恋人遊戯
(5)

「さ、早紀!?」
 突然涙を流しはじめたわたしに気づいた海は、そうやってぎょっと目を見開いた。
 そして、おろおろと慌てはじめる。
 どうして今、わたしが泣いているのかなんて、当然海にはわかっていない。
 だから海は、原因不明のわたしの涙に慌てずにはいられないみたい。

「……ううん。何でもないの。ただね……今、すごく幸せだなって思って」
 ぽろぽろと流れる涙をとめようともせずに、わたしは海を見つめそう言っていた。
 本当に、幸せだなって、そう思えるから。

 やっぱり……無理だよ。
 この優しい空間、もう手放せない。
 この空間がなくなったら、わたしはきっと、息ができなくなって死んじゃうと思う。
 それくらいに、もう大切なの。この空間は。

「……わたし、本当に海の婚約者でいいのかなって思っていたのだけれど……。でも、なんかもういいやって思った。今、海の姿を見たら」
 そうやって、自嘲気味に笑ってみせる。
 すると、瞬間、海の顔が曇った。
 そして、慌ててわたしをひきはなし、わたしの両肩をぎゅっとつかむ。
 まっすぐでいて、真剣な眼差しがわたしに向けられる。
「早紀……。そんなことで悩んでいたの? ごめん……。気づいてやれなくて。だけど、そんなのはどうでもいいよ。悩む必要なんてない。早紀はただ、俺のそばにいてくれるだけでいいんだ。それだけで、俺は幸せだから」
 そう言って、海はまたぎゅっとわたしを抱きしめた。
 さっきよりも、ずっとずっと強く。
 逃がさないって。はなさないって。
 それが……いっぱいいっぱい伝わってくる。
 好き……。愛している……。
 そういう気持ちと一緒に。

 ……うん。
 ごめんね。海。
 わたし、また余計なことを考えちゃったみたいだね。
 また、勝手に一人で先走って、勝手に悩んで……。

 そうだよね。
 信じていいんだよね。
 わたしは、海のたった一人の人でいていいって。
 わたしには海だけのように、海にもわたしだけって。
 そう思うわよ? 思っちゃうわよ?
 嫌だって言っても、もう遅いからね。
 海がそう思うように仕向けたのだもの。
 ねえ、海?

 夕立が上がった頃。
 ぽたぽたと木からたれ落ちる水滴の下。
 わたしは海と並んで、キャンパスを後にする。

 また、今日も海の家に遊びに行く。
 そしてきっとまた……泊まっちゃうんだろうね?


 雨上がりの夕暮れ。
 わたしは海のたった一人の人でいていいって、そう確信した夕暮れ。
 海と一緒に歩いた日。
 それから十日ほどが過ぎたある日。
 ぎらぎらと、本格的な夏の日差しが照りつけるようになっていた。

 そんな夏の昼下がりのこと。
 海の家のリビング。
 ソファに腰かけ、クッションをきゅっと抱きしめ、すがるように目の前の空さんを見つめるわたしがいた。

「空さあ〜ん。どうしよう。最近、海がたくさん求めてくるようになったの……。わたし……どうしたらいいのかわからなくて……」
 一人がけのソファに優雅に腰かけ、アイスティーを飲む空さんにそう言っていた。
 ほんの少し頬が赤かったかもしれない。
 だけど、今空さんに言ったことは本当。
 釣り合わないかもしれない……。
 そんな悩みが消えたわたしに、また悩みの種が降りかかってきていた。
 それが、これ。

 本当に、ここ数日、海ってば、執拗にわたしに触れたがる。
 きゅっと抱きしめたがる。
 それに……あの日から、海ってば、わたしが泊まる度、もぐりこんでくるの。ベッドに。
 朝起きたら、必ず海がわたしの目の前にいる。
 たしかに、夜は一人で寝ているはずなのに……朝には海がいる。
 これって絶対……夜中のうちに、もぐりこんできているってことよね?
 それに気づけないなんて……なんだか悔しい。
 そして、恥ずかしい。
 海のばかあ〜。

「……ったく。あの馬鹿は。嫌なら、一度がつんと言ってやりなさい。そうしないと、わからないわよ。あのふざけた男は」
 がちゃんと乱暴にアイスティーのグラスをテーブルの上に置き、空さんが憎らしげにそう言った。
 そして、あまつさえ、ばきっ、ぼきっと、指の関節まで鳴らしたりして……。
 嗚呼〜。やっぱり、空さんて、ただものじゃない。
 海が、空さんだけにはどうにもかなわないってそう言っているの……なんだか納得できるような気がする。
 あの余裕しゃくしゃくで微笑む海が、空さんを前にしたら、一歩後ずさるくらいだもの。
 空さんて……すごい。すごすぎる。
 ――もしかしなくても……わたし、相談する人、間違えちゃった?

 そんな空さんを、ちらっと見て、クッションにむぎゅっと顔をうずめてしまった。
 そして、そこからぽつりとこぼす。
「……あの……ね……」
「ん?」
 そのつぶやきが聞こえていたのか、空さんは首をかしげ、わたしを見てくる。
 何か言いたいことがあるの?って。そうやって。
 だからわたしは……。
「別に……嫌じゃないの。ただ……恥ずかしくって……。それで、どうしたらいのかわからなくて……」
 クッションに顔をうずめたまま、もごもごとそう言ってみる。
 きっと、この時のわたしって、真っ赤な顔をしていたと思う。
 だって、本当に恥ずかしかったから。
 そして、こんなことを言ってしまえるわたしが不思議だった。
 以前のわたしなら、絶対こんな恥ずかしいこと言えない。
 それなのに……今は――

「……」
 わたしの言葉に、空さんは、どこか冷めたように目をすわらせてしまった。
「そ、空さん?」
 どうして急に、空さんの様子がかわったのかわからないわたしは、もちろん空さんの顔色をうかがう。
 空さんは、呆れたようにはあと大きなため息をもらした。
「好きにして」
 そんな言葉とともに。
「空さあ〜ん。そんなこと言わないでえ〜。ねえ、見捨てないでよお〜…」
 ぎゅむうとクッションを抱きしめ、ずいっと体を乗り出し、空さんに迫る。
 すると空さんは、こめかみをおさえ、呆れたようにばっと立ち上がった。
 そして、じとりとわたしを見下ろす。
「わたしは、あんたたちののろけにつき合っている暇はないのよ。まったく。あの愚弟がっ。ぶん殴ってやるっ!!」
 そうやって、急に憤り、空さんは、どすどすとリビングを出て行ってしまった。

 ――一体……空さん、どうしたのかな?
 急に……。
 訳がわからない。


 空さんが出て行くと、それに入れ違うようにして海がやってきた。
 心なしか……やつれたような感じがする。 
 こういう時の海は、決まって、空さんにいじめられた後。
 ……ということは……もしかして、すぐそこで空さんと会って、早速いじめられてきたのかな?

 そう思って、リビングに入ってきた海を、クッションに顔をうずめたままちろっと見た。
 それに気づいた海は、急に元気をとりもどし、にっこりと微笑む。
 そして、さっきまでのやつれた様子が嘘のように、足取り軽く、うかれたようにわたしのもとまでやってきた。
 当然のように、わたしの横に海は腰かける。
 それから、ぎゅむっと、抱いているクッションごと海に抱きしめられてしまった。

「早〜紀。好きだよ」

 海はそう言って、他のことはどうでもいいといった様子で、執拗にわたしを抱き続ける。
 あたたかくて優しい海の胸の中、わたしは海になされるがまま。

 たった一人の人になった、元期間限定の偽りの恋人は、今ではいっぱいいっぱいわたしを求めてくる。
 そして、当たり前のように、わたしを専有するようになった。
 でも、それはちっとも嫌だとは思わない。
 むしろ、嬉しくって、もっともっとぎゅっとしてって思ってしまう。

 こうやって、海に触れている時が、いちばん幸せだから。
 海がいれば、もう何もいらない……。


 明日の朝目覚めると、目の前には、やっぱり海の幸せそうに微笑む顔があるのかな?
 うん。それも、いいかもしれない。
 海はわたしのもので、わたしは海のもの。
 そう確信する瞬間――


恋人遊戯 おわり

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update:04/06/19