恋人時間


 わたしには、世界中で誰よりも好きって思える大切な人がいる。
 もしかしたら、世界中なんてそんな小さな範囲におさまる程度の思いじゃないかもしれない。
 あの人へ抱く、この思いは。
 あの人には、たくさん苦しい思いをもらった。
 だけど、今は、幸せな思いばかりもらっている。

 きっとあれは、この時のための肥やしのようなものだったのかもしれない。
 この時のための原料だったのかもしれない。準備だったのかもしれない。
 あの人がいるだけで、幸せだと思える、そんな今を手に入れるために、必要だった過程。時間。
 ……今は、素直にそう思える。


「あれ? 海。何しているの?」
 海の家のリビング。
 変わらずここは、わたしの楽園。
 どんな理想郷を用意されたって、わたしは見向きもせず、そこだけを見つめている。
 そこのソファに、いつもならどっかりと座っている海が、何故だか……小さくなって座っている。
 ぎゅっと体をまるめ、ぐるりとブランケットを自らに巻きつけて。
 まるで、雪だるまみたい。

 ――これは一体、どういうことなの?
 ……ううん。そうじゃなくて、今度は何を企んでいるの?
 悲しいかな。そこにいきついてしまう。
 だって、こういう時の海が、まともだったことなんて、もうないもの。

「……ああ。早紀、おいで」
 ブランケットにくるまり、うとうととしていた海が、うっすらと目をあけて見てくる。
 リビングに入ってきたばかりのわたしを。
 そのいつもとは違う海の様子に、思わずそこに立ったままになっていたわたしを。
 しかも、そうやって向けてこられる視線が、何故だか妙に艶かしいとか思えてしまうのは、きっとわたしの気のせいじゃないと思う。
 ……絶対、わざと。
 だって、海のその言葉、わたしの疑問の答えになっていないのだもの。

「おいでって……。わたしは、何をしているの?と聞いているのよ?」
 つんと口をとがらせて、一応はそう応酬してみせる。
 だけど、きっと無駄だと思うけれど。
 海がこれくらいでひるむはずがない。
 そんなことくらい、もうわたしにはお見通し。

「何もしていないよ。ただ、こうやってのんびりしているだけ。……どこかの怪獣女が、さんざん、早紀を独占してくれていたからね」
 にっこりと微笑み、ブランケットの中から、すっと右腕をのばしてくる。
 はやくその胸に飛び込んでおいでと言わんばかりに。

 もう。海ってば……。
 本当に、ちょっぴり恥ずかしくて、とっても嬉しいことばかりするのだから。
 ――ううん。それよりも、さりげなく今、聞き捨てならない言葉を言われたような……?
 嗚呼。やっぱり、海、怒っていたのね。
 しかも、とっても。
 そのさわやかすぎるくらいさわやかな笑顔が、何よりもそれを物語っている。
 今まで、空さんに、わたし、独占されちゃっていたから。

 どうにも空さんにだけはかなわない――そうでもないような気もするけれど。まあ、海が言っていることだけれど。これは――海は、いつもあっさりと空さんにわたしを略奪されてしまう。
 今日もそうだったのよね。
 そして、ようやく解放されて、海のもとへくることができた。

「ふふっ。やきもちやいた?」
 たっと海の待っているソファへとかけ、その胸の中に一気に飛び込む。
 同時に、くるまっていたブランケットを開け、すっぽりと胸の中におさめられてしまう。
 それからすぐに、ふわりと、ブランケットにわたしごとまたくるまってしまって……。
「今さら、あの鬼畜女にやきもちやく気にもならないよ。……ただ、この上なく腹立たしいというだけ」
 そうやって、ソファの上、一緒にブランケットにくるまる海が、こつんとわたしのおでこにおでこをくっつけてきた。
 ちょっといたずらっぽくその目が笑っている。

 ……もう。海ってば。本当、意地っ張りね。
 それはね、つまりは、やっぱり、やきもちをやいてくれているということでしょう?

 海って、本当にすごいよね。
 どうしたらわたしが喜ぶか、幸せになれるかちゃんとわかっている。
 そして、さりげなく、わたしを嬉しい気持ちにしてくれるの。
 やっぱり、海のそういうところ、好き。
 どこが、とかじゃなくて、海だから好きなのだけれど、あえてあげるとするなら、そこが好きなところの一つかなあと思う。

「ねえ、海。それじゃあ、初詣どうするの? 一緒に行くんだよね? だから、空さんから逃げてきたのだけれど」
 向かい合うように海に抱かれているわたしをくるりと一八〇度回転させ、海のひざの上に座らされるようなかたちにされる。
 そして、後ろから、ぎゅうっと抱きしめてくる。
 一緒に、頬を海の髪がさわさわと触れ、くすぐったい。
 それは、頬だけじゃなくて、心もかもしれない。

