女神覚醒
(2)

 すべての絶望をその胸に、すべての悲しみをその腕に抱いたように、ただそこにたたずむ世凪に、再びファンタジアが振り向いた。
 そして、ゆっくりと歩み寄っていく。
 世凪は、ただそれをぼんやりと見つめることしかできない。
 柚巴が、ファンタジアだった。
 同時に、世凪の愛しい柚巴は消えてしまった。――永遠に。
 だって、世凪は知っているから。
 もう一人。同じように、神になった人間を。
 彼は、二度と、人に戻ることはない。
 世凪へと歩み寄ったファンタジアは、そっとその胸に自らの体をすり寄せる。
 そのぬくもりを、再び感じるために。
 つうと、頬を、一筋の涙が伝う。
「寿命が違っても、それでも、柚巴は幸せなの。大切な人と、生きられるというだけで。……それに、ようやく気づいたの」
 そう言って、ファンタジアは、ぎゅっと誰よりも愛しい者の胸を抱きしめる。
 瞬間、世凪は目を見開く。
 体が、がくがくと震えだす。
「……柚……巴?」
 奇跡が、起こった。
 その奇跡に、世凪の体がふるえる。
 それは、恐怖からくるものでは決してない。
 喜びからくるもの。
 喜びに、体がふるえている。
 だって、こうして世凪を抱きしめる少女は、たった一人、柚巴しかいないから。
 消えてしまった柚巴しか……。
 世凪を見つめるその瞳は、優しい。
 頬を伝う涙が、愛しい。
「うん」
 きゅっと胸に顔をおしあて、ファンタジア……柚巴は嬉しそうに微笑む。
 ――消えてなどいなかった。
 たしかに、今、この胸に、その愛しい少女がいる。
 この奇跡があるならば、この愛しい存在が手の中にあるならば、もう、苦しい過去に振りまわされたりはしない。
 この小さな光がある限り、道を誤ったりはしない。
 ……今、そう確信できる。
「寿命なんて、そんな些細なこと、気にしちゃだめだって、ようやく気づけたよ。柚巴は、世凪がいれば、幸せになれるの」
 その言葉にはじかれるように、世凪の両腕が、がっちりと柚巴を包み込む。
 壊れた、暴走した心が、凪いでいく。
 その光景を見て、ケイカ・ユリウスは苦く笑う。
 そして、諦めたように切なげな眼差しを柚巴へ送る。
 いつの間に、ファンタジアから、また柚巴に戻ってしまっていたのだろうか。
 目覚めたはずなのに、だけど、彼女は神に打ち勝ってしまった。
 かつて神になった人と、同じ(てつ)は踏んでいない。
 こうして、ただ愛しい者のぬくもりをもう一度感じるためだけに、戻ってきた。
 ――それこそが、思いの強さというものなのだろう。
「なら、いい。柚巴が、それで幸せなら……」
 ケイカ・ユリウスは、淋しげな眼差しで柚巴を見つめ、そして大きく息をはきだした。
 どこか満足したように微笑む。
 本当は、それが、それこそが望み。
 柚巴の幸せが……。
 だって、ケイカ・ユリウスは――
「本当は、僕が君を幸せにしたかったのだけれどね……」
 するっと世凪に抱きしめられる柚巴にすりより、ケイカ・ユリウスはそうささやく。
 そっと、その耳元で。
 ――それが、未練。
 ケイカ・ユリウスを凶行にかりたてた、本当の理由。
 ケイカ・ユリウスがそばに寄ってきたというのに、何故だか、柚巴も世凪も、もう彼を警戒していない。
 だって、それは……。
「もう十分でしょう。姫野さん……」
 ケイカ・ユリウスの背後で、静かにそう告げる声があったから。
 それに、柚巴も世凪も気づいてしまっていた。
 柚巴が幸せなら、それでいいと言った、その時に。
 ……いや。柚巴にいたっては、この世界に、天上界につれられてきたその時に、気づいていたかもしれない。
 だから、戸惑うばかりで、抵抗できなかった。
 柚巴を見つめる瞳は、いつも、まるで我が子を見守る母親のような瞳をしていたから。
 とても優しい、凪いだ海のような瞳。
「雫蛇……」
 ケイカ・ユリウスは、ゆっくりと振り返り、そしてそれを告げた男の名をつぶやく。
 それは、天上人の魂を持つ、限夢人。
 彼は、まるで、はじめから、ケイカ・ユリウスをその目にした時から、それに気づいていたよう。
「え!? ひ、姫野って……!」
 その名を聞いた瞬間、弦樋の使い魔たちと由岐耶がうろたえる。
 何しろ、その名は……。
 彼らの主弦樋の、今は亡き妻の名だから。
 そして、柚巴の母の名――
「やはり、あなたにはわかってしまうのね。雫蛇……」
 ケイカ・ユリウスは、少し困ったように、ふうっとため息をもらした。
 それは、仕方がないこと。
 同じ、天上人の魂を持つ者なのだから、彼が気づかないはずがない。
 それとともに、ケイカ・ユリウスの姿は、ゆがんでいく。
 しかし、それはすぐに、また違うかたちとなって現れた。
 髪の長い、人間の女性。
 柚巴と面差しがよく似た、優しい空気をまとう女性……。
「ええ。天上界とはもともと、強い未練を残した魂が生きる世界ですから」
 その女性に、雫蛇は妙に穏やかに微笑みかける。
 ――そう。天上界とは、もともとそのような世界。
 強い未練を残した魂が集う場。
 そして、その未練が成就された時、ようやく天へと昇っていける。
 来世へと、思いを託し。
 雫蛇は、そのような未練を残した魂によって、かつて命を救われた。
 だから、わかった。
 雫蛇を救ってくれた魂の正体、そして、あの時、あの魂は、天へと昇っていけたのだと――
 ゆっくりと、世凪の腕の中から、柚巴の体がケイカ・ユリウス……姫野へとわたされる。
 柚巴も自ら、その胸の中へと飛び込んでいく。
 頬を伝っていた涙を、きゅっとぬぐって。
 だって、もう涙など必要ないから。
 そして、互いにぎゅっと抱きしめあう。
 それは、もう二度とかなわぬと思っていた、母と娘の抱擁。
 どうして、何故、ケイカ・ユリウスに抱かれた時、柚巴はその魂にはっきりと気づけなかったのだろうか。
 心のどこかでは、気づけていたのに。
 それが、こうなった今では悔やまれてならない。
 それにもっと早く気づけていれば、もっと違ったかたちとなって今があったかもしれないのに。
 こんなに、苦しまずにすんだかもしれないのに。
 ……いや。むしろ、こうなってよかった?
