なみだの恋心
(1)

 莱牙さま……。

 耳をすませると、ガラスの天井に打ちつける雨の音がする。
 ぱちぱちとリズムよいささやかな音楽が奏でられている。
 その音楽にまざるように、消え入るような小さな声が聞こえてきた。
 莱牙の名を呼ぶ、胸を締めつけるようなかわいらしい声。
 頼りなく、かすれたようにつぶやかれたそれ。
 ……悲しみに……満ちているようにもとれる響き。

 とても聞きなれた、そして愛しいその声。
 声の持ち主。


 しとしとと雨降るガラス張りのドーム状の温室で、ウッドチェアにだらりとだらしなくもたれかかり、うたたねをしている時だった。
 雨の演奏会の中で、その愛しい音だけに意識を集中させる。
 意外にも花が好きな華久夜のために、この温室はつくられている。
 限夢界特有の花々が咲いている。
 ぴくんとその声に反応し、上体を起こすと、その目にとんでもないものが飛び込んできた。
 そこには、びしょぬれになり、力なく立ちつくす柚巴。
 一体、どこからどうやってやってきたのか……。
 いや。今は、そんなものは、たいして重要なことではない。
 むしろ、もっと大切なことは、優先すべきことは……。
 その頬を伝うものは、柚巴をぬらす雨か、それとも……。
 判別がつかないほど、ぬれ、そしてぼろぼろ……。
 一体、柚巴に何があったというのだろうか。
 すがるように、莱牙を見つめるその目は、ぼやけて見える。
「柚……巴……? お前……。その格好は……?」
 ただ雨でびしょぬれになっているだけのはずなのだが、そこに立つ柚巴に、危ういものを莱牙は感じてしまった。
 そして、ついもらされたその言葉。
 今、莱牙の前に立つ柚巴には、触れれば……触れずとも、砕けて壊れてしまいそうな危うさがある。
 ためらいがちに、ゆっくりと柚巴に莱牙の手がのびていく。
 ウッドチェアから起き上がり、ゆっくりと柚巴へ歩み寄る。
 莱牙と柚巴がいるその温室では、ガラスの天井から、ガラスの壁にかけ、無数の雨の道ができている。
 雨のドーム。
 莱牙が手をのばすと、瞬間、柚巴のその小さな口から、聞き取れるか取れないかの小さな嗚咽がもれた。
 同時に、莱牙は、自らの体に衝撃を受けた。
 抱きついていたから。
 柚巴が、莱牙の胸に。
 どしんと、その体いっぱいで、莱牙を求めるように。
 柚巴の突然のその行動に、莱牙はどうすることもできず、その腕を、手を、ただ手持ち無沙汰に、柚巴を抱くようなかたちで保つのがやっとだった。

 決して、触れてはいけない。
 触れては、もう歯止めがきかなくなるから。
 だから、そのままその腕でつくる輪を、小さくしてはいけない。
 そのまま、抱きしめてはいけない。
 触れることの許されていない、不可触の女神だから。
 今、莱牙の胸に抱きつき、しゃくり上げる少女は、決して莱牙のものにはならない。他の男のもの。
 だから、触れてはいけない。
 絶対に手に入れることができない少女だから。
 そう思うものの、運命とはなんといたずら好きなのだろう。
 そして、莱牙の自制心とは、なんともろいのだろう。
 次の瞬間には、抱きしめていた。
 思い切り。力いっぱい。心から。
 柚巴を誰にもやらない、もう放さないとばかりに。
 自らの心に、抗うことができなかった。
 ただ、本能のままに。求めるままに。
 この世でいちばん……たった一人、愛しくて、心から欲しいと思った少女が、今腕の中にいる。
 柚巴もまた、莱牙の腕の中、莱牙に身をまかせ、その肩を小さくゆらしていた。
 こらえきれない苦しみを、その体いっぱいであらわして。
 そんな柚巴が、もうたまらなく、おさえなんてきかなく、莱牙は愛しく思う。
 そして、柚巴の苦しみが、少しでもやわらげばと、抱く腕に力をこめる。

 今の柚巴は明らかにおかしい。
 その理由はわからない。
 しかし、柚巴がそれを望むなら、その体で、ぬくもりで、柚巴をなぐさめよう。
 少しでも、自分の存在が、柚巴の救いになるのならば……。
 こんな幸せなことなどない。
 すべてが、自らの存在自体、柚巴のためにあると思っているから……。
 柚巴のためだけに生きてもいいと思えるほど、狂おしいほど、愛しているから。愛しいから――

 花の香りに混ざり、湿った雨のにおいが莱牙の鼻をくすぐる。
 どこか切なくなる、その雨のにおい……。
 触れる、柚巴の冷たさ。
 体が、雨に濡れたため、冷え切っている。


「柚巴? どうした? 何があったか言えるのなら、言ってみろ。俺が聞いてやる。吐き出せば、少しは楽になるかもしれないぞ?」
 胸で、声を押し殺し泣く柚巴に、莱牙は優しくそう語りかける。
 無理に柚巴を引きはなそうとするのではなく――むしろ、そんなことは、莱牙には不可能である。できるならば、ずっとこうしていたいと願っているのだから――その愛で包み込むように抱き続ける。
 少し首をかしげ、柚巴の顔をのぞき見てみる。
 それは、微かな変化でも見逃すわけにいかないという、莱牙の思いのあらわれだったかもしれない。
 少しでも、柚巴の苦しみがやわらげば……。
 少しでも、柚巴の悲しみを理解できれば……。
 やはり、こんなにうちひしがれている理由は、悲しいことに、莱牙にはわからない。
 こんな柚巴ははじめてだから。
 時折、はかなげで、頼りなく見えることもあるけれど……。
 こんな柚巴は知らない。
 こんなにも苦しんでいる柚巴は……。
 柚巴は、いつもきらきら輝いて、とてもきれいな存在。まぶしい存在。

 だけど、癪に障ることに、なんとなくわかってしまう。
 柚巴が、こうなってしまった原因。
 柚巴が、こんなにも乱れるのは……恐らく、それしかない。
 あいつ、あの男……世凪にかかわることしか。
 あの男だけが、この世でたった一人、柚巴を一喜一憂させられる男。
 あの男のためだけに、柚巴は乱れる。
 それが、どうにも腹が立って仕方がない。


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update:04/07/10