恋するマリオネット
(38)

 翌朝。
 学祭の準備へでかけようと、玄関の扉をあけた時だった。
 見ると、目の前には、門柱に背をあずけ、向こうをむいている男性の姿があった。
 その後ろ姿は、とても見慣れたもので……。
「光也……くん?」
 思わず、頬をほんの少しひきつらせ、萌歌はぽつりとそうつぶやいていた。
 まさか、昨日の今日で、このようなことになろうとは。待ち伏せされていようとは……。
 萌歌は、まだ、どのような顔で、光也に会えばいいのかわからないというのに。
 もちろん、返事など、用意できているはずがない。
 すると、萌歌のつぶやきに気づいたのか、くるりと光也が振り返った。
 そして、どこか恥ずかしそうに、にっこりと萌歌に微笑みかける。
「一緒に行かないか?」
「え……?」
 そうつぶやいた時には、もう光也と行くことが決まってしまっていた。
 その笑顔に、萌歌は逆らえなかった。
 好意を向ける相手を、萌歌はそう邪険にはあしらえない。
 ――そう、普通なら、萌歌は、好意を向けてくる相手を、邪険にあしらえないはず。
 なのに、どうして、あの国で、あの王子に向けられた好意――きっと、多分……そう――は、邪険にしてしまったのだろう?
 萌歌は、今ではそれが少し悔やまれてならない。
 最後に、空港で見た、あの涙のために。
 やっぱり、萌歌はフィガロットをひどく傷つけてしまったのだろうか?
 あのようなむちゃくちゃなことを言われて腹立たしく思っていても、それでも、もう少しくらいは、優しく接した方が……?
 今、冷静に考えてみると、あの人たちは、萌歌を大切に扱ってくれていた。
 萌歌に言うことや求めることは、めちゃくちゃだったけれど。
 ……うん、萌歌を大切にしてくれていたことは、わかる。
 だから、きっと、ちくりと萌歌の胸が痛むのだろう。あの国でのひと月のことが、頭をよぎると。
 萌歌のちょっぴりの良心によって。
 それ以外では、あってはならない。
 それ以外があっては、認めたことになってしまうから。
 きゅっと、服の上から、胸の辺りをにぎりしめる。
「ごめんな、萌歌。昨日はあんなことになってしまって……。だけど、俺、本気だから」
 萌歌がぎゅうと胸の辺りをにぎりしめていると、ふいに光也がそう言った。
 顔を向けると、そこでは、どことなく切なそうに微笑む光也がいた。
 それに、また、萌歌の胸がちくんと痛む。
 だけど、それは、光也のその表情によるものではなく、もっと別の……。
 もっと激しいひどく切ない微笑みを、萌歌は知っている。
 その微笑が、一瞬、ざあっと胸の内に広がった。
 それが、萌歌の胸を痛めて仕方がない。
「しばらくひやかされて大変だろうけれど、我慢してくれな? すぐにおさまると思うし……。あいつらも、ただおもしろがっているだけだろうから」
「う、うん……」
 へにゃっと、ばつが悪そうに、光也は微笑む。まっすぐと、萌歌を見つめて。
 思わず、光也から顔をそらし、萌歌はうつむいてしまった。
 その時だった。
「萌歌……!」
 その叫び声と同時に、萌歌の腕がぐいっと引かれていた。
 何事かわからず、ぽけっとほうけていると、さらに叫び声が続く。
「馬鹿! 赤信号!」
「え? ああ……」
 それで、ようやく、萌歌もこの状況を理解する。
 そういえば、よく見ていなかった。
 光也の話を聞いているうちに、萌歌の頭の中にもやがかかったように、ぼんやりと何も考えられなくなってしまっていたから。
 ……いや。考えられないのではなく、別のことを考えてしまっていた。
 そう……別の、あの国でのひと月のことを。
 どうして、今、そのようなことを考えてしまっていたのか、萌歌にもわからない。
 ううん、そうではなく、ふと気づけば、萌歌はいつも、あの国でのことを考えてしまっている。
 だから、それが嫌だから、面倒だけれど、萌歌は学祭の準備へと行っている。
