恋人契約
(2)

 桜の中で、桜のように笑った彼は、今わたしの横にいる。
 触れるか触れないかのその距離で、おだやかに微笑み。
 彼がわたしに、恋人の契約を持ち出してニ週間。
 ずっと、この距離はたもたれたまま。
 まわりにあやしまれないように、絶妙な距離をたもつ。
 嘘の恋人同士には、これは少し辛かったりする。
 こんなにそばによられては、気を抜けば、わたしの心臓は踊り出すから。
 はっきり言って、男の人にあまり免疫のないわたしには、酷だわ。

 キャンパスの桜の木の下に設けられた、アンティークベンチに腰かけ、大学のカフェテリアの一角でお昼時限定で売り出されるクレープをほおばる彼。
 男の人なのに甘いものもいけるらしく、アーモンドとチョコカスタードのクレープを食べている。
 わたしは、生クリームにフルーツたっぷりのクレープ。
 まるでフルーツたっぷりのケーキを食べているみたいで、これがいちばん好き。
 ここのクレープをいろいろ試して、そう結論づけた。

 彼の名は、桜の中で出会った彼らしく、桜木海(さくらぎうみ)
 桜に海なんて、なんて洒落た名前だろうと思った。
 海の水面に映る桜を思い浮かべてしまいそうな名前。
 ニ週間前、はじめて、その名を聞いた時そう感じた。
 経済学部の三回生と言っていた……と思う。
 わたしと、同じ年。

「それ。おいしい? いつも買っているけれど」
 ぱくっとクレープをくわえた瞬間、ふいに彼がわたしを見てそう言った。
 クレープをぱくってくわえたその情けない姿のまま、わたしはこくんとうなずく。
「本当? じゃあ、一口ちょうだい」
 え……?
 そう思った次の瞬間には、もう遅かった。
 クレープをくわえるわたしの口のすぐ横を、かぷっとひとかじり。
 瞬間、桜の香りを胸いっぱいに感じたような気がした。
 当然、がばっと顔をひきはなす。
 そして、ぎょっと彼……海をみつめた。
 当たり前だけれど、わたしの顔は真っ赤になっている。
 おろおろと、わたしの目は、彼の後ろの桜と彼を交互に見つめる。
 だけどちゃっかり、口はもごもご動いているあたり、わたしってば抜け目ない。
 だって……好きなんだもん。クレープ。
「……ふ〜ん。なかなかいけるね?」
 彼はふむとひとりごちながら、そうやってにっこりと微笑みかけてきた。
 わたしの動揺なんてかまわず。

 そ、そういう問題じゃないのだけれど!?
 そう言いたかったけれど、言えなかった。
 もごもごごくんとのみこんでしまったクレープが、のどの辺りにつかえてしまっていたから。
 だから、ごほごほっとむせかえる。
 すると海は、くすくすと笑いながら「どじ」とわたしの背をさする。
 優しく、いたわるように。
 それが妙に心地よくて、くすぐったかった。

 触れるか触れないかのはずだったわたしたちの距離は、つき合いはじめてニ週間、嘘の恋人契約が結ばれて二週間、はじめて触れるまで縮まった。
 不思議と、その事実が嬉しかった。

「はい。俺のも食べる?」
 そうやって、ようやく落ち着いたわたしに、海は自分の食べかけのクレープをすっと差し出してきた。
 少し目に涙をためたわたしに微笑みかけ。
 そんなわたしを、海はどこか楽しそうに見ている……ような気がした。
「……。味見する……」
 ぽつりとそうつぶやき、かぷっと海のクレープをかじる。
 なんだか、素直に食べたいと言うのが悔しくって。
 だから、味見。
 それに……アーモンドとチョコカスタードは、わたし、もうとっくにおためし済みだもの。
 その味を知っていて……それでって……。
 だけど、あえて味見。

 すると、やっぱり海は、そんなわたしを見て穏やかに微笑んでいた。
 海の手から、海のクレープを一口分だけ奪うわたしを見て。
 海の微笑みは、出会った頃の影響が強いのか、いつも満開の桜のように見える。
 それが、とても不思議。
 だけど、不思議じゃないかもしれない。
「おいしい? 早紀(さき)
 もぐもぐと口を動かすわたしに、海がにっこりと微笑みかける。
 そうやって、桜の散る中、おだやかにわたしたちの間に春の風が流れていく。
 時折、ざあっと桜の嵐を起こしながら……。
 それが、妙に落ち着いた気分を運んでくる。
 さらっと、風が髪をなでていく。
 心地いい、風のいたずら。
 桜も、もう終わりかけ。

