なみだの恋心
(2)

「莱牙さま……」
 莱牙の気づかいに、柚巴はぴくっと反応し、どうにかそうつぶやくことだけができた。
 かすれた……上ずった声で。
 それと同時に、莱牙に抱きつく柚巴の腕に、もう少し、ほんの少し、力が加わったことに、莱牙は敏感に反応してしまっていた。
 どうして、こんなにすぐに気づくことができるのか……。柚巴の変化に。
 そんな自分が不思議だけれど、決して不思議ではない。
 それは、すべては、愛しいという思いがそうさせているのだろうから。
 きゅっと抱きつく柚巴から、この温室に広がる芳香などくらべものにならないほど、あまくいい香りが香ってきた。
 ふわりと、優しい香り。
 その香りが莱牙の鼻をくすぐり、大音響を立て理性を壊しそうになる。
 体中が、あまいしびれに支配される。
 もう……何も考えられない。
 ぎりぎり……どうにかそれはもちこたえることができているけれど……。
 いつ切れてしまうか、莱牙にも自信がない。
 めまいを覚えるほど、よい香りだから。
 これが、いつもあの男が独り占めしている、柚巴の香り……。
 そう思うと、胸がむかむかして、いらだちを覚える。
 きりきりと痛む。
「……もういや。わたし、世凪とわかれる。もう駄目。もうあんな人、知らない……」
 莱牙の胸に顔をおしつけ、くぐもった声で、柚巴はそれをしぼりだした。
 そのとんでもない言葉を……。
 当然、莱牙はびくんと体を震わせ、必要以上に反応する。
 それは、決してあってはならないことだから。
 決して、言ってはならないことだから。
 それだけは、聞きたくなかった。
 それを聞いたが最後、自らに課した戒めが……解き放たれる。
 誰一人として、予想もしていなかった、そのとんでもない発言……。
 そんなこと、不可能である。あの世凪が許すはずがない。
 そうわかっていながらも、何故だか自分の心だけは正直に反応する。
 心だけは、悦びをかみしめている。悦びを叫んでいる。
 愛の女神・ラヴィへの賛美の言葉を叫ぶ。
 世界中に、大声で叫びたい。
 ラヴィ、この時を、この瞬間を、運んできてくれたあなたに感謝します――

「柚巴……?」
 柚巴の真意を探るように、柚巴の名がささやかれる。
 今、胸いっぱいで感じている悦びを必死で隠し。
 こんな浅ましい思いを、柚巴には知られたくないから。
 世凪と別れる。
 それは、不可能だとわかっていても、どうしてこんなに悦びを覚えてしまうのだろうか。
 それはすなわち、柚巴の不幸……。
 限夢界からは裏切り者とののしられ、人間界……御使威家では居場所を失うであろうその言葉。
 そうなれば、柚巴がどんな苦労を、苦痛を強いられるか……。
 そんなことは百も承知のはずなのに……。
 悦んでしまう。
 ……いや。それ以前に、やはりそんなことは無理だろう。
 できるはずがない。
 できるはずがないけれど……。
 もし、そうなれば……莱牙は――
「やっぱり……世凪は王子様なのよ。自分勝手でわがままで、人の気持ちなんてちっともわかってくれない。――淋しいのに……こんなに淋しいのに……一緒にいてくれない」
「柚巴……お前……」
 ぐりっと莱牙の胸の中で頭をふり、柚巴は胸の内を吐露した。
 しゃくり上げるその合間に。

 それが……柚巴がずっと抱えていた苦しみなのだろう。
 莱牙は、そう確信してしまった。
 見ているだけではわからない。
 普段、柚巴は、本当に幸せそうに微笑んでいるから……。
 まさか、そんな思いを抱いていたなんて……。

