よい心がけね
いじわるでもいいじゃない

「鹿野倉、おはよう」
 ――翌朝。
 いつものように教室までついてきた伊織を追い払い、席についた時だった。
 鞄から教科書もノートもペンケースもまだ出していないというのに、いきなり声をかけてくるうつけがいた。
「あら、桐生……と言ったかしら? おはよう」
 まあ、しかし、知らない者ではないし、あいさつくらいは許してあげてもいいわ。
「一昨日はありがとな」
「礼を言われるほどのことでもないわよ」
 一瞬何のことかと思ったけれど、そういえば渡り廊下でまごついていたのを蹴散らしてやったこともあるわね。
 けれど、あれは本当にあらためて礼を言われるようなものではないわよ。
 だって、わたしが見ていられなかったから、手を出したまでだもの。
 あのまま見ていたら、わたしの長ーい――ん? 何か問題があって?――理性がぷっつんときれそうだったもの。
 これは、いわば自分のためよ。
 このわたしが、他人のために骨を折ってやるなんてそんな屈辱的なことをするはずがないじゃない。
「あはは、そっか。でも、俺は嬉しかったから」
 さらっと言い放ってやったというのに、この桐生という男は気にするふうなくさわやかに微笑んだ。
 まあ、自分の身の程をわきまえ、へりくだる者は嫌いではないわよ。
「あら、そう。それはよかったわね」
「うん」
 とりあえず、教科書とノート、ペンケースを鞄から出して、一限目の授業に備えることにする。
 こうして話している時間も無駄にはできないものね。
 ……ってちょっとそこ。今のうちに準備しておかないと忘れるからだろうとか、そんな失礼なことを言うものではなくってよ。
 けっこう冷たくしてやっているはずなのに、桐生はあきらめることなく、なおも好青年の如くさわやかな笑顔をふりまく。
 恐らく、こういうところが、世のお馬鹿な女どもに黄色い声を上げられる所以なのでしょうね。……わたしは好きじゃないけれど。
 まあ、このわたしに向かって物怖じしないところは、その度胸だけは誉めてあげてもいいわ。
「それでな、これ」
 桐生は鞄の中をあさり、そう言いながら手のひらにのる程度の紙袋を取り出してきた。
 淡い水色のチェック柄の袋に、ピンクの小さなリボンがついている。
「好きかどうかわからないけれど、受け取って。一昨日の礼」
 桐生は紙袋をわたしにさしだし、じっと見つめてくる。
 な、何かしら、そのうるんだような瞳は。
 そんな目でじーっと見られては、このわたしとしたことがちょっとひるみそうになるじゃない。
 純粋な目ほど苦手なものってないわ。
 ――ううん、そうじゃなくて、もしかして、あれってそんなに大切なものだったということ?
 くすっ。まったく、律儀な男ねえ。
「し、仕様がないわね。まあ、よい心がけではあるわね」
 仕方がないので、受け取ってあげるわ。
 桐生の手から、奪うようにさっと紙袋を受け取る。
 同時に、さっと顔をそらす。
 なんだか妙に頬が熱く感じるのは、気のせいかしら?
 この鹿野倉緋芽さまともあろう者が、このような下々の者から施しを受けるなんて、こんな屈辱はないわ。
 けれど、わたしもそこまで鬼じゃないから、屈辱を感じつつも、気持ちだけはくみとってあげてもよくってよ。
 わたしが紙袋を受け取ったことを確認すると、桐生は嬉しそうににっこり微笑んだ。
「あれ、じいさんの形見なんだ。俺、じいさん子だったから」
「え?」
 桐生はおどけるようにそう言うと、またにっこり笑う。
 思わず、まじまじと桐生を見つめそうになったじゃない。
 あれが、おじいさんの形見ということは……。
 まったく、とんだおまぬけな男ね。
 ふうと小さく吐息をもらし、いじわるげに微笑んであげる。
「まったく、二度と落とすのじゃないわよ」
「うん、気をつける」
 意外にも、桐生は素直にこくりとうなずいた。
 こういう場合、伊織なら、「緋芽に言われたくないな」とか何とか憎まれ口をたたくところよ。
 たまには、こういう素直な反応も悪くないわね。
 まあ、伊織が極度に腹立たしいということもあるけれど。
 どこかばつが悪そうに、けれどにこにこ笑う桐生に、思わずひきずられそうになる。
 知らず知らず、口のはしが小さくあがりかけた時だった。
「桐生くーんっ!」
 廊下の方からそう呼ぶ、鼻にかかった砂糖女の声が聞こえた。
 桐生は、慌てて扉へ振り向く。
「え? 橘さん? 何?」
「あのねー、あゆねー、この問題がわからないのー。教えてー!」
 砂糖女が、廊下側いちばん後ろの自分の席から、当たり前のように手招きしている。
 もちろん、そのまわりには蟻さんが数匹群がっている。
 それだけじゃ飽き足らないとばかりに、桐生まで呼びつけるなんて、本当なんて図々しいのかしらね。
 あなたには、桐生はもったいないわよ。
 砂糖は大人しく蟻さんと群がっていればいいのよ。
 手をぶんぶんふる砂糖女に、桐生は思わず口のはしをひくりとひきつらせていた。
 けれど、すぐにあきらめたように大きくため息をもらすと、
「ごめん、鹿野倉。行ってくる」
そう言って、渋々歩いていく。
 まわりの女子たちは、その光景を顔をしかめて横目で見ていた。
 けれど、砂糖女はそんな女子の視線に気づくことなく、何故かいまいましげにわたしを見ている。
 まあ、何故なんて、そんなことはわかりきっているけれど。
 ……あらあらまあ、これはもしかして、おもしろいことになるかしら?
 けれど、今は相手にしてやる気はさっぱりないので、さらっと無視してそのまま席につく。
 なんだかとっても砂糖女の視線を感じるけれど、さっくりさらっと無視。
 相手にするほど、わたしは馬鹿ではないわよ。暇でもないわ。
 そして、さっき桐生からもらった紙袋を机の上にぽふっと置く。
 それにしても、この紙袋の中身は何かしら?
 ぺりっと封を開けてみると、そこにはビスケットが入っていた。
 見た目は素朴でそっけないのに、小麦がよくこげた香ばしい香りがなんとも鼻をつく。
 その中のひとつを手にとり、かりっとかじる。
 あら、悪くないわね、これ。
 桐生ってば、いい仕事をしてくれるじゃない。


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update:08/10/27