恋するマリオネット
(53)

「もうっ、いきなり何よ! 痛い、はなして!」
 萌歌は腕を大きくぶんとふり、つかむフィガロットの手をふりはらう。
 そこは、普段はまったく人気がない非常階段だった。
 非常階段といっても、鉄の扉一枚を隔てただけで、それを開ければいつでも自由に出入りができる。
 講義前後で通常の階段が込み合う時などは、ここを利用する学生もそれなりにいる。
 だけど、今は講義時間中。
 萌歌たちは、たまたまこの時間はあいていただけ。
 部室だけが入った部室棟から渡り廊下を渡り、本館へとやってきていた。
 遠くの方からかすかに、教室からもれる講義のマイクの声が聞こえてくる。……ような錯覚に陥る。
「あ……ああ、ごめん」
 ふりはらわれた手をためらうように戻しながら、フィガロットは戸惑いがちに萌歌を見つめる。
 半分くらい衝動のまま萌歌をひっぱってきてしまい、この後のことはよく考えていなかったらしい。
 あの場から萌歌を連れ出さなければいけないと、フィガロットの中の何かが警告していた。
 ……いや、わかる。その何かは、何なのか。
「それで、何……?」
 ふうっと大きく息をはきだし、呆れたように、困ったように、萌歌は眉尻を下げる。
 強くつかまれ痛かった腕は解放されたので、とりあえず今はそれで十分らしい。
 萌歌はぽてっと壁に背をあずけ、じいっとフィガロットを見つめる。
「萌歌、ごめんね。僕のせいで、嫌な思いをさせちゃったね」
 薄暗い階段でじっと見つめる萌歌に、フィガロットは苦しそうに微笑む。
 ――そう、あの場から萌歌をさらってきたのは、きっと、弁解を……謝罪をしなければいけないと思ったから。
 あれは、間違いなく、フィガロットのために、萌歌が因縁をつけられていたのだから。
 そのような目にあって、萌歌が辛い思いをしていないはずがない。
「今さらよ。ヴィーダガーベで軟禁されていたことを思えば、これくらいたいしたことじゃないわ」
 申し訳なさそうに見つめるフィガロットに、萌歌は一瞬ぽかんと口をあけ、すぐに皮肉るように笑った。
 本当に、ヴィーダガーベで萌歌が告げられたことやされたことを思えば、これくらいの嫌がらせなどかわいいものだろう。
 ヴィーダガーベでのことは萌歌の一生にかかわってくることだけれど、あのような嫌がらせは一時期のことですむ。
 それに、あんなあからさまにねたみが入った醜い言葉になど、萌歌がひるむはずが、傷つくはずがない。
 そんなものよりもっと胸につきささる言葉を、萌歌は知っているから。
 ――逃げられない。
 萌歌がそう思ったのは、これまで生きてきた中で、あのことだけ。この人だけ。
 目の前で、苦しそうに、だけど愛しそうに萌歌を見つめる、この男性(ひと)だけ――。
 そのような目で見つめられると、萌歌は逃げられない。
 どうして、そこまで痛々しいまでの思いを、この男性(ひと)は抱くことができるのだろう?
 それを、萌歌へ寄せることができるのだろう?
 そんなに求めるように見つめられては、萌歌はやっぱり逃げられない。
 今まで気づかなかったけれど、本当の本当に……本気?
 逃げることを諦めたとたん、萌歌は自分の気持ちがもやが晴れたようによく見えるようになった。それに気づいてしまった。
 なんて皮肉なことだろう。
「わー。怒っている?」
 萌歌がじとりとにらみつけると、フィガロットはおどけたように微笑む。
 それまでの切ないまでの痛々しい表情は、そこにはない。
 その豹変ぶりに、萌歌はまた目を見開く。
「当たり前じゃない」
 にっこりと、どことなく黒いものをにじませながら、萌歌は微笑む。
 すると、フィガロットはくすりと笑い、困ったように肩をすくめた。
 きっと、やせ我慢――萌歌と一緒で、懸命に自らの恐怖を隠しているのだろう。
 萌歌は、逃げられないことに恐怖していたけれど、フィガロットはきっと、萌歌の気持ちに怯えているのだろう。
 そうわかってしまうけれど、だけどまだ、萌歌はフィガロットを受け入れることができない。
 だって、これまでの過程が過程だから……。
 あのようなことをされて、手放しで飛び込めるほど、萌歌は強くない。勇気はない。
 たとえ、自らの気持ちに気づいてしまっていても。
 あのようなことをされて、それでもそういう気持ちになってしまった自分自身が、萌歌は本当はいちばんわからなくて怖いのかもしれないけれど。
 フィガロットをじとりと見つめていると、ふいにフィガロットが萌歌へ手をのばした。
 そして、ふわりと、包み込むように頬に触れる。
 萌歌はその手を振り払えなかった。
「だけど、信じて。僕は、決して、萌歌を悲しませるためにあのようなことをしたのじゃない。僕は、萌歌が好きだから……」
「フィガロット……」
 振り払えないばかりに、萌歌は頬に触れるその手にそっと触れてしまっていた。
 きゅうっと胸がしめつけられる。
 どうして、そんなに、切なそうに強く強く萌歌を見つめるのだろう?
 本当に、フィガロットは萌歌を好きなの?
 出会いからしてうさんくさいのに……。
 フィガロットは、一体いつ、萌歌にそういう思いを抱いたの?
 あのインチキ占いの時、はじめて会ったはずなのに……。
「ねえ、その言葉……気持ち、信じていいの?」
 でも、今は、そのようなものはどうでもいいように萌歌は思える。
 ただ、今大切なのは、そう……その気持ちだけ。
 その気持ちが本物だというのなら、ならば――。
 フィガロットの手に触れる萌歌の手に、きゅっと力がこもる。
「え……?」
 びくりと肩をふるわせ、フィガロットは困惑気味に萌歌を見つめる。
 恐らく、萌歌からそのような問いがあるなど、思いもしていなかったのだろう。
 何しろ、今も変わらず、フィガロットは萌歌に嫌われたままだと思っていたから。
 だけど、それは、すなわち……?
「いいの?」
 なかなか答えないフィガロットを尋問するように、萌歌はじっと見つめる。
 その目は、はやくその答えを聞きたいといっている。
 ざあっと、フィガロットの胸の中に、熱いものが広がっていく。
 同時に、見つめるその女性が、この上なく愛しくなる。
「もちろんだよ。僕は、萌歌だけを愛している」
 フィガロットはふわりと微笑みをたたえ、きっぱりそう言い切る。
 すると、萌歌は頬をほんのり染めて、ぷいっと顔をそむけた。
 同時に、触れていたその手によって、フィガロットの手は萌歌の頬からはなされていた。
「ああ……そう」
 ぶっきらぼうにつぶやく萌歌のその姿が、なんだかとてもかわいらしくフィガロットの目には見えていた。
 自然、くすくすくすと笑いがこみあげてくる。
「おばか……」
 どことなくむっとしたように、萌歌はぽつりとつぶやく。
 ちらっと、目の前で笑うフィガロットを見ながら。


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:08/04/19