恋するマリオネット
(35)

 非常識な非日常から解放され、一体、どのくらいたっただろう。
 遠い異国の地ですごしたあのひと月は、今ではもうすっかり、本当にあったことなのかと疑うほどに、萌歌は平凡な日常を取り戻している。
 日本へ帰ってきてからも、小紅が何かと心をくだいてくれて、萌歌は滞りなくいつもの日常に戻りつつある。
 その点においては、彼女に感謝しなければならない。
 ……何やら、王子方と日頃から親しくしていただいている、と言っていたことにはひっかかるものがあるけれど。
 いや、何よりも、よもや、小紅がランバートを……という時点で、思い切り疑心にとらわれる。
 まあ、しかし、こうして、萌歌に再び、友達にかこまれる日々が戻ってきたのだから、もうそれについては考えないようにする。
 考えると、まだ胸は痛むから。
 くさいもの……ではないけれど、今は、ふたをしておいた方が賢明だろう。
 別れ際のフィガロットのあの顔を、思い出したくはない。
 思い出すと、萌歌の心が乱れるから。
「ふう……。やっぱり、大変だね、学祭の準備は」
 椅子にすわり、んーとのびをして、のんびりと萌歌がつぶやいた。
 すると、すぐさま、非難に似た眼差しを真央子は萌歌へ注ぐ。
 何やら、床いっぱいに模造紙をひろげ、お絵描き……芸術作品を作り上げていっている途中らしい。
「……萌歌。あんた……。この忙しい時期にひと月も姿をくらましていたかと思えば、ひょっこり現れ、そして、どうしたんだあ?と思っていると、今度は足に怪我を負って働けない……と? ――いい根性しているよねー?」
 真央子は、手に持っていた、シンナーのにおいがやけに鼻につくカラーフェルトペンを、ぶんぶんふりまわす。
 おしくらまんじゅう状態で、真央子と一緒にお絵描きをしていた数人の学生が、「うわあっ!」と絶叫していることなど、さらっと無視して。
 それがまあ、水性ならまだしも、油性フェルトペンをふりまわされたら、危険きわまりない。
 しかも、持っていたフェルトペンをぽいっと放り捨て、書きかけの芸術作品に汚点を残していく。
 それを、その横の男子学生が慌てて拾いあげたけれど、時すでにおそし。
 きれいな染み……余計な模様を完成させていた。
 やはり、そのことなどさらっと無視して、真央子は萌歌へずずいっと迫る。
「にゃーん。いじめるう。真央子が萌歌をいじめるのー」
 両手を胸の前でぎゅっとにぎりしめ、萌歌はそう言ってわざとらしくあまえてみせる。
「かわいこぶっても無駄!」
 しかし、やはり、そのような小手先だけの芸当が、真央子に通じるはずがなかった。
 むしろ、おぞましそうに顔をゆがめる始末。
 そこまでひどいリアクションをしなくてもいいのにと、萌歌の頬がちょっぴりふくらむ。
 さすがに、萌歌自身でもやりすぎだったと思っているようだけれど、だからって、その反応はひどい。
「真央子。あまり萌歌をいじめるなっての。仕方ないだろう。萌歌は本当に怪我をしているんだから。――ほら、萌歌は、ポスターでも書いていて」
 そう言って、いきなり真央子の後ろに現れた男子学生が、にっこりと微笑む。
 ぐいっと、萌歌の手に、画用紙と色とりどりのフェルトペンを手渡しながら。
 そのような男子学生をじとりとにらみ、真央子は盛大にため息をもらす。
 思い切り、あてつけるように。
光也(みつや)は、本当、萌歌にあまいね?」
「仕様がないだろう……」
 ぽっと頬を赤らめて、光也は苦笑いをみせる。
 そのような反応に、萌歌などさっさと放り出し、真央子は嬉々として光也へ迫っていく。
 とっても恐ろしく、その目がきらきらと輝いている。
 いいおもちゃが向こうからやってきたとばかりに。
「あーらら。素直なのだらっ」
 そうして、真央子はけらけらと笑い出してしまった。
 それに、聞き耳を立てていたのか、先ほど、真央子にフェルトペン攻撃をお見舞いされていた学生たちも、くすくすと小さく笑い出す。
「っていうか、ムカつくのよ! マジで! どうして、夏休みなのに、出勤して労働しなきゃならないのよー! 学祭は、まだふた月も先でしょー!」
 真央子は、いきなりそのようなことを叫ぶと、うがあっと奇声を発し、ちゃぶ台返しならぬ、すぐ横の机の上においていたフェルトペンのケースをどさりとひっくり返した。
 するともちろん、その下では、絶叫に似た悲鳴があがるわけで……。
 せっかくのお絵描きの邪魔をされるだけでなく、学生たちへ、フェルトペンがばらばらと頭の上から降りそそぐ。
 中には、ケースの角が見事命中してしまったのか、涙を流し、頭をおさえながらのたうちまわる男子学生までいる。
 どうやら、真央子は、とんだ暴れ馬らしい。
 そしてもちろん、真央子への非難ごうごうがはじまる。
 わらわらと学生たちが集まってきて、暴れる真央子を力ずくでとめにはいる。
 ただでさえせまい部室の中、このように暴れられてはたまったものではない。
 そのような、絶叫やら怒声やらが響く中だというのに、萌歌は一人、椅子にちょこんと腰かけ、楽しそうにくすくす笑っている。
 ある意味、この状況を作り上げる一端を担っているといっても過言ではないのに。


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update:07/11/06