莱牙の女神

 うららかな午前の陽気が差し込むそこは、限夢界の城下にある、さる大邸宅の庭に面したテラス。
「お・に・い・さ・まっ」
 そう言って、屋敷の庭をぼんやりと眺める莱牙の前にいきなり現れた見慣れた幼い顔に、度肝を抜かれ、思わず後ずさってしまった。
 いきなり莱牙の目の前に顔を現したのは、莱牙の妹、華久夜だった。
 華久夜は、にんまりとふくみのある微笑を浮かべ、莱牙を見ている。
 どうにか体勢を立て直し、その現れた華久夜をぎろりとにらみつける。
「――で? 今日は一体、どこへ連れていけと?」
 莱牙はむすっとした顔で、嫌そうにつぶやいた。
 すると、莱牙の言葉を待っていたのか、華久夜はさらににんまりと微笑み、とんでもないことを口にする。
「あら? 今日はそうじゃないわ。ただね、お兄様に死んでもらいたいのよ」
 語尾にはハートマークなどをつけ、華久夜はおねだりのポーズをする。
 さすがに莱牙も、この言葉には絶句して、唖然とし、口をぽか〜んと開けることしかできなくなってしまった。
 いや、唖然とするというよりは、脳の回転が止まってしまったと言った方がいいかもしれない。
 これまで華久夜は、莱牙に、さまざまな無理難題をふっかけてきたが、さすがに今回のこのようなものははじめてである。
 命を差し出せ……。
 そんなことをかわいげにいったところで、まったくかわいくもなんともない。
 むしろ不愉快で、不気味。
 「はい、そうですか」と差し出せるわけがない。
「華久夜! お前はまた、暇つぶしに俺で……」
 莱牙がそう言いかけた時だった。
 何の予告もなく、華久夜は莱牙の顔の前でぼわっと火の玉をつくってみせた。
 そしてまた、にんまりと微笑む。
 莱牙はぞっとした。
 無邪気に「死んでもらいたいの」と言ってしまい、さらにそれを実行しようとしている華久夜に。
 ここまで好戦的な少女も、この限夢界中を探してもなかなかいないだろう。
 いや、いてたまるものか。
 暇を持て余し、ついにはその暇に負け、うさばらしに、華久夜はまた、莱牙をいたぶって遊ぶことにしたらしい。
 これは、この兄妹にとってはごくごくありふれた日常の一コマ。
 華久夜はにんまりと微笑むと同時に、莱牙めがけてその火の玉を放っていた。
 めちゃくちゃ至近距離で。
 まったく容赦を知らないから、こどもは時に恐ろしい。そして、残酷。
 まだ十年とちょっとしか生きていないこの少女は、実に愉快そうに火の玉を放っている。
 もちろん、莱牙は即座にそれに反応し、前髪を少しこがす程度でよけることができた。
 しかし、次の瞬間には、華久夜の長くふわふわの金の髪が、へびのようにうにゃうにゃと莱牙に首にのびてきて、瞬時にまきつきしめつけてくる。
 ぎりぎりと不気味な音をたて、莱牙の首はしめられていく。
「――って、こらあっ! 華久夜!! 俺を殺す気か!?」
「あら? そのつもりなのだけれど?」
 もうひとしめで、おだぶつ……というところで、ようやく華久夜の髪を振りほどくことができた莱牙は、息もたえだえにそう怒鳴りつける。
 そして、華久夜から返ってきた言葉がそれだった。
 華久夜は、むすっと不機嫌な顔で莱牙をにらみつける。
「だって……。暇なのだもの。お兄様が遊んでくれないから」
 まったく……暇というだけで、人を殺してしまえるこの華久夜という少女が、恐ろしくてたまらない。
 まあ、限夢人がこの程度で死ぬわけもないので、莱牙の横に従っている平良も、華久夜の乱行をまったくとめようとはせず、涼しそうな表情を浮かべているのだけれど。
 平良は、この家に、とりわけ莱牙に仕える従僕である。
 華久夜は、そんな平良に向かって、また新しい暇つぶしでも思いついたのか、ぽんと手を打ちにやりと微笑みかけた。
「ねえ、平良。お兄様が好きになる女性って、きっと、女神のような人なのかもしれないわね? だってお兄様、とてつもなくロマンチストのようだものっ」
「何故、そう思われるのですか?」
 平良は少し困ったように、幼い華久夜に微笑み返す。
 華久夜は知らないだけで、実はこの莱牙という傍流においやられた王族は、城下にその名をとどろかせる遊び人である。
 あっちの女性こっちの女性とふらつく、それはもうとんでもない遊び好き。
 そんな莱牙が、まさか一人の女性にしぼるなど、入れ込むなど、誰も思ってもいないだろう。
 しかし、華久夜は平良のそんな思いをよそに、期待に満ちた瞳を輝かせ、平良の答えを待つ。
 もちろん平良の横では、獲物を狙う獅子のような目で、莱牙が平良の姿をとらえている。
 これ以上何か言えば、間違いなく殺される。
