君色たんぽぽ

 その花の名は、たんぽぽ。
 その花の名も知らずに、その花を愛してしまった。
 愛の信託、そして別離という言葉を持つその花。
 一体、その花は、どちらの言葉を運んでくるのだろう?


「由岐耶さん、スト〜ップ!!」
 緑の地面で、一歩足を踏み出そうとした時だった。
 背後から人の気配がしたかと思うと、その気配は、ばっと由岐耶の右腕をつかむと、ぐいと後ろに引っ張った。
 その拍子に、体がよろりと後ろによろめいてしまった。
 よろめきながら、右ななめ下に視線を送る。
 腕を引かれ、声をかけられたそこは、人間界は御使威家、ちょっとした森や、大きな欧風様式の屋敷の間に、顔をのぞかせるようにしてある小さな野原のような庭だった。
「ひ、姫さま!? びっくりするではありませんか」
 動揺したような声色でそう言葉を発するが、その表情はまったく驚いてはいない。
 姫さまと呼ぶ、そのまだあどけない少女に声をかけられ、そして腕をつかまれ、内心うれしい気持ちのドキドキでいっぱいだから。
 御使威家。
 それは、彼、由岐耶の本来の居場所、限夢界と人間界を結ぶ唯一の媒体。
 由岐耶たち限夢人は、人間界でも限られた一族、御使威家の者と契約を結ぶことによって、使い魔≠ニ呼ばれる存在になる。
 そして、使い魔になった限夢人は、その特権として人間界へやってくることができる。
 何故それが特権かということは、彼ら使い魔は口をつぐみ、決して語ろうとはしない。
 彼らと契約を結んだ人間は、彼らの主となる。
 彼らは、その主に仕える。
 だから、使い魔と呼ばれている。
 限夢人が住む世界、限夢界は、人間界からすると異世界。
 そこでは、限夢宮と呼ばれる王宮を中心に王政がしかれている。
 また、限夢人は、不思議な力を持ち、その優劣によってランクづけされている。
 より力の強いものが富や権力を持ち、力のないものは虫けら同然の扱いを受ける。
 そんな理不尽な世界が、限夢界。
 由岐耶が姫さまと呼ぶその少女もまた、この御使威家の人間だった。
「ごめんなさい。だけど……踏んで欲しくなかったから……」
 少女は肩をすくめる。
 しかし、まったく悪びれた様子はない。
 由岐耶は少女の言葉を聞き、自分の足元に目をやった。
 すると、左足すれすれ一センチ横に、小さな黄色い花が一輪咲いていた。
「……たんぽぽ……?」
 由岐耶はぽつりとつぶやく。
 すると少女は、由岐耶の腕からぱっと手を放し、由岐耶の顔をのぞき込むように言う。
「うん。たんぽぽ。こんなに小さな命だけれど、大切にしたいじゃない?」
 少女は、たんぽぽのような、かわいらしく可憐な笑顔を見せると、屋敷の方へとかけて行った。
 その時ちょうど、屋敷の中から彼女を呼ぶ声が聞こえてきていたから。
 由岐耶は走り去る少女の後ろ姿を見つめる。
 どこか焦点のあっていない眼差しで。
 由岐耶の唇が、小さく振動する。
「――そういえば……」
 腰をまげ、そっとたんぽぽの花に触れる。
 その花は、黄色い花びらから白い綿毛に変化する、いつかは旅立ってしまう花――


 たんぽぽ……。
 たんぽぽを見ると、必ずといってよいほど思い出す。
 あの時のことを。あの小さな黄色い花を愛した瞬間を――
 今ではもうよい思い出となりつつあるが、それでもなお、この花を見る度に、胸はきゅっと小さな悲鳴を上げる。
 それほどまでに、このたんぽぽというちっぽけな花は、その小さな存在に相反し、心をとらえてしまっている。
 たんぽぽとは、少女に似た、不思議な花である。
 そう思うのはやはり、この花との出会いが影響しているのだろうか?