「うーん。それは、明日になったら考えよう」
「え?」
 触れてくる海の髪に顔をうずめるように、くるりと振り返った。
 すると、海は妙におだやかな顔で微笑んでいた。
 そして、もうちょっとだけ、ぎゅうっと抱きしめてくる。
「とりあえず今は、こうやって、早紀と一緒に、今年最後の日……時間をすごしたい」
 わたしを抱きしめたまま、ぽすんとソファに体をあずける。
「そして、来年最初の日……時間も、早紀と一緒に迎えたいな」
 まるでねだるように、だけど意地悪っぽく、海はそう言って微笑む。
 だからわたしの顔は、自然、赤く染まってしまうわけで……。

 ――本当に、海って信じられない。
 一年の恋人契約が終わり、無期限のたった一人の人になったその時から、ゆっくりとだけれど、わたしへ向けてくる思いが、強くなってきているように感じる。
 わたしですらも、そうだと気づける程度に。

 はじめの頃は、空さんにそういうことをよく言われていたけれど、それがどういう意味なのかわたしにはわからなかった。
 だけど、近頃、わかるようになった。
 そして、それが、わたしをとても幸せにしてくれるものだと気づいた。
 ただ、気づいていないだけで、わたしはきっと、海にたくさんの思いをもらっていたのだと思う。
 今思えば、とってももったいないことをしていたとも……。
 だけど、過ぎてしまったことを残念がっても仕様がないと思うから、これからの海がくれる思い、すべて、一つももらさず、しっかりもらおうと思う。
 その一つ一つの、はっきりしたものからさりげないものまで、やっぱり全部がわたしを幸せな気持ちにしてくれると思うから。
 そして、そうやって海がくれる思いと同じくらい、わたしも海にあげられたらいいなあ……。
 こうやって、一つのブランケットに、一緒にくるくるくるまるだけで、もう十分わたしは満たされてしまっているけれど。
 ――まあ、だけど、こうやってくるくるブランケットにくるまる意味は、よくわからないのだけれど。
 だって、特別寒くもないし。
 だけど、室温よりも、くるまるブランケットよりも、海と触れているところすべて、そして何より、心がほこほことしている。

 開けっ放しになったカーテンの向こうの窓は、すっかり白くくもっちゃっている。
 きっと外は、思っている以上に寒いのかもしれない。
「そういえば、海の趣味って何? 何かに打ち込んでいる姿って、あまり見かけたことがないような気がするのだけれど……」
 ふと、そんなことが頭をよぎり、その思いのまま口にしてしまっていた。思わず。
 まあ、だけれど、それは今思いついたようなことじゃなく、普段から思っていたことなので、この際、都合がいいかもしれない。
 たしかに、よく目にするものといえば、空さんと喧嘩をしているところで……。
 むしろ、それしか見ない?
 そう考えると、空さんとの戦いが趣味なのかもしれない。
 だって、空さんと喧嘩をしている時の海って、とても楽しそうだから。生き生きしているから。

 くるりと海へ振り返ったまま、くいっと首をかしげてみる。
 すると海は、少し驚いたように目を見開いた後、ふわりと細めた。
 そして、ずいっと顔を寄せてくる。
 ただでさえ、いっぱい寄せていた顔を寄せてきたから、もう海との間の距離は、ないに等しいかもしれない。
 吐息と吐息が、絡まる程度に、遠い。
「早紀だよ」
「え?」
 そんな距離に近づいた海の目が、瞬時ににっこりと微笑む。
 しかも、やけにさらりと告げてもくれた。
 それが、いまいちよく理解できなくて、やっぱり首をかしげてしまう。
 さらに、深く。
 すると、そのかしげていた頬に手をそえて、そのまままっすぐに戻されてしまった。
 それから、もう吐息と吐息が絡まる程度……なんてそんな遠い距離じゃないところで、優しく海がささやく。
「ねえ、だから、早紀。二人だけで、まったりゆったり、新年を迎えよう。そして、誰よりも早く、いちばんはじめに、早紀におめでとうって言うからね」
「う、海……?」
 そしてそのまま、やっぱりいまいち理解できないままのわたしの唇に、海のそれをかさねてきた。
 ……そう、もう吐息と吐息なんてかわいいものなんかじゃなくて――
 そうやって海が触れてきた時には、年が変わるまで、新しい年を迎えるまで、あと数分だった。

 そして、わたしは、ようやく理解する。
 海の趣味は、わたしだって言った、その真意を。
 だったらきっと、わたしの趣味も、海なのかもしれないね?