 その間は、少しでも、あの国でのことを考えなくてすむから。忘れられるから。
 ずきりと、傷が治ったそこが痛む。
「何しているんだよ、お前は……」
 盛大に胸を撫で下ろし、光也は責めるように萌歌を見る。
 しかし、その目に込められた光は、とても優しい。
「ご、ごめん……」
 ふいっと視線をそらし、萌歌がぽつりとつぶやく。
 すると、光也は、悲しそうに顔をくもらせた。
「……やっぱり、迷惑だったか? 俺の気持ち……」
 そして、萌歌の腕をつかんでいた手を、するりとはなしていく。
 ずきりと、萌歌の胸が痛む。
 萌歌は、光也にそういう顔をさせるつもりはなかった。
 やはり、萌歌には迷っている暇などなく、できるだけ早く答えを出さなければいけないということだろう。
「あ、あの……。違うの。そういうことじゃなくて……その……。ただ、急だったから……」
 視線をそらしたまま、萌歌はしどろもどろにそう答える。
 頬が、なんだか熱い。
 どう答えればいいのかわからないけれど、それは、紛うことのない、今の萌歌の思いでもある。
 そう、急だったから……。
 仲がいい友達だと思っていた光也からそれを告げられ、萌歌は戸惑っている。
 戸惑っているから、だから、まだ答えを出せない。
 ……出せないに違いない。出せないはず……。
 出さない、ではなくて。
 きっと、そうに違いない。
 ――それとも、答えはすでにでているけれど、それを先送りしているだけ?
 萌歌の卑怯な弱虫の心のために。
 萌歌がそうつぶやくと、また光也がその腕をつかんだ。
 今度は、両腕。
 詰め寄るように、萌歌の腕をつかんでいる。
 光也のその目は、まっすぐ萌歌をとらえている。
「じゃあ……じゃあ、萌歌……!」
 もう信号は青にかわっているというのに、足を踏み出そうとしない。
 信号の存在など忘れ、光也は萌歌に迫る。
「……返事を、返事を聞かせて欲しい……っ」
 そらしていた視線をばっと光也へ向け、萌歌は目を見開く。
 だけど、すぐにまた、目をそらしてしまった。
 戸惑いに顔を赤く染めて。
 萌歌を見つめるその目が、あまりにも真剣だったから。だから……。
 ふと、また、あの光景が萌歌の頭をよぎる。
 瞬間、あれほど迷っていたはずなのに、不思議となめらかに言葉がでていた。
「光也くん。あのね……」
 その後、二度ほど信号が赤になってまた青になっても、二人は押し黙ったように、ずっとそのままだった。
 ついに諦めた光也が、ふうっと小さく吐息をもらした。
 そして、ようやく、大学へ向けて、再び足を動かしはじめる。
 ――わかっている。心のどこかではわかっている。
 きっと、こうすることは、必然だったのだと。
 萌歌は気づいてしまったから。
 思いを告げられ、すぐに答えを出せなかったのは、何故かということに。
 すぐに答えを出せないということは、つまりは――。
 萌歌は、光也をこのまま受け入れてもいいと思っていた。
 急で戸惑いはしたけれど、嫌いじゃないから。むしろ、大好きな友達だから。
 なのに、萌歌の心のどこかで、それじゃ駄目だと、警鐘を鳴らしている。
 それに気づいてしまったから、一歩を踏み出せずにいる。踏み出しちゃいけないような気がする。
 何よりも、今胸元で小さな光を発するそれが、萌歌をつかまえようと……逃がさないように、必死にもがいている。
 それに、萌歌は逆らえない。
 どうして、萌歌はこのような気持ちになってしまっているのか……。
 ふと、萌歌の頭をよぎるのは、あの南の国の美しい庭園。
 何故、こんなにも、その記憶は、萌歌をしばりつけるのだろう。
 また、フィガロットの最後の顔が、目の前を駆け抜けていく。


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update:07/12/03