恋するマリオネット
(65)

 夕陽が差し込む誰もいない校舎。
 煌々と月の明かりが注いでいる。
 屋外からは、まだ学祭がつづいているようで、ざわざわというたくさんの声が聞こえて来る。
 まるでこの夜の薄闇に溶け込むように。
 人気のない廊下は、それをいっそう際立たせるかのように、明かりが消され、月明かりだけでその場をたもっている。
 向こうの方に、非常口を示す明かりだけが、存在を主張するように妙に明るくそこにある。
 黄色く照らされたそこは、まるで魔物でも這い出てきそうな不気味な雰囲気をかもしだしている。
 昼間あれほどにぎわっていたそこも、夜になり人気がなくなるだけで、これほど恐ろしく感じる場所になってしまう。
 この建物の壁一枚隔てるだけで、内と外とはまるで別世界のよう。
 これから夜にかけては、芸能人を呼んで野外ライブが行われることになっているので、恐らくそれによるものだろう、この差は。
 普段のキャンパスならば、内も外もその様は変わりないだろう。
 ほんの数時間前、第二講堂で起こったあの事故のことなど、まるで誰も知らないかのように、とても平和な時間が流れているように感じる。
 人一人の命が危うく失われる事態に陥ったにもかかわらず、まったく騒がれてはいない。
 それは、ランバートたちが裏から手をまわし、処理したことによるらしい。
 ただ腐ったてすりが落下しただけだと。
 幸い、てすりが落下した時に、その下に人が一人もいなかったおかげで、それも容易に可能となった。
 ここで下手に騒ぎを大きくすることは、賢明ではない。
 萌歌を落とした女子学生たちも、恐らく、裏で、ランバートたちにきつーいお灸を据えられ、今頃はがくがくぶるぶる、この世のものではない――化け物に出会ったかのように怯えているだろう。
 それだけで、もう十分すぎる。
 むしろ、逆に気の毒にすら思える程度の、できるならば経験などしたくないお仕置き。
 だって、相手はあのランバートなのだから。
 しかし、本音は、下手に警察沙汰になどしたくない、といったところだろう。
 何しろ、萌歌は未来のヴィーダガーベの王妃。
 そう推すものたちにとって、それは命取りとなりかねない。
 もみ消せるものなら、このような些細なことはもみ消す。
 その名に傷をつけないために。
 すべてを周到に進めるために。
 月明かりさす廊下に、蛍光灯の明かりがもれる場所がある。
 そこ――医務室のベッドの上に萌歌の姿があり、それに寄り添うようにフィガロットの姿もある。
 上体だけを起こした萌歌を、フィガロットは切なそうに見つめている。
 その目は、海よりも澄んだ青をしている。
「フィガロット……」
 腰の辺りまで下ろしたブランケットをぎゅっと両手でにぎりしめ、萌歌は見つめるフィガロットを見つめ返す。
 すると、フィガロットは口の端をほのかにひきあげて、笑みを浮かべてみせる。
 だけど、その顔にある苦渋は、どうしてもぬぐうことができない。
「どうしたの?」
 それに気づいているから、萌歌はそう問いかける。
 萌歌は握っていたブラッケットから右手だけをすっとはなし、ふわりとフィガロットの頬に触れてみる。
 瞬間、びくりと、フィガロットの体が大きくゆれた。
「萌歌……」
 だけど次には、やはり苦しそうに見つめるフィガロットの手が、それに重ねられていた。
 ぎゅうっと握られる。
 今度は、萌歌がそれにぴくりと反応してしまっていた。
 だけど、その手を振り払う気配はまったくない。
「……気にしないで。別にフィガロットのせいじゃないのだから。それに、フィガロットは、わたしを助けてくれたでしょう?」
 萌歌はくいと首をかしげて、左手もフィガロットのもう一方の頬に触れる。
 触れたそこは、ひんやりとしていたけれど、すぐにじわじわあたたかみを感じはじめた。
 萌歌の胸が締めつけられそうになる。
 触れるその頬には、今にもあたたかいものが伝い落ちてきそうにすら思えてしまう。
 だって、萌歌を見つめるフィガロットのその顔は、変わらずとても苦しそうだから。
 ふうっと、萌歌の口から吐息がもれた。
 肩をすくめ、少しだけ、頬を包むその顔に顔を近づけてみる。
「ねえ、フィガロット、これからもわたしを守ってくれる?」
「……え?」
 じっと見つめる萌歌に、フィガロットは不思議そうに顔の筋肉をゆるめた。
 これまで、とても強張っていたそれが少しやわらいだ。
 自然、もう少しだけ、その顔へ萌歌の顔が近づいていく。
「どのようなことからも、わたしを守ってくれる?」
 もう一度、今度は、確認するように、だけどNO≠ネどとは言わせないように、萌歌はフィガロットを見つめる。
 すると、フィガロットの目が見開かれ、すぐにふわりとその顔がやわらいだ。
 頬に触れる萌歌の手をにぎるフィガロットの手に、さらに力がこもる。
 あいているもう一方の手をすいっと萌歌の腰にまわし、ぎゅっと抱き寄せる。
「ああ、もちろん。どのようなことからも萌歌を守るよ。……どのようなことをしても」
 フィガロットがふわりと耳元でそうささやくと、萌歌はふにゃっと頬をゆるめた。
 ふふっと、幸せそうに、だけどどこか複雑そうに笑う。
 それから、萌歌は自ら、ぽすんとその胸に体をあずけていく。


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update:08/08/02