恋するマリオネット
(87)

 おとぎの国のような庭園を臨む、館と館を結ぶ渡り廊下。
 萌歌がふと視線を床へ向けると、見慣れたすけるように薄い布が落ちていた。
 それは、はじめてフィガロットと会った時に、そしてこの国にいる間はよく見かける、フィガロットが身につけているもの。
 不思議な色合いの、向こうがすけて見える薄い薄い布。
 その色は、王と王妃、そして次の王と王妃となる者にだけ許された、禁断の色。禁色。
 そして、この渡り廊下で結ばれた館の一方は、フィガロットに与えられたもの。
 ここで、王の姿も王妃の姿も、萌歌は見たことがない。
 それ以前に、よくよく考えれば、萌歌は王にも王妃にも会ったことはまだ一度もない。
 ただ、代々王妃に受け継がれるという指輪は、フィガロットにもらったけれど。
 それは、つまりは、王妃は萌歌の存在を認めてくれているということ?
 ――いや、違う。
 萌歌がフィガロットから指輪をもらったのは、まだこの噂が立つ前だった。
 ならば、このような噂が立った今、王妃は萌歌のことをよく思っていないと考えた方がいいだろう。
 急に、きゅっと萌歌の胸がしめつけられた。
 ふわりと、風にゆれ、床に落ちた布が動き出す。
 それに気づき、萌歌は慌ててその布を拾い上げた。
 それから、ちらちらと辺りを見まわし、ふわりと頬をゆるめる。
 次の瞬間、そのまま布に顔をよせ、そっと口づけを落としていた。
 だって、この布は、間違いなくフィガロットのものだとわかるから。
 この布に移ったその香りから、そうだと確信できる。
 この布に、この香りに、萌歌は吸い込まれそうな感覚に陥る。
 同時に、愛しくなる。
「萌歌……?」
 その時だった。
 不思議そうに、萌歌にそう声がかかった。
 はっと我に返り声がした方を見ると、そこにはほんのり頬を染めたフィガロットが、てれたふうに立っていた。
 その目が、愛しそうに萌歌を見ている。
 それだけで、フィガロットがこの状況も、そして萌歌の思いまでも悟ってしまっているとわかる。
 瞬間、萌歌の顔がぼんと真っ赤にそまる。
 そして、慌てて、持っていた布をフィガロットへぼふんと投げつける。
 見事それは命中し、顔に垂れるようにフィガロットの頭へかぶさる。
 それをするりと引き下げながら、フィガロットはやはり愛しそうに萌歌を見つめる。
 こつりと、一歩、フィガロットの足が萌歌へ歩み寄る。
 それに合わせ、びくりと、萌歌の体が震える。
「な、何よ!? 何か文句ある!?」
 じわりと目に光るものをうるませ、萌歌は悔しそうにフィガロットをにらみつける。
 それはどう見ても、恥ずかしさを誤魔化しているようにしか見えず、フィガロットは思わずくすりと笑ってしまった。
 すると、見る間に萌歌の顔が怒りに染まる。
「何よ、何よ! フィガロットのお馬鹿!!」
 そして、まるでだだをこねる子供のようにそう叫び、あっかんべーと舌を出し、だっと駆け出してしまった。
 そのあまりにもこどもじみた萌歌の振る舞いに、フィガロットは思わず目を真丸く見開く。
 そして、ばたばたと音を立てて逃げていく萌歌を見守るように見つめる。
「まるで子供ですね……」
 ゆっくりとフィガロットに歩み寄りながら、ジョルーがため息まじりにこぼす。
 その目は、呆れたように、遠ざかっていく萌歌を眺めている。
 フィガロットのすぐ後ろまで来たジョルーの耳に、ぽつりと、さらに呆れる言葉が飛び込んだ。
「かわいい」
 のろけをたっぷりこめた、あまったるいフィガロットのそのつぶやき。
 ジョルーはずるりとこけそうになってしまった。
 よろりとよろけつつ体勢を立て直しながら、走り去る萌歌を愛しげに見つめるフィガロットを眺める。どこか遠い目をして。
「フィガロットさま……」
 がくんと、ジョルーの肩が落ちる。
 フィガロットのその姿は、もう見るに耐えないほど、めろめろのとろとろに壊れている。
 だけど同時に、ジョルーは妙に優しい気持ちにもなれた。
 このまま、フィガロットが幸せであればと願い。
 ゆずれないものができ、そして自らの思いにようやく正直になれたこの王子を、ジョルーは愛しく思う。
 ふわりと、ジョルーの胸の内を優しい風が通りすぎていく。
 それはまるで、このヴィーダガーベに吹く、あたたかく優しい風のよう。
 脳裏に、優しい風に吹かれる花々の姿がよぎる。
 その時だった。
 ジョルーの背後で、こつんと、床をける音がした。
 去っていく萌歌をぼんやり見つめるフィガロットも、そのようなフィガロットを見守るジョルーも、さっとそちらへ振り返った。
