一生の不覚よ
いじわるでもいいじゃない

 今思い出しても、あの時のわたしはなんて馬鹿だったのかしらと思うわ。
 何も知らず、頭に超がつくほど馬鹿正直で、愚かだったのよ。
 きっと、世の中の人すべてが善人だと思っていたに違いない。
 それほど、人を疑うことを知らない愚か者だったのよ。
 あの日までは。
 あの日を境に、わたしは愚かではなくなったわ。
 人間なんて、そう簡単に信じちゃいけないと悟ったのよ。
 ……そう、あれは、わたしに現実の厳しさを教えてくれた。
 今から三年ほど前。
 中学一年の頃。
 まだ、わたしがこの学校に通う前の頃。
 体育祭前の放課後だったと思うわ。
 学校中がそのイベントのためにうわついていた。
 教室の後ろでは、体育祭の練習と称して、男子たちが悲しい結果に終わったテストプリントをまるめたボールとほうきのバットで、野球の真似事をしていた。
 球技大会じゃないのだから、そんな種目があるはずもないのに。
 そして、そこの腰くらいまでの高さの棚の上には、クラスメイトの女子の誰かが持ってきた、家で育てたとかいう花が飾られていた。
 安物の花瓶に、あふれんばかりに生けられている。
 その横には、完成したばかりのクラスの応援旗が置いてある。
「あれ? 緋芽ちゃん、何をしているの?」
 その花を持ってきた女子が、わたしが花瓶を持ち上げたことに気づき話しかけてきた。
「え? あのね、ここにおいておいたら危ないと思って。どこかに移動できないかなって」
「ああ、たしかにねー。男子が暴れていて危ないよね。せっかくつくった応援旗を間違ってよごしちゃったら大変だよね」
 花の主は、ちらりと、横で暴れる男子たちを見る。
「うん。それに、倒されたりとかしたら、お花がかわいそうだもん。どこかにいい場所ないかな?」
 わたしがそう言うと、花の主はきょとんと首をかしげ、はにかむように微笑んだ。
 どうやら、みんなで一生懸命作った応援旗だけじゃなく、自分が持ってきた花を気にかける人もいると気づいて、照れたよう。
 そわそわとした様子で、教室中を見まわす。
 そして、教室の前方を見た時、ぴたっと視線をとめた。
 ゆっくり腕をあげ、すっと指差す。
「じゃあ、あそこのテレビ台なんてどう?」
「あ、それいいねー」
 そうして、二人にっこり笑い確認し合った。
 それから、花瓶を持って、テレビ台がある教室の前方へ移動しようとした時だった。
 先ほどから野球の真似事をしていた男子の一人が、大きくあげられたフライをとろうと、背から勢いよくぶつかってきた。
 そのはずみで、両手の中から花瓶が飛び出した。
 そのまま棚の上の壁につぶかり、割れる。
 運が悪いことに、花瓶が割れたすぐ下には、昼休みに完成したばかりの応援旗があった。
 花瓶の割れた欠片と、水が一気にそこに散らばる。
 瞬間、あれだけざわついていた教室内が静まりかえる。
 彼らが注目しているのは、花瓶の水がぶちまけられた、ぱらぱらと花が散らばる、その大きな布。
 さらに運が悪いことに、布に絵の具やら塗料やらで着色して作り上げたその旗は、それを乾かしている時だった。
 水がかかったそこから、どろりと色がとけ流れ落ちていく。
 旗の一部は、飛び散った花瓶の破片で大きく裂けている。
 どこからどう見ても、その旗はもう使い物にならない。
 しかも、体育祭はあさって。
 今からじゃあ、どう考えても、とても修復をしている時間などない。
 それに気づいたクラスメイトの視線は、次の瞬間、一斉にわたしに注がれた。
 それは明らかに、わたしへ向けられた非難の眼差し。
 同時に、堰が崩れたように浴びせられる、罵声、暴言。
「げーっ! お前何しているんだよ!」
「信じらんねーっ!」
「さいあくー!!」
 弁解の余地すらなかった。
 テレビ台へこの花瓶を移すようにすすめた女子だって、わざとじゃないとわかっているはずなのに、花瓶が割れた瞬間、旗が台無しになった瞬間、そそくさと逃げていった。
 そして、ともにわたしへ非難を浴びせる。
「わたし、とめたんだよ。だから、危ないからやめた方がいいって言ったんだよ!」
 きっと、わたしにそうするようにすすめたことを知られると、自分も非難されると思ったのだろう。
 誰だって、自分がかわいいものね。
 それで、悟ったのよ。
 誰も信じちゃいけないって。期待しちゃいけないって。救いを求めても無駄だって。
 たとえ本当のことを知っている人だって、自分の身が危険になればあっさり見捨てちゃうの。誰も助けてなんてくれない。