「竜桐さま! 正気ですか!?」
 限夢界の中心、限夢宮の中庭でそう大声を張り上げた。
 まわりに人はいない。
 王宮は、普段からあまり人と会うことのないところである。
 まして中庭ともなると、めったに人がやってくることはない。
 王宮は、限られた人間しか足を踏み入れることのできない場所だから。
「当たり前だ。わたしはあの方に感銘をうけた。あの方ならば仕えてもよい。……いや、あの方に仕えたいのだ。忠誠を誓いたいのだ」
 竜桐は彼には似合わずうっすらと優しげな笑みを浮かべ、思い出すかのように幸せそうに言った。
 由岐耶には、それが理解できなかった。解せなかった。納得できなかった。
 竜桐ほどの地位も力もある者が、何故、人間如きに仕えるというのだろうか?
 竜桐にはプライドというものがないのか!?
 そして由岐耶は、そんな人物に今まで仕えてきたのか!?
 それは、自分自身をも信じられなくなった瞬間だった。
 竜桐を尊敬すればするほどに……。
「……それは、王よりも大切だということですか?」
 由岐耶は悔しそうに顔をゆがめ、竜桐をにらみつける。
 自分の上司である竜桐をにらみつけずにはいられないほど、由岐耶の心は乱れてしまっている。
 竜桐は、限夢界でも有名な堅物。
 彼は、恐ろしいほど王に忠実で、決して王を裏切ったりはしないものだと、彼を知る誰もが思っていた。
 王宮に仕える者にとって、王に仕えることは生きがいそのものだから。
 そんな忠実という言葉が動いて、歩いているような人物が竜桐。
 竜桐は、ふうと小さなため息をもらした。
「お前はわかっていない。お前の中にはまだ、人間は我らに劣る……。そのような考えがあるようだな」
「事実、そうではないですか!? 人間は弱い。脆い。何の力もない! 何故、そのような者を、我々が命をかけて守らねばならないのですか!? いくら我らに利益があるとはいえ、命をかけるような価値はありません!!」
 由岐耶は半分我を忘れ叫んでいた。
 彼のプライドが、人間に仕えるというその行為を、体いっぱいで嫌悪している。
 竜桐は困ったようにぽんと由岐耶の肩に触れた。
 すると、由岐耶は驚いたように竜桐を見つめる。
「わたしは気づいてしまったのだよ。……人間の心に触れて……。――人間には、我々にはないものがある」
「……わかりません。竜桐さまのおっしゃっている言葉の意味が、わたしにはわかりません」
 由岐耶は苦渋の表情を浮かべ、ぷいっと竜桐から顔をそらした。
「それでもかまわない。誰に何と言われようとも、わたしの決意は変わらない。わたしは、あの方に仕える」
 竜桐はそう言うと、由岐耶の視界の隅で、景色にとけ込むように姿をゆっくりと消していった。
 由岐耶はその光景を、呆然と小さな世界でとらえていた。
 それが、今から十八年程前のことである。
 彼らの寿命からすれば、ほんの少し前のこと。
 数にもならない、小さな時間。


 翌日、由岐耶は目の当たりにしてしまった。
 いちばんみたくなかった光景を。
 それは、限夢界の城下を、竜桐が青年とも壮年ともとれる、そんなあやふやな年頃の男をうやうやしく敬いながら、ともに歩いている姿だった。
 その男は、彼が嫌う人間だった。
 彼らが歩くそこは、限夢界でも上流階級の者たちが集う、表の城下。
 裏の城下は、これに対極する。下層階級の世界。
 由岐耶は一瞬にして、地獄に突き落とされてしまったような気がした。
 同時に、思考が停止し、真っ白になったその頭のまま、つかつかと竜桐たちに歩み寄る。
 そして、ぐいっと人間の男の襟をつかみ上げ、叫んでいた。
「わたしも、お前の使い魔になってやる! お前など認めてはいないが、わたしはどこまでも竜桐さまについていくと決めているからな!!」
 それは、使い魔の契約を結ぶのではなく、喧嘩を売っている姿そのものだった。
 由岐耶は人間を嫌っているにもかかわらず、ただ悔しいと、納得がいかないというその一心だけで、衝動的に、そんな彼の人生を左右するような重大なことを決めてしまった。
 一度契約の言葉を出すと、限夢人にはもう撤回することは許されていない。
 人間の男はよほど人ができているのか、いきなり歩み寄り自分の襟をつかまれ、そんな暴言をはかれたにもかかわらず、うっすらと柔らかな微笑すら浮かべている。
 男にはわかっていたのだろう。由岐耶のその衝動が。
「そうか。じゃあ、お願いするよ」
 その言葉が、由岐耶の怒髪天をついてしまったことは言うまでもない。


