恋するマリオネット
(43)

 太陽がすっかり西へ傾いた頃。
 医務室を出た萌歌は、その人物の姿を目にし、体を硬直させた。
 だって、そこには、まっすぐに萌歌を見つめるフィガロットがいたから。
 赤い夕陽を背負い、やるせなさげに力なく立っている。
 あの後、真央子と光也は、二人そろって医務室を去っていた。
 きっと、今はそうすることが、萌歌を一人にすることが、最もいいと考え。
 どうして、あのように苦しそうだったのか二人にはわからないけれど、きっと何か大きな事情があるだろうことはわかったよう。
 あの小紅という女性の出現、そしてかわされていた言葉から、なんとなくそう推察したのだろう。
「……どうして、来たの?」
 足を一歩踏み出したフィガロットに、びくりと肩を震わせ、萌歌はそう尋ねていた。
 その目は、にらむようにフィガロットを見ている。
「どうしてって……」
 苦しげに、フィガロットは萌歌を見つめる。
 赤く照らされたその顔が、今にも泣き出してしまいそうに見える。
「……ふーん。日本語、わかるんだ? あの薬のききめは、もうまったく残っていないよね?」
 皮肉るように、萌歌は口の端をあげる。
 そして、すっと、フィガロットへ背を向ける。
 そのまま一歩踏み出す。
「萌歌……」
 すると、フィガロットがぐいっと萌歌の腕をひき、その胸の中へ引き寄せた。
 後ろから、まるで包み込むように、萌歌をぎゅっと抱きしめる。
 どくんと、萌歌の胸が大きくはずむ。
 まるで、はじけ飛んでしまいそうなほど。
 まるで、押しつぶされてしまいそうなほど。
 何故、どうして、フィガロットの腕に抱かれただけで、萌歌の胸はこんなに痛むのだろう。しめつけられるのだろう。
 抱きしめるその腕に、萌歌はそっと触れていた。
「萌歌……。話をしよう。僕は、君と話をしたくて、日本語を習ってきたんだ」
 萌歌を抱きしめるフィガロットの腕に、ぎゅっと力がこもる。
 萌歌の耳元でささやくその言葉が、かかるその吐息が、妙にくすぐったい。
 頭はフィガロットを拒絶したがっているのに、体はいうことをきいてくれない。
 きいてくれないだけでなく、どうして、今、萌歌はその腕に触れているのだろう?
 まるで、放さないでというように。
「話って……。別に習わなくても、あの薬を使えば平気でしょう? それに、帰してくれると言ったよね? だから、わたしはもう……」
 萌歌は、何かを吹っ切るように一度首を小さくふり、ぎゅっと目をつむる。
 このままでは、駄目なのに。駄目だと萌歌もわかっているのに。
 体だって、放さないでというように触れると同時に、ふるふる震えている。
 その震えは、フィガロットを拒むところからきているはずなのに。
 なのに、放せない。抗えない。
 拒むことなんて、……できない。
 拒もうとすると、あの別れ際のフィガロットの顔が萌歌の脳裏をかすめる。
 思い出すと、萌歌の胸がつぶれそうに痛む。
 もう二度と、あのような顔は見たくないというように。
 ――え? それじゃあ、つまりは、やっぱり……?
 ……あり得ない。
「薬などに頼らず、君の国の言葉で、君と話をしたい。たしかに、帰すとは言ったけれど、諦めると言ったつもりはないよ。だって、僕の伴侶は、もう萌歌しか考えられないから」
 どくんと、また萌歌の胸は波立った。
 そんなこと、もう何度も言われているはずなのに。
 このように、何度も求められているはずなのに。
 そのたび、拒否し続けているはずなのに……。
 どうして、こんなに、萌歌の胸は激しく叫んでいるのだろう?
 離れていたこの二ヶ月が、まるで嘘のように消えていく。
 つうと、萌歌の頬を涙が伝っていく。
「知らないわよ、そんなこと! もう人の生活をかき乱すのはやめて! あなたなんて嫌いよ!」
 ぎゅうっと触れていたフィガロットの腕をにぎり、萌歌ははき捨てるように叫んでいた。
 誰もいない赤い廊下に、その声が妙に大きく響き渡る。
 だけど、そのまま、その腕をふりはらうことは、萌歌にはやっぱりできない。
 どうして、振り払いたいのに、振り払わなければいけないのに、それができないのか……?