 だって、これがあったからこそ、気づかなかったからこそ……。
「ごめんなさい。見極めたかったの。わたしの大切な娘が、本当に幸せになれるか……」
 柚巴の頬を、姫野はふわりと優しく包みこむ。
 ――それが、姫野の未練。
 だから、試してしまった。
 このような残酷な手段をとって。
 だけど、これくらいの困難をのりこえてくれる相手でないと、大切な娘は託せない。
 それが、世界をこえた思いならば、なおのこと。
 のりこえてほしかった。
 のりこえてはじめて、二人は幸せになれるから。
 一度のりこえられれば、もう二度と暴走しなくてよいはずだから。
 そして、その望みは、かなえられようとしている。
「お前がケイカ・ユリウスでないというなら、では、本当のケイカ・ユリウスは……?」
 柚巴を抱く姫野に、世凪が訝しげに問いかける。
 たしかに、ケイカ・ユリウスでないというなら、本物のケイカ・ユリウスは今どこに?
 あの男が、そう簡単に、自らの野望をあきらめるとは思えない。
 五百年前のあれは、本当にひどいものだったと聞くから。
 世凪からふっと視線をそらし、淋しげに姫野はこたえる。
「もうすでに、生まれ変わっていると思うわ。五百年前に、その強い意志によって、自らの復讐を遂げようとしたその男は、その直後、天へ昇っていったと聞くから。……その理由まではわからないけれど」
 ふわりと柚巴のやわらかい髪をなで、姫野は優しく見つめる。
 ずっとこうして抱きしめたかった我が子を感じるために。
 しばらく見ないうちに、ずいぶんと成長した。
 女性らしくなった。
「では、どうして、わざわざ、その男の名を騙った?」
 しかし、その少しの至福の時を邪魔するように、王子は質問ぜめにしてくる。
 ……まあ、それは、仕方がないことだとわかっているけれど。
 自らが今回しでかしたこれが、いかに重大なことか、姫野はよくわかっている。
 だけど、そうせずにはいられなかった。
 この、世界を隔てた愛しい恋人たちを思えば。
「そうすれば……あなたたちは気づくでしょう? あなたたちの運命に」
 ――そう。気づいて欲しかった。
 彼らにのしかかっている、その運命に。
 そして、それをのりこえてほしかった。
 できるだけ、はやく。
 だって、そうしないと……。
 姫野は、柚巴の幸せを見届けぬまま、天上界をさらなければならないから。
 それだけは、たえられない。
 ただでさえ、まだ幼いうちに別れなければいけなかったのだから、せめて、その幸せだけは見届けたかった。
 先ほどはあのように言ったけれど、強い未練を残し天上界へやってきた魂も、時がくれば、天へ昇らなければならなくなる。
 そうでないと、この地は、未練を残した魂たちで、うめつくされてしまうから。あふれかえるから。
 ……昇華の時まで、ただ少しの猶予が与えられるというだけ。
 だからこそ、姫野には、時間が残されていなかった。
 ケイカ・ユリウスは、与えられた少しの時間を、有効に使うことができなかっただけ。
 あまりにも邪悪すぎたその野望のために。
 彼の野望はとげられぬまま、天へと昇っていった。
 ただ、それだけ。
 それが、本当。
 だから、もう時間が残されていない姫野には、こうする他なかった。
 たとえ、犠牲が生まれようとも。
 あの神と名乗る不思議な者の力をかり。知恵をかり。
 ――生まれた犠牲も、また再生するとわかっている。だってそれは、神が導いたものだから――
 もっとも大切なものを守るために。
 強すぎる力を持って生まれたがために、課せられた破滅。運命。
 それから、二人を救いたかった。
「あなた方は、知らなかったのでしょう? 限夢界の王子と柚巴が、逃れられなかった運命を。――王子は、その身に破滅を宿している。それから、あなたたちを救いたかったの」
 ゆっくりと、姫野は胸の内から柚巴を解放していく。
 そして、託すように、世凪の胸の中へと移していく。
 柚巴は、もっとその胸におさまっていたいと、その目で訴えているけれど……だけど、もうそれはできない。
 時が、きてしまったから。
 時が、満ちてしまったから。
 だから、柚巴は、訴えているのだろう。
 そのことに、気づいてしまったから。
 時がきた姫野は、あとは、本来あるべき場所へ、帰すのみ。


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update:06/11/08