 平良の脳裏に、そのような考えがよぎった。
 ぶるぶるっと身震いをする。
 華久夜はあまり外に出してもらえることもなければ、屋敷に仕える者から噂話もきかない。
 いや、噂話はよく聞くのだが、莱牙の噂については、使用人たちは誰も語ってくれない。
 後からそれを知った莱牙に、どのような罰を与えられるか……嫌がらせをされるか、皆心得ているから。
「あら。だって、知っているもの。お兄様ってばね、遊んでいるように見えて、実は夢見る少年なのよ? ずっと、心から愛することのできる、ただ一人の女性だけを探しているの。その女性を見つけるために、お兄様は、いろんな女性を渡り歩いているのよ。――ねえ? お兄様?」
 華久夜はうふふと笑いながら、莱牙の顔をのぞきこむ。
 のぞきこんだ莱牙の顔は真っ赤だった。
 そして、少し、目ににじむものがある。
 どうやら、図星らしい。
「平良! お前、華久夜によからぬことを吹き込んだだろう!!」
 莱牙はぎろりと平良をにらみつける。
 すると平良は、突然責任を押しつけられ、おろおろとうろたえはじめた。
 まったく、平良にとってはとんだとばっちりである。
「あら、違うわよ。お兄様。わたし、お兄様のことだったら、何だって知っているもの」
 華久夜は、平良を守るように莱牙と平良の間にわって入り、きっと莱牙をにらみつける。
 そう言った華久夜の目には、妙に真実味を帯びた光が込められていた。
 恐らく華久夜は、莱牙のことなら何でも知っている、お見通しと考えてもよさそうである。
 莱牙はこの時、このかわいらしい顔をして悪魔の所業を働く華久夜という妹を、真に恐ろしく感じてしまった。
「というか、お兄様。本当に弱いわね? わたしの攻撃もよけられないなんて。前髪、ちりちりよ?」
 そう言って、華久夜はまた話題を先ほどのものへと戻した。
 華久夜がそのように言うということは、どうやら、やはり、うさばらしに暴れたいのだと思ってもよさそうである。
 とにかく何か理由をつけて莱牙をその気にさせ、暴れたいのだろう。
 しかし、莱牙もそうやすやすと華久夜の思惑通りになってやるわけにはいかない。
 この後待っている結末を知っているだけに。
「同じ火系なのだ。どうして火に火で対抗しろというのだ」
 莱牙はもううんざりといった様子で、ひらひらと右手を振り、華久夜を追い払おうとする。
 すると、そのような莱牙の振る舞いにむっときた華久夜は、ふんぞり返り、莱牙を馬鹿にしてふんと笑った。
「あら? 簡単じゃない。わたしより強い力を身につければすむことよ?」
 莱牙は呆れ顔で、この後の言動を期待するように、にやにやと莱牙を見る華久夜を、横目でちらっと見た。
 莱牙の心中は、華久夜の期待するものではなかった。
 そんなことできるか……。
 莱牙はそう思っていた。
 そんなことができるはずがない。
 小憎く、小悪魔のようで、だけどやっぱりかわいいと思ってしまうこの妹を、どうして傷つけることができるだろう。
 ついつい華久夜に対しては、その王族特有の強い力も弱まってしまうというもの。どこか手を抜いてしまうというもの。
 だから今もって、莱牙は、華久夜に力を使った喧嘩で一度も勝ったためしがない。
 華久夜のその柔らかくなめらかな肌にやけどを負わせないように、華久夜のそのふわふわの金の髪をこがしてしまわないように、喧嘩の中でも常に気をつかっている。
 そのことを、当の華久夜は果たして知っているのだろうか?
 そのような思いをよぎらせていた莱牙は、ふっと微笑み、また庭を眺めた。
 その莱牙の、華久夜からしては「まあ、なんて人なの! このわたしを無視してからに!」と思える態度に、華久夜の頭の血管はぷつっと切れた。
 同時に、わなわなと華久夜の体を怒りのオーラが覆っていく。
 それに、莱牙と平良が気づいた時にはすでに遅かった。
 この後、やはり、屋敷中を巻き込んでの華久夜の暇つぶしが実行された。
 大音響とともに屋敷の一部が崩れ落ち、煙を上げる。
 そして、屋敷の三分の一程が破壊され、ようやく華久夜の暇つぶしは終了した。
 もちろん、その結果、この屋敷の主である莱牙の父親に、こてんぱんにしぼられたのは莱牙だけだった。
 こんなことが月に二、三度は繰り返されるから、この屋敷の経済状態は火の車。
 しかし、これまでにけが人が、莱牙以外には出ていないのが不思議なことである。
 また、この兄妹の兄妹喧嘩が原因で、この一家は傍流においやられてしまったと、城下ではまことしやかに噂されている。
 そんなわけがあるはずがないにもかかわらず――