 ニ週間前出会ったのも、桜降る中だった。
 だけど、この時と、その時との感情は、少し違っていたかもしれない。
 あの時とは違う、別の思い……。
 たったの二週間で、抱く思いが変化する。
 ふざけた奴ってそう思っていたけれど、こうやってわたしの隣で穏やかに笑う海は好きになりかけていた。
 ううん。好きになっていたかもしれない。
 だって、こうやって海と一緒に過ごす穏やかな時が、妙に心地よかったから。


 そうやって穏やかな時間が流れて、海とわたしの距離が縮まり、それが不自然じゃなくなった頃。
 大学の中では、わたしたちが一緒にいることがよく目にとまるようになっていた。
 くすくすとおだやかに笑い合う二人。
 まわりの目には、ちゃんと恋人同士に映っているようだった。
 本当は……契約の偽物の恋人同士だけれど。
 胸の奥で、苦い思いがちくっととげをさす。

 時折、友達に、「つき合っているの?」と聞かれるようになった。
 それはすなわち、わたしたちはちゃんとまわりを騙せているということ。
 そして、彼の望みどおりになっているということ。
 女よけと言った彼の望みが……。
 だけど、最近、それが嘘のようにも思えてきた。
 だって――

 たしかに彼は、桜のようにきれいに微笑む人だけれど、それなりに女性の目をひきつける人だけれど――この二ヶ月、一緒にいて十分すぎるくらいわかった――でも、誰も声をかけてこようとはしないの。
 どこか遠巻きに、近寄りがたいって感じで。
 そりゃあ、わたしっていう、表面上の恋人はいるけれど、それでも声をかける時はかけるじゃない?
 「彼女がいても関係ない」という、勇気のある女の人がいてもおかしくないじゃない?
 これだけ、視線を集める海だもの。
 人の目をひく海だもの。
 そんな海に、海に呼び止められるまで、この二年の間気づかなかったなんて……そんなわたしが不思議。

 もう少しよく、彼を見る人たちを見てみた。観察してみた。
 そして、なんとなくわかった。
 みんな、彼のかもし出す、圧倒的な雰囲気に気おされているようだった。
 圧倒的な、満開の桜のような迫力のある雰囲気。
 実際、よく言われる。
「あんな奴と、よくつき合えるね?」
 それは、男女問わず。

 そうかな?
 わたしは、そうは思わなかったけれど?
 はじめて会った時は、言われたことが言われたことだったから、なんて奴とは思ったけれど、でも近寄りがたいだとかそういうのは感じなかった。
 むしろ、吸い込まれそうだった。
 桜と一緒に、その中に。海の中に――
 彼には、どこか人をひきつけるものがある。
 そう感じていたの。
 だから……今思えば、あの時、首を縦にも横にも振れなかったのかもしれない。
 彼の迫力に負けて。

「早紀? 寝たの?」
 六月のはじめ。
 ぽかぽかとあたたかい陽気の中、わたしたちが出会った桜の木の下で、わたしは海の肩に頭をもたれかけ、うとうととしていた。
 アンティークベンチが置かれたそこは、もうわたしたちのお気に入りの指定席となりつつあった。
 そして、海はそっとわたしの肩を抱く。

 今はちょうどお昼休みだから、海もわたしも午後の授業まで、ここでのんびりとしている。
 もう花は散って葉桜になってしまったけれど、葉の間から差し込む木もれ日がとても気持ちいい。
 これは、眠気を誘う。

「……う……うん。寝て……ない。大丈夫。起きてる……」
 ぼんやりと薄くなった意識の中、わたしはぽつりとそうつぶやく。
 すると海は「嘘ばっかり」とくすっと笑い、すいっとその膝にわたしの頭をのせる。
 これはいわゆる、膝枕?
 そんなことをされては、わたしは完全に睡魔に勝てなくなってしまう。
 せっかく……どうにか意識をたもてていたというのに。
 いじわる。
「寝ていいよ。五分前になったら起こしてあげる」
 必死に睡魔と戦うわたしにそう言って、海はくすくす笑う。
 やっぱり、いじわる。
 ここからじゃ遠すぎて、午後の講義がある学舎まで間に合わないじゃない。
 自分は、ここからいちばん近い学舎だからって……。
 ここからは、経済学部の学舎は近いけれど、わたしが在籍する文学部の学舎は遠いのよ?
 そんなこと、知っているくせに。
 海って、案外いじわるよね。
「いじわる。そう言われると、寝れないじゃない」
「だから言ったのだよ」
 海の膝の上から、ぷうとふくれて海を見つめると、にっこりと微笑みそう返してきた。
 「早紀が寝ちゃったら、俺が退屈するだろ?」なんて、自分勝手な理由を添えて。

 なんだか……腹が立つわ。
 さすが、期間限定の恋人契約を申し出てくるだけの男だわ。
 しかも、強引に押し通すだけの……。
 今さらだけれど、つくづくそう思ってしまう。
 でも、まあ、いいか。
 いかにも、海らしいから。


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update:04/03/15