 萌歌の頭も体も拒否したがっているのに、萌歌の心と体がそれを許してくれない。
 ――ひと月。
 このひと月で、一体、何がかわったというのだろう?
 萌歌はたしかに、この男を恐れているはずなのに。
 あの日の、あの別れ際のフィガロットの顔が、今も萌歌の頭にやきついたまま。
 鮮明に、よみがえり、広がっていく。
 萌歌は、フィガロットにあんな顔をさせるつもりなどなかった。させるつもりなど……。
 ――何故?
「萌歌……」
 フィガロットは、萌歌の言葉にびくりと体を大きく震わせた。
 けれど、その手は放そうとしない。ぎゅっと抱きしめたまま。
 フィガロットの腕をにぎる萌歌の手から、すっと力が抜けていく。
 その小さな変化に気づいたフィガロットが、驚いたように萌歌の顔をのぞきこむ。
 その時だった。
「フィガロットさま。今はそれくらいで……。いきなりあなたが現れ、萌歌さんも混乱しているのですよ」
 フィガロットの背から、ゆっくりと静かにそう告げる声がした。
 ふと視線をやると、どこか困ったように、そこに立ち、フィガロットを見つめるランバートがいる。
 また、フィガロットの体が、びくりと震えた。
「しかし……」
「そうです。フィガロットさま、少し落ち着いてください」
 ランバートの後ろから、今度はジョルーまでも現れた。
 どこか責めるように、フィガロットの腕の中の萌歌を見つめている。
 だけど、その目は、すぐにすっとそらされた。
「今はとりあえず、萌歌さんを解放してあげてください」
 ぽんとフィガロットの腕に触れ、ランバートが有無を言わせぬ眼差しを向ける。
 一瞬、フィガロットはひどく傷ついたような表情を浮かべたけれど、すぐにこくんとうなずいていた。
 そして、ゆっくりと萌歌を解放していく。
 するりと、フィガロットの腕から、萌歌の手が落ちていく。
 不思議そうに、萌歌の眼差しがフィガロットへ注がれた。
「お前たち、何故ここに……?」
 そして、赤く染まる窓の外へふいっと視線を移し、フィガロットは静かに問う。
 すると、あっけらかんとして、ランバートは言い放った。
「フィガロットさまの護衛ですよ。まさか、本当にお一人で行かれることを許したとお思いですか?」
「……いや……」
 ぐっと悔しそうに息をのみ、赤い赤い空をにらみつけるように見つめながら、フィガロットはそうつぶやく。
 そのようなフィガロットを、萌歌は不思議そうに見つめていた。
 ここに、ランバートとジョルーが現れたことなど気にしないといったふうで、ただ、フィガロットのその顔だけが気になるといったように。
 どうして、その顔が、萌歌はこんなに懐かしく感じるのだろう?
 どうして、あれだけうずいていた足の痛みが、フィガロットが現れた瞬間、ぱたりと消えていたのだろう?
 まるで、萌歌の心が影響しているかのように。
 それは、心のどこかでは、願っていたということ?
 本当は、このままはなれたくないと。
 だから、萌歌の足は、あんなにずきずき痛んでいた?
 ――違う。ただ、別れ際のフィガロットのあの顔が、萌歌に罪悪感を植えつけたから。だから……。
 だから、きっとそう。そうに違いない。そうじゃないといけない。
 ……でも、どうして、萌歌が罪悪感を抱かなければならないのだろう?
「……どうして、どうして、こんなことをするの? ……そんなに、わたしを追い詰めて楽しい?」
 のばした萌歌の手が、ぎゅっとフィガロットの服の袖をつかんでいた。
 それに気づいたフィガロットは、すっと萌歌へ視線を戻す。
 驚いたように、嬉しそうに、だけど悲しそうに、複雑にその目がゆらめく。
「それは違う。僕にとって大切なのは、萌歌、君だよ」
 袖をにぎる萌歌の手にふわりと手を重ね、フィガロットは愛しそうに萌歌を見つめる。
 だけど、どこか苦しそうに、目にこめられた光はにぶくゆれている。
「じゃあ、どうして、こういうふうに、わたしを困らせるようなことをするの?」
 瞬間、かっとフィガロットの目が見開かれ、苦痛にその顔がゆがめられる。
 触れていた萌歌の手を、ぎゅっとにぎりしめる。
 痛いくらい。


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update:08/01/16