 一通り暴れて、うさもはれ、疲れたのか、華久夜は午後の日差しの差し込むテラスに置かれた椅子の上で、すやすやと寝息をたてていた。
 こてんぱんにしぼられた莱牙が、「腑に落ちん!」と憤りながらそこへやって来た。
 そして、昼寝をむさぼる華久夜を見つける。
「……ったく。寝顔だけはかわいい奴だな」
 華久夜の寝顔を横目でちらっと盗み見て、莱牙はぽつりとつぶやいていた。
 結局、莱牙は、とことんこの凶悪な妹に弱いらしい。
 先ほどとんだめにあっておきながら、もうこんなことが言えてしまうのだから。
 そんな莱牙に、平良の声がかかる。
 平良は、理不尽にも華久夜のかわりにしぼられた莱牙を、なぐさめにやってきたらしい。
 これもまた、いつものこと。
「莱牙さまは、本当に、華久夜さまには弱いですね?」
 平良のその言葉に、莱牙はむすっとして答える。
「当たり前だ。お前も知っているだろう? こいつを本気で怒らせると……」
「ええ……。嫌ってほどに……」
 莱牙の言葉を最後まで聞かずに、平良はどこか遠くを見るようにつぶやいていた。
 莱牙と平良は二人、顔を見合わせる。
 そして、今、二人の眼下で、思う存分莱牙をいたぶり、満足したように無邪気な顔で眠っている華久夜をみて、苦笑いを浮かべる。
 莱牙は、華久夜の頬にすっと手を触れ、優しくささやいた。
「まあ、いいか。こいつが満足できるなら、いつでも、何度でも、何だってしてやるよ」
 あたたかな午後の光が、この兄妹を優しく包み込む。


 これは、莱牙が、王への謁見を嫌がって王宮中を逃げまわり、神域にたどりつき、女神の名を持つ泉の前で運命の出会いを果たす、そんな日の前日の昼下がりのこと。
 そして、この後すぐに、莱牙は彼だけの本当の女神を見つけることになる。
 だけど、とりあえず今は、このかわいい顔して悪行の数々を行う小悪魔華久夜が、彼の女神。


莱牙の女神 おわり

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update:03/10/17