 それから数ヵ月後。
 あの人間は、彼と同じ人間の娘と永遠の愛を誓った。
 由岐耶にはその行為が納得できなかった。
 何故、人間は、こんなに簡単に、惚れたはれたと言えるのだろうか?
 何故、こんなに簡単に、他人を愛することができるのだろうか?
 限夢人には、その長い長い生のためなのか、そのような感情が薄かった。
 限夢人たちは、簡単に他人を好きにならない。
 ……もちろんそれは、恋愛……という意味で。
 他の意味での好きならば、彼らもすぐに他人を好きになる。
 だから、男女が生涯の愛を誓い合うその行いが、奇妙な行為に思えてならなかった。
「……まったく解せませんね、人間の行動は」
 由岐耶は、まさしく今、愛を誓い合っている人間たちから少しの距離を置き、横にいる竜桐に言った。
 すると竜桐は、困った奴だな……という視線を由岐耶に向けてくる。
「今に、お前にもわかる時が来る」
 由岐耶たちと人間の間にとられた距離は、二十〜三十人ほどの収容数をもつ海辺の小さな教会の、十字架と出入り口の距離ほどだった。
 その教会は、青く澄み渡った、太陽をいっぱい浴びた海のすぐ横、海を臨む場所にあった。
 まるで、海の中にぽっかりと浮かぶように。
 潮の香りが鼻をくすぐる。


 また月日は流れ、あれから一年が過ぎていた。
 しかし、由岐耶はいまだに人間を嫌っている。
 竜桐への敬意もまた、変わらずあの時のまま。
「由岐耶、お前も来い」
 いつになく険しい顔つきで、竜桐が御使威邸の中心にある、ひときわ大きな扉の前に立っていた。
「嫌です。わたしは入りません」
 由岐耶はつんと顔をそむけ、くるりと体を一八〇度回転させ竜桐に背を向けた。
「いいからくるんだ!」
 竜桐には似合わず、荒々しく由岐耶の右腕をつかみ、数度扉をノックした。
 そして、部屋の中へと、後ろ向きのままの由岐耶をひきずるように入っていく。
 その部屋の中では、彼らの主、御使威絃樋が天蓋つきのベッドの横に立ち、その妻、姫野(ひめの)がベッドに横たわっていた。
 姫野の顔には赤みがさし、生き生きとしている。
「ああ、やっと来たか。ニ人とも」
 絃樋はにこっと笑うと、右手をあげニ人に手招きする。
 竜桐はこくんとうなずき、眉と目を逆八の字につり上げ、口をへの字にゆがめた由岐耶を、後ろ向きのままぐいぐいと引っ張り、絃樋たちのもとまで連れてきた。
 相変わらず、由岐耶の態度は悪い。
「竜桐、由岐耶。君たちは初の対面だね」
 絃樋はそう言うと、天蓋に隠れたベッドの向こうがわにまわり、すぐに戻ってきた。
 ふわふわのやわらかい桃色の布に、ひらひらのレースのついた、六十〜七十センチほどのものを両腕に抱えて。
 そして、竜桐たちのもとまで戻ってくると、そっとそれを竜桐の目の前へ差し出した。
 竜桐は、それに視線を落とす。
「この方が……柚巴さま……?」
 竜桐は何かにとりつかれたかのように、もがく由岐耶をつかんでいた手をするりとはなし、恐る恐るそれに両手を持ってくる。
 そして、そっと触れた。
 その瞬間、いつもどこか険しい表情をしている竜桐の顔が、ふにゃっととろけた。
 それを、由岐耶は見逃さなかった。
「竜桐さま……?」
 由岐耶は怪訝そうに竜桐を見つめる。
 竜桐はそんな由岐耶には気づかず、その桃色の布を絃樋から受け取ると、こわれものでも抱くかのように優しく両腕の中におさめた。
 そして、桃色の布を愛しそうに見つめる。
「お守りします。あなたも、マスターや姫野さま同様……。柚巴さま、あなたもわたしの大切な方です」
 竜桐の目元が、一瞬きらりと光ったような気がした。
 そして、小刻みに竜桐の体が震えだす。
 それを不思議に思った由岐耶は、そろりと竜桐の背後にまわり、そこから肩越しに竜桐の腕の中のものをのぞき込んだ。
「……由岐耶……触れてごらん」
 由岐耶のその行動に気づいた絃樋は、由岐耶に優しく微笑みかける。
 その後ろでは、ふわふわのマシュマロのように、姫野が微笑んでいた。
 由岐耶はぶうっと頬をふくらませると、言われるままその桃色の布へ右手を出した。
 由岐耶には、主である絃樋に逆らうことは許されていないから。
 きゅっと……小さな圧力を、右手の人差し指の先に感じた。
 その瞬間、つうっと、由岐耶の目から一筋の涙がこぼれていた。
 由岐耶の右手人差し指の先には、小さくあたたかな花が咲いていた。
 満面の笑みを持つ、小さな小さな、生まれたての花が。
 その生まれたての花は、手に小さな黄色い花を握っている。
 先ほど、使用人の一人がこの黄色い花を庭から摘んできて、そして試しにミルクのにおいがするその小さな花に差し出した。
 すると、黄色い花をきゅっと握って、それからはなそうとしない。
 その姿が、何とも愛らしい。
 由岐耶は、その黄色い花の名をまだ知らない。
 人の体温を感じた瞬間、由岐耶の凍てついた心が、瞬時にとかされたようだった。
 彼に足りなかったもの、それは他人との触れ合い。
 生まれたその時から個人主義の限夢人にとって、それは当たり前のように足りていない。
 竜桐はそれに、由岐耶よりもほんの少し早く気づいたというだけ。
 この世でいちばんあたたかなもの。
 それは、誰かが誰かを思う、あたたかな心。
 それがピュアであればあるほど、雲のようにやわらかい。
 由岐耶は指先に触れるあたたかなものをきゅっと握り返し、無意識のうちにつぶやいていた。
「……ああ、こういうことだったのか……」


