恋人契約
(7)

 ようやくあたたかくなりはじめた頃。
 桜も咲きはじめ……ううん、そろそろ満開を迎えた頃。
 再び、あの桜の日がめぐってこようとしている。
 わたしたちは出会った時のように、この桜の木の下にいる。
 そこのアンティークベンチに腰かけ、満開の桜を見上げる。
 桜の間から差し込む午後の日差しは、やっぱり気持ちがいい。
 春の香りを運んでくる。
 こんな気分の時でも。

 海は、最近、携帯をマナーモードにしている。
 それは、頻繁に電話がかかってくるようになったから。
 それを、わたしに気づかれまいと。
 だけど、詰めが甘いわよ?
 携帯が震えると同時に、海は素直すぎるくらい、一緒に体を震わせているから。

「でても……いいよ?」
 だから、そう言ってあげるの。
 電話がかかってきたことに、わたしは気づいていないと思っている海に。
 すると海は、やっぱり申し訳なさそうにわたしを見つめてくる。
 そして、「ごめん」とつぶやき席を立つ。
 これは、一体もうどれだけ繰り返されただろう。

 契約終了まで、あと一日。
 一日早いけれど、解放してあげなければならないかもしれない。
 電話の向こうから聞こえてくる女の人の声は、もうわたしには耐えられないから。
 たとえ、一日でも……。
 電話の向こうで、海を「海」と呼び捨てる、その女の人の声。
 とても、きれいな声。

 電話を終えて、再びわたしのもとまで海がもどってきた。
 やっぱりとてもすまなそうに眉をひそめて。
 そして、当たり前のようにわたしの横に腰をおろす。
 そんな海に、わたしは言う。
 両手を膝の上でぎゅっとにぎりしめ、海を見つめ。
 微笑み。
 だけど、やっぱりどこかぎこちなく。
「いいよ。少し早いけれど、もう契約を終わりにしよう?」
 にっこりと微笑んだわたしに、海は急に顔色をかえた。
 険しい顔でわたしをにらむように見つめる。
「え……?」
 そうぽつりとつぶやいて。
 だって――
「だって、行きたいのでしょう? よりを戻したのでしょう? あなたが本当に好きな人と。結婚まで考えていた人と。あの電話の女の人……そうでしょう? 海を呼び捨てにしていたもの」
「早紀!?」
 ふっと冷たく微笑むわたしに、海は顔色を青くする。

 ふふ……。
 それってば、やっぱり図星?
 な〜んだ。やっぱりそうか。
 いいよ。もういいよ……。
 もう、終わりにしてあげる。
 契約終了のその日までって、すがっていたのはわたしだから……。
 もう、いい。
 もう、十分。
 こんな辛い思い。
 もう、いらない。

「いいよ。だから、ばいばい。もとから……そういう約そ……」

 最後まできっちり言うはずだったのに、言えなかった。
 言えなくなってしまった。
 もう、声にならなくて。言葉にならなくて。
 あふれ出したこの感情が、邪魔をする。

 泣いちゃだめ。泣いては卑怯。
 泣いたら、きっと海はためらうから。戸惑うから。
 だから……ぐっとこらえなきゃ。
 最初から、偽物。そういう約束だった。
 それなのに、本気になってしまったのはわたしだから。
 だから、こんな卑怯なことはしちゃいけないの。

 好きだから……。
 いつの間にか、こんなにも好きになってしまっていたから。
 海の優しさに触れ。海のぬくもりに触れ。
 だから……海を困らせたくない。
 それが、今わたしにできる精一杯のこと。


 そうやって、必死に自分の気持ちと戦っていると、ふいにふわっとあたたかいものに包まれた。
 それは……海。
 海の腕。そして胸。

 え……?

 驚き顔を上げると、そこには海の優しい微笑みがあった。
 だけどやっぱり、少し困ったようで。
 わたしを見つめている。じっと……。
「海……?」
 海に抱かれ、抱きしめられ、そこから海を見つめると、今度は申し訳なさそうに微笑む。
 切なく……。
「ごめん……。早紀をこんなに苦しめているって気づけなくて。俺って……だめだな」

 ううん。
 だめなんかじゃないよ。
 だってそれは、わたしが気づかれないようにしていたから……だから……。

「仕方ない。明日、契約終了の時に全てを話そうと思っていたけれど……いいか。一日くらい繰り上げても」
「え?」
 そんな訳のわからないことを言って、海がにやっと微笑んだ。
 いじわるく。
 だから、わたしはきょとんと海を見つめる。
 だけどやっぱり、頬を伝うものはとまらないけれど。
 そんなわたしの頬を伝う涙を、海はくいっと優しくぬぐう。
「まずは……。誤解から解かせてもらおうかな? 早紀が元恋人とか言っていた電話の相手、あれ、俺の姉貴です」
 くすっと意地悪く海は笑う。
「ええ!?」
 だから当然、海の腕の中、わたしは海の期待通りの驚きを見せる。
 期待通りのわたしの反応に、海は楽しそうに微笑む。
 ううん。そうじゃなくて……楽しんでいるでしょう? 実際。絶対。
「それに……。ああ、これを言うと、殴られそうで怖いな。――あの元恋人の話……全部嘘です」

 ――え……?


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update:04/04/02