恋人契約
(1)

 わたしには、期限つきの恋人がいる。
 そして、もうすぐ、約束の日がやってくる。
 桜の咲く頃。
 契約が終わる日が――


 ある桜のきれいな春の日。
 出会ったばかりのわたしに、彼はいきなりこう言った。
「つき合おう」
 心が、まるで風に吹かれた桜のように、ざわついた。

 まだ前期授業がはじまって数日しか経っていないその頃。
 桜咲き乱れる、春のキャンパス。
 満開の桜を背負い、彼はそれに溶け込むように淡い微笑を見せた。
 わたしの心は、一体、どちらに反応したのだろう。
 彼の言葉か、その微笑か……。
 それとも、咲き誇る、この桜か……?

 呼び止められ、振り返るとそこに桜のように微笑む彼がいた。
 桜色の中……とてもきれいに見えた。
 そして、小さく開かれた口からその言葉がもたらされた。

 ――つき合おう。

 この言葉を聞いた時、わたしははじめて彼を見ることとなった。
 彼の存在を知った。
 彼の存在を、わたしの中に刻み込む。

 入学して三年目。
 大学三年になってすぐのこと。
 これまでの間、わたしは彼を一度も見たことがなかった。
 今、はじめて彼のその姿を目に映した。

 たしかにこの大学は、一学年何千人といて、そして学部も両手いっぱいほどの数がある。
 これまで彼を目にしたことがなくても、何ら不思議はない。

 呼び止められ、今はじめてわたしたちは互いの存在を確認したのよ?
 だからこそ、どうしてわたし?
 そんな疑問が頭をよぎった。
 それは、当たり前の疑問。

 そして、次の瞬間、さらに心がざわつくことになる。
「期限つきで」
 わたしの心を、春の嵐がざあっと通り過ぎていく。


 彼は、どうしてわたしを嘘の恋人役に選んだのかは言ってくれない。
 だけど、どうして嘘の恋人が必要なのかは教えてくれた。
 それは、別れたばかりの恋人がいない淋しさをまぎらわせるため。
 そしてもう一つ。女よけ。
 どちらも、彼にとってはこの上なく都合がよく、わたしにとっては理不尽きわまりない理由。

 「悪い虫がつかないように」と、男の人が女の人に指輪を贈るということは、耳にしないことはない。
 けれど、まさか、男の人が、声をかけてくる女の人を避けるために、嘘の恋人をほしがるなんてそんなの聞いたことがない。知らない。
 それならば、指輪でもいいじゃない?と言ったら、彼はそんなあやふやなものより、明らかに誰の目にもとまるものの方が効果があると言った。

「それって、かなりわたしに失礼だと思わないの?」
 わたしは彼の言葉に、少しむっとした。
 内心、馬鹿にされたような気がしたから。
 すぐにこの場を去りたくなった。
 わたしは、彼の都合のよい女じゃない。
 余計なことには、関わりあいたくない。
 そんなわたしに、彼はにこっと微笑み、こともなげにこう言った。
「ああ。だからね、これは契約なのだよ。決して、損はさせないから」

 契約?
 嘘の恋人契約?

「行きたいところにはどこでも連れて行ってあげるし、欲しいものは何でも買ってあげる。そして、暇をもてあましている時の暇つぶしにしてもいいし、わずらわしいなら必要以上に会わない。もちろん、君に好きな相手が現れたら、その時は即、契約打ち切り。――どう? 悪くない話だと思うけれど」
 そんなとんでもないことを、彼はさわやかに微笑みながら提案してくる。
 恐ろしく不可解な提案。
「たしかに……悪くはないけれど、わたしたちははじめて会ったのよ? それにどうして、わたしなの?」
 どちらにしたって、胡散臭くて、疑わしいことにかわりない。
 そんなふざけた提案にのるお人よしがいるわけないじゃない。
 わたしは、都合のいい女に成り下がるつもりはない。
 それに……やっぱり馬鹿にしているわ。その提案。
「別に理由はないよ。今俺の目の前に君がいたから。そして、俺は自分のことに専念したい。だから、わずらわしいものには、極力かかわりたくない」
 やっぱりふわっと桜のように微笑んで、そんな恐ろしいことを彼は言う。
 当たり前のように、さらっと。

 彼が言うわずらわしいもの≠ニは、今は女の人のことね。
 恋人と……別れた今は……。

 でも……訳が……わからない。
 それでも、嘘の恋人はいきすぎじゃない?
 この男は、一体何を考えているの?
 そして、何様のつもりなの?
 彼のその目がいっているもの。
 この契約に、わたしがのらないはずはないって。

 ふざけている。
 そんなふざけたこと、わたしがOKするはずがない。
 今会ったばかりの男の人とつき合えるほど、わたしは軽くはないし、融通もきかない。
 自信たっぷりに、この言い草。
 本当、何様のつもりだろう? この男。

 たしかに、顔は悪くはない。
 そして、そんなふざけたことを言うだけあり、そこそこ裕福そうではある。
 身にまとうもの、全て上質そうだもの。
 行きたいところにはどこでも連れて行ってあげるし、欲しいものは何でも買ってあげる。
 そんなことをさらっと言ってのけてしまえそうではある。
 ……どことなく……そういう雰囲気を漂わせているから。
 柔らかい空気をまとっているように見えて、実は誰にも揺るがすことのできない強さを持ち合わせているようで――

 こんな男、今までみたことがない。
 だけど、のれない。やっぱり。
 結べない。契約。
 知らない男の人とつき合うなんて、怖くてできない。
 そう思っていた。
 そのはずだった。
 なのに……。
「じゃあ、決まり。期間は一年。来年の今日まで。また桜の咲く季節が巡ってくるまで」
 そう言った彼には、有無を言わせぬ迫力があった。威圧感があった。
 わたしは、流され、押し切られ、結局、彼の言う通り、契約をかわしてしまった。
 ……ううん。かわしたわけじゃない。
 もう何も言えなかっただけ。
 言わせてくれなかっただけ。
 首を、縦にも横にも振らせてくれなかっただけ。


 これが、わたしたちの、嘘の恋人のはじまり。
 恋人契約のはじまり。


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update:04/03/12