 もちろん、わたしにだって、注意を怠ったという過失はあるけれど、もとはといえば男子たちが……。
 まあ、これは今さら言っても無駄だけれど。言い訳にしかならないけれど。
 そして、現実の厳しさを知る。
 よかれと思ってしたことでも、ひとつタイミングを間違えば、ひどくよくないことになってしまう。まるでそれは、許し難い犯罪を犯したかのように。
 少女漫画や少女小説では、こういう場合、事情を知る第三者がそうじゃないよとでも言って、窮地に追い込まれたヒロインのピンチを救ったりするのだろう。
 けれど、現実はそんなことはない。そんな生易しいものじゃない。
 たとえ本当のことを知っていたって自分のために逃げる要領がいい子が得をして、誤解のために非難される要領が悪い子が馬鹿をみるのよ。
 これがいい例だわ。
 だからわたしは、たとえそしられたっていいから、何と言われようと、要領よく生きようと思ったの。
 他人なんて知ったことじゃあないわ。
 人のためを思い、人に優しくしたって、報われることなんてちっともない。
 ただ、自分が傷つくだけ。
 情けは人のためならず、なんてそんなふざけた言葉を生み出した人を、あざ笑ってやりたいものだわ。
 なんてお人よしなのかしらって。
 他人に優しくしないことこそが、自分を守る唯一の手段なのよ。
 手のひらをかえしたように、背を向けられることはない。
 他人を信じなければ、裏切られ、傷つくこともない。
 男子から髪を引っ張られたり、つきとばされたりして罵声を浴びせられることも、女子からちらちらとさげすむような視線を送られ、ひそひそ聞こえよがしに中傷されることだってない。
 今回のこととはまったく関係のないことまで持ち出し、日ごろのねたみのような不満までここぞとばかりにぶつけられることもない。
 誰も助けてなんてくれない。世界中すべてがわたしの敵。
 一度嗜虐心をくすぐられた人間ほど、残虐なものはないと悟った瞬間だったわ。
 人間ほど、醜い生き物はない。
 そして、鬼の首をとったように罵詈雑言を投げつけられ、大騒ぎをはじめたそこへ、それを聞きつけた伊織が慌てて駆け込んできた。
 それから、どうすることもできす呆然としているわたしの手を引き、伊織はそこから連れ出してくれた。
 また、伊織は親友の鬼海望(きかいのぞむ)に頼んで、花瓶を片づけてくれたことを、その後こっそり知ることになる。
 そして、体育祭当日の朝、気まずそうにするクラスメイトたちに、意地と誇りで綺麗に修復した旗をつきつけ、そのまま転校してやったわ。
 まあ、それ――転校は、わたし自身の意志というよりも、半分以上、伊織に強制されたようなものだけれど。
 だって、伊織によって手配された、今の学校の中等部へ転校していたから。ともに、伊織と鬼海望も転校した。
 「転校なんて逃げるような卑怯なことはしたくない」と言ったわたしに、「逃げるのじゃないよ。あんな低能な連中の中に、緋芽を置いておくことなんて我慢できない」と、伊織は憤って頑としてゆずらなかった。
 でもそれが、わたしには救いのように思えた。
 たとえクラスメイトには許されなくたって、わたしの過ちは許されたのだと。
 たった一人でもいい、許してくれる人がいれば、罪悪感は消えなくても、心は少しだけ軽くなる。
 伊織は、わたしという存在を認めてくれた。
 あの時から、わたしが信じられるのは、いつもどんな時だって、つないでいたあの手だけ。
 隣で腹立たしい笑顔を浮かべ、ひょうひょうとわたしを包み込む、あいつだけ。
 いつもどんな時だって、伊織は絶対にわたしを助けてくれる。見捨てたりしない。
 まったく、思い出すのもおぞましいったらないわ。
 このわたしがあれしきのことで動揺してしまったなんて、一生の不覚よ。
 誰にも知られたくない、人生最大の恥ね。大失態よ。
 そして、伊織はあの時こう言った。
「自分に自信を持って気高く生きる女性こそが、真に美しいよね。何事にも屈しない緋芽が、俺は好きだよ。……緋芽は、俺の自慢だよ」
 その言葉が、今もわたしの心に深くきざまれ、自信となっている。
 嘘でもいい。それは救いになる。
 たった一人認めてくれる人がいれば、わたしはどこまでも強くなれる。
 ……きっと、伊織はそういう女の子がいいのよ。ただ軟弱なだけの女はいらないわ。


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update:08/11/22