「くす……。また思い出してしまった……」
 まるで自分を嘲り笑うかのように、複雑な笑みを浮かべる。
 それはちょうど、先ほどの少女が屋敷の中へ姿を消して、五分ほどが過ぎた頃だった。
 由岐耶は自分の足元にある、懸命に生きる小さなその花に触れたまま。
 五分間、ずっとその体勢をくずしていない。
 しかし、それがちっとも苦痛に感じない。
「――今はいい。わたしのたんぽぽは黄色。だけど、それが綿毛に変わる頃、わたしは一体、どうなっているのか……」
 由岐耶はそう切なげにつぶやくと、急に気を取り直したようにばっと立ち上がり、そして、ゆっくりと、少女が消えた屋敷へ向かって歩き出した。
 彼の体は、春のあたたかく陽気な中天の太陽の光を浴び、透けるようにきらきらと光っている。
 たんぽぽに似た色の、金の稲穂のような髪を、春のさわやかな風がやさしくなでていく。
 少女は知らない、由岐耶だけが知る、彼と少女を結んだ花が、たんぽぽ。
 由岐耶が絃樋の使い魔になって、十八度目の春。

 たんぽぽがこの小さな野原のような庭から姿を消す頃、由岐耶の愛する少女に、彼女の人生初で最大の災いが降りかかることになる。
 その時はじめて、由岐耶は、彼女に抱くそのざわざわとしてかたちのない感情が何であるか気づくことになるだろう。


 あの時、小さな花に触れた時、自分でも気づいていなかった永久凍土に春がやって来た。
 ピンクの草原に、黄色い小さな花が、たった一輪で力強く花開くかのように。
 力強いが、とてもあたたかく柔らかな花だった。命の花だった。
 この出会いを、思いを、綿毛が風に運ばれ飛んでいき、枯れてしまってもなお、胸に秘めつづけるだろう。
 そして、つぶやく。
 決して手に入れることのできない、その花の名を。

 その花の名は――


君色たんぽぽ おわり

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update:03/07/03