「もうすぐだね」
 座っているソファのちょうど正面の壁にかかった時計を見て、海がそうつぶやいた。
 それにつられるようにして、わたしも時計に視線を移す。
 たしかに、海の言うとおり、時刻はそろそろ零時。
「……うん。あの針が、次に十二にきた時だね」
 針を気にしつつも、海へと視線を戻していく。
 すると、海もちょうど針から視線を戻してきたところみたいで、ばちっと目が合ってしまった。
 そして、それがなんだかおもしろくて、二人くすくすと笑い合う。
 だけど、それはすぐにやめて、また二人でじっと時計の針を見つめる。

 カチカチカチ……。
 今年も終わろうとしている静かなリビングに、針の音が優しく響く。
 まるで、この時間を、わたしたちを包みこむように。

 コチコチコチ……。
 そして、ついに、全ての針が、十二の文字の上でかさなった。
 それを見届け、再び顔を合わせ、くすりと笑い合う。

 やっぱり、どことなく、くすぐったい。
 それから、海が優しい微笑みを降り注いできた。
 ずっとかわりない、その吐息と吐息が絡み合う距離から。

「早紀。新年、あけましておめ――」
「あ、はっぴぃ〜、にゅーいやーっ!」
 海の言葉を遮るように、ばったーんと扉が乱暴に開けられる。
 同時に、そんな叫びとともに、空さんが乱入してきた。
 嬉々として。
 つづいて、その後から、あまり気乗りしないといったように耳をたれた、犬が……犬の着ぐるみを着た湊さんが入ってくる。
 ちょうど顔の部分だけ露出しているかたちの着ぐるみ。
 だから、そのわんちゃんが湊さんだって一目瞭然で……。

 乱暴に開けられる扉の音で、思わずそちらを見たわたしは、つぶやいていた。
「そ、空さん。それに、湊さん……。その格好は、何?」
 すると、愛想笑いを浮かべながら答えてくれようとする湊さんの前に躍り出て……押しのけて、何故だか空さんが楽しそうに答える。
 あっけらかんと。
「ああ、これ? これは、わたしのポチ」
 なんて、そんなことを。
「ポ、ポチって……」
 そのような空さんに、思わず頭痛を覚えてしまう。
 しかも、空さんにおしのけられ虐げられているにもかかわらず、湊さんにはちっとも怒ったような様子はない。
 ……ううん。そうじゃなくて、すでに呆れを通りこして、悟りの境地に至ってしまったような感じ?
 空さんにいいように扱われることに、すっかり諦めてしまっているようで。
 その様子に……というよりかは、その言葉に、海もさすがにあっけにとられてしまっているようで、ぽかんと口をあけている。
 だけど、それでも、わたしは、がっちり抱きしめていて。
 すると、そんな海の腕の中から、わたしは空さんに強奪されてしまった。
「ということで、湊をポチにしたことだし、さくさくっと、ニューイヤーパーティーはじめるわよー!」
 そんなことを楽しそうに叫びながら。
 しかも、「早紀ちゃんには、振袖を着せてあげるわね。真っ赤な振袖! 絶対似合うわよー。そして、かわいくなった早紀ちゃんは、わたしが独り占めするの」なんて、さらに頭が痛くなるようなことまで言ってくれたりして……。
 もちろん、そんなことを言われてしまった海の顔は、険しくゆがんでいる。
 同時に、空さんからわたしを奪い返す気力までも奪われてしまったようで……。
 ぐったりと、ソファにうずまっている。
 わたしをさらう時に散らされてしまったブランケットを、辛うじてそのひざにかけながら。

 結局、海の望みは、塵に散ってしまったみたい。
 だって、いちばんはじめのおめでとうは、空さんにとられてしまったから。
 ――なんだか、空さんってば、海に嫌がらせをするためになら、いろんな意味で糸目をつけないのかもしれない。
 あらためて、そう思う。
「頼むから、もういい加減にしてくれ!」
 うなだれ、海がそう嘆いていたから。

 ……そう。あの海が。
 しかも、それを見て、空さんは、してやったりと、高らかに笑い、はしゃいじゃっているし。
 湊さんにじゃれるようにして。
 そして、そうやって犬なのにじゃれられている湊さんは、やっぱり呆れたように諦めたように、空さんの自由にさせている。

 そんな二人からそっとはなれて、がっくりと肩を落とす海へと近づいていく。
 そして、膝にかかっているブランケットを引き上げて、ふわりと海の肩にかけなおす。
 その瞬間、海の耳にそっと顔をよせて、ささやいてみた。
「わたしはね、海と一緒というだけで、とっても嬉しいよ」
 そんなことを。

 海は目を見開き、わたしを凝視した。
 そのような海に、わたしはにっこりと微笑むだけ。
 すると、海は今にも泣き出してしまいそうに顔をくずし、だけどとても幸せそうに微笑んでくれる。
 だから、思わず、ぎゅうっと海に抱きついてしまった。
 その時の海が、かわいいと感じて。あまりにも愛しくて。


 ……本当だよ。
 どんな時だって、海がいるだけで、特別になる。


恋人時間 おわり

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update:06/01/01