 胸に抱く、その本当の苦しみ。
 それが今、ようやくわかったような気がする。
 そして、その苦しみがわかった今、莱牙に伝えてくれた今、莱牙は一体何をすればいいのだろう。
 いや。そんなものは、考える必要はない。
 決まっている。
 すでに決まっている。
 たった一つ。
 柚巴の苦しみを、悲しみを、少しでもやわらげることができるのなら……その願い、叶える。
 どんなことをしても。
 たとえそれで、世界中を敵にまわしてもかまわない。
 世界が崩壊しようと……。
 柚巴の心の崩壊を食い止められるなら……なんて小さな犠牲だろう。代償だろう。
 世界中が敵になっても、莱牙は、莱牙だけは、一人、柚巴の味方であり続けよう。守り続けよう。
 永遠に。
 この命続く限り。果てるまで。

「もう、やだ。こんな気持ちを、これからも抱え続けていかなきゃならないなら……もう世凪なんていらない」
 柚巴の顔がおしつけられたそこが、じんわりと、じわじわとぬれていく。
 冷たくはなく、あたたかい湿り。
 それは、柚巴の涙のあたたかさ。
 望むなら……この体いっぱいで、その涙をすべて受けとめよう。
 泣いて泣いて泣きつくして、枯れてしまうまで、すべて涙を受けとめよう。
 涙すべてを、吸いつくしてあげよう。
 それで、柚巴の気がむすのなら。
 少しでも、その苦しみがやわらぐのなら。
 涙を見なくてすむのなら……。
「柚巴……。お前、そんなに……」
 莱牙は、それ以上言葉にすることができなかった。
 莱牙もまた、苦しかったから。
 胸がはじけそうなほど。
 柚巴の苦しみが痛いほど伝わってきて……。
 だから、胸がつまる。何も言えなくなる。
 今、確かなものは……胸に感じる、柚巴の涙のあたたかさだけ。

 柚巴は、無言のまま莱牙に答えるように、また自らをあずけていく。
 途切れてしまった、莱牙のその言葉に。
 最後まで言わなくとも、柚巴には十分伝わっていた。
 莱牙が言いたいことが。伝えたいことが。
 柚巴を思う莱牙のあふれだしてしまいそうなその愛は、ちゃんと柚巴にも伝わっている。

 柚巴のYESともとれるその行動に、莱牙は覚悟を決めた。
 すっと柚巴を少しひきはなす。
 瞬間、柚巴の体は大きくゆれる。
 信じられないと、その涙があふれる瞳を見開く。
 莱牙にすがるようにむけられる柚巴の視線。
 変わらず、雨はしとしとと降り続いている。
「ら、莱牙さま!?」
 いや。もっとこうしていて。
 もっとこうやって抱きしめていて。
 莱牙を見つめる柚巴の瞳は、まるでそう言っているようだった。訴えているようだった。
 それは、痛いほど、莱牙にもわかる。
 だけど、これだけは、ちゃんと言いたいから。
 ちゃんと柚巴の目を見て。見つめて。
 だから、また莱牙の胸に来たがる柚巴を、心を鬼にして、必死に引きとめる。
 自分の思いのために。
「俺なら……決してお前に淋しい思いはさせない。だから……俺にしておかないか?」
「莱……牙さ……」
 優しく熱く語りかけてくる莱牙を、柚巴は凝視する。
 莱牙の真意を探るべく。
 そんな柚巴に、莱牙は困ったように肩をすくめる。
 しかし、すぐにまた優しく、あまく柚巴を見つめ……そっと、柚巴の前髪をかきあげてみた。
 ずっとずっと触れたかった柚巴の髪は、思っていた以上に柔らかくて……そして、あまくいい香りを放つ。
 気が……おかしくなりそう。狂いそう。
 狂おしいほどに愛しい少女が、今自分の腕の中にいると思うと……狂う。狂ってしまう。
 愛しくて、愛しすぎて、もうどうにもならない。
 そんな莱牙に、今胸の中の少女は、きっと気づいていないだろう。
 変わらず、驚きに満ちた顔で莱牙を見つめている。
 しかし、その瞳に込められた光は、決して莱牙を拒絶するものではなく……。
 むしろ、受け入れているように見える。
 それは……つまりは……?


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update:04/07/14