに、ファンタジアはそう告げる。
 ――それが、真実。
 恐れられてきたファンタジアの、本当。
 その真実をつきつけられ、そこにいる誰もが愕然となる。
 これまで、自分たちが抱いていた、その間違った認識に。
 彼女は、決して、不幸と恐怖の象徴などではなかった。
 そして、奇跡の女神でもない。
 それは、思いの強さが、心の強さが、かたちとなったもの。
 奇跡の女神・ファンタジア。
 ようやく、その名の意味がわかった。
 そして、何故、彼女が、奇跡の女神と呼ばれるのかも。
 なんという愚かしい認識だったのか。
 彼女は、奇跡の女神などではない。
 ただただ、優しいだけの存在。
 人々の思いの結晶。
 すべての優しさの象徴。
 冷たい目をした、だけど誰よりも熱い瞳を持つ女神。
 かたちのないものだから、だから、幻想。
 ファンタジア――


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update:06/10/31