至宝の花
(26)

 肌に優しい暖かな風が、緑の木々をふわりかすめやってくる。
 王都のすぐ背にそびえる万年雪を冠するグランベール山脈から吹き降ろしてくる風は、温かい中にも少しの冷たさを含み、城下一帯をほどよく冷やす。
 この独特の気候が、グランノーバが名高い避暑地と呼ばれるに一役買っている。
 昨日の騒動が嘘のように、グランノーバ王城、とりわけ王の執務室にはおだやかな時間が流れている。
 かねてより黒い噂があった者や不穏分子、不正に手を染める者など、貴族として、また国政に携わる者としてふさわしくない者はすべて、たったの一日、いやたったの一刻ほどですべて片がついてしまった。
 それは、国王、宰相、王佐のたった三人で遣って退けたというのだから、あらためてその手腕に恐れをなした者たちが、一体どれほどいただろう。
 以前より彼らの力量を正しくよみとっていた者はたいした驚きはなかっただろうが、侮っていた者は驚愕しおののいたことだろう。
 これでしばらくは、うるさい貴族連中も大人しくなるだろう。
 そして、もう誰にも文句は言わせない。いや、言えない。
 レサトゥリアスがヴィオレッタを妃に迎えることを。
 そのためだけに、ヴィオレッタの平穏を守るためだけに、今回のことを仕組んだといっても過言ではない。――レサトゥリアスにとっては。
 シリルとジルベールはまた、違う見地から行ったのだろうけれど。
 執務机の上には、書きかけの書類、また押印途中の書類が放置され、窓から吹き込む風にひらひら揺れている。
 そのうちの一枚が耐え切れず、ひらりと別珍(ビロード)張りの床に落ちる。
 それに気づいているだろうに、いや気づいていないのか、執務机の向かいに置かれた長椅子に、レサトゥリアスはゆったり腰掛けている。
 その膝の上には、安心したように身をゆだねるヴィオレッタの姿がある。
 腰には、レサトゥリアスの両腕がしっかりまわされている。
 ふと見上げたヴィオレッタの目と、ずっと愛しげに見つめるレサトゥリアスの目がぴたりと合った。
 その瞬間、ほわりと幸せそうに微笑むヴィオレッタと、とろりととろけるような笑みをこぼすレサトゥリアスの距離が、もう少しだけ近づいた。
 まるでそれが当たり前のように、口づけをかわすように。
 唇を触れ合わせたまま、レサトゥリアスの膝の上から下ろされたヴィオレッタは、ゆっくりと長椅子に横たえられていく。
 絹の肌触りのよい布をかけられたそこに、ヴィオレッタのつやめく金の髪が流れるように広がっていく。
 ヴィオレッタがうっすら目を開けると、そこから見上げる先にあるのは、細工が施された白い天井ではなく、輝く銀糸、レサトゥリアスの顔にかかる髪だった。
 覆いかぶさるようにヴィオレッタを見下ろしているために、さらさらのレサトゥリアスの髪が流れている。
 ヴィオレッタは同時に深くなる口づけに、再びまぶたを閉じていく。
 そうして、二人がひとつに溶け合おうとした時だった。
 無粋にも、扉をたたく音がした。
 けれどレサトゥリアスはこたえることなく無視をして、そのままヴィオレッタを楽しみ続ける。
 扉の向こうからは、訝しがる気配が漂ってくる。
 かと思うと、何かに気づいたように、同時に何かを楽しむように、扉が開かれた。
「レスティ、入りますよ」
 開いた扉のそこにいたのは、やはりと言うべきか、シリルだった。
 誰何や許可を待たずに国王の執務室の扉を開くなどという暴挙に出られるのは、恐らくシリルくらいだろう。
 いや、ジルベールやジェラール辺りは、同様に遠慮なく開くだろうけれど。
「……って、何をしているんですか、あなたは」
 ずかずか歩みを進めたシリルが、ふと長椅子を見ると、そのすぐ下に寝転がるレサトゥリアスがいた。
 少し視線をずらすと、長椅子の上でわたわた慌てたようにうろたえ、顔を真っ赤に染めたヴィオレッタ。
 シリルはそれだけで、直前までの状況を正しく理解し、盛大にため息をもらす。
「執務室でいちゃつかないでください」
 そう言うと、シリルは何事もなかったように、レサトゥリアスを助け起こすことすらせず、扉へ視線を向けうなずいた。
「シリル、お前……殺すっ」
 レサトゥリアスはのっそり起き上がりながら、めらめらと黒い感情を惜しみなく吐き出す。
 しかし、シリルは変わらずレサトゥリアスを無視して、ヴィオレッタに長椅子にしっかり座りなおすように促している。
 レサトゥリアスは顔に不機嫌をめいっぱいはりつけて、仕方なく体を起こすと、長椅子に腰掛けるヴィオレッタをひょいっと抱き上げた。
 そしてそのまま、シリルの横を通り、けれどシリルを完全無視して、執務椅子にどっかり腰をおろした。
 それから、執務を再開するでもなく、膝の上にのせたヴィオレッタをしっかり抱いたまま、ごろごろとその頬に自らの頬を摺り寄せる。
「愛しくて愛しくて愛しすぎて、どうにかなりそうだ」
「レ、レスティ……!?」
 いきなりのレサトゥリアスの奇行に、ヴィオレッタはぎょっと目を見開く。
 明らかにシリルにあてつけているとはわかるが、さすがに人目があるところで思い切り抱き寄せられ、とろけるような笑みを落とされ、あまつさえそのような甘い言葉をささやかれると、ヴィオレッタはうろたえずにはいられない。
 恥ずかしすぎてどうにかなりそうとばかりに、もじもじと体を動かしながらうつむく。
 顔だけでなく、耳も首も、腕も、どこもかしこも、気の毒なほど赤く染まっている。
 レサトゥリアスは、ヴィオレッタを膝の上にのせ堪能しながら、幸せそうに一枚書類を手にとった。
「レスティ、いい加減にしなさい。ヴィオレッタ様が困っている――」
「ヴィオレッタがいないと仕事ができない。ヴィオレッタがいないなら、仕事など意味がない。絶対にしない」
 なんだか訳がわからない理屈をこね、レサトゥリアスはぷいっと顔をそむける。
 さらりと、吹き込む風がレサトゥリアスの銀の髪を揺らしていく。
 その時だった。あえてそうしたように、開けたままになっていた扉からこつんと靴音がひとつ聞こえてきた。
 レサトゥリアスとヴィオレッタはふと、そちらへ視線を向ける。
 するとそこには、ベルリオーズともう一人、若い近衛騎士が立っていた。
 アルフォンスでも、もちろんジルベールでもない。
 けれど、レサトゥリアスもヴィオレッタも、その顔はよく知っていた。
「何故貴様がここにいる!?」
 瞬間、レサトゥリアスがわなわなと体を震わせ、その若い騎士に向かっていまいましげに叫ぶ。
 持っていた書類をぐしゃぐしゃに丸め、それをぽいっと騎士へ投げつけた。
 それは見事に避けようとすらしなかった騎士の胸にとんとあたり、そのままぽてんと床に落ちる。
 その子供じみた、一国の王のものとは思えない行動に、シリルは非難するように眉根を寄せる。
 ベルリオーズはやれやれと肩をすくめ、床に落ちたもとは書類の紙のつぶてを拾い上げる。
 そして、隣の若い騎士を促す。
 騎士はこたえるようにこくんとうなずき、一歩前に出た。
 そして、恭しく騎士の礼をとる。
「この度、ヴィオレッタ様の専属護衛を拝命いたしました、カミーユ・エミリアン・ロンデックスと申します」
「却下ーっ!!」
 騎士――カミーユがそう告げると同時に、グランノーバ王城中に、国王の絶叫がとどろいた。
 そう、いつだったかシリルとジルベールが言っていた、アルフォンスと別の王妃付護衛騎士に、レサトゥリアスの天敵とも言えるカミーユが、昨日の園遊会での活躍を認められ抜擢された。
 もちろんそれは、レサトゥリアスにはこっそりと、シリルとジルベールの企みによって。
 ヴィオレッタを何者の目からも隠すように強く抱きしめわなわな震えるレサトゥリアスの横では、シリルが腰をまげ笑いを耐えるように震えている。
 ベルリオーズは予想通りの反応に関わることを一切拒否し、カミーユはどこか楽しそうににこにこ笑っている。
 そのような男たちの姿を見て、ヴィオレッタは窓の外に広がる緑の森、そしてそれを包むように広がる青い空に意識を馳せるようにぼんやり視線を流す。
 けれどすぐに、ヴィオレッタを抱き泣き出しそうなレサトゥリアスに気づき、小さく吐息をもらす。
 よしよしとその頭をなぐさめるようになでると、レサトゥリアスはぱっと顔をはなやがせた。
 そして、頬を染めるヴィオレッタにとろけるような幸福に満ちた微笑を向ける。
 レサトゥリアスの腕の中には、この上なく大切な、世界でたった一輪の花がしっかり抱きこまれている。
 彼女は、王の至宝、王国の花。
 もはや、それに誰も異など唱えることはない。
 すっかりまわりを無視して二人だけの世界に入ってしまったヴィオレッタとレサトゥリアスに、シリルもベルリオーズもカミーユもやれやれと肩をすくめ、そのままそっと執務室を去っていった。
 もう少しの間くらいは、執務を忘れ、その優しい時間を楽しませようと。――本音は、関わるだけ馬鹿馬鹿しい、やっていられないといったところだろうけれど。
 窓辺の小鳥たちはぴっと鳴き、青い空に飛び立っていく。
 月だけでなく太陽までも、二人にあてられ、恥らうように雲に顔を隠すだろう。
 グランノーバには、今日もおだやかな風が吹いている。


至宝の花 おわり

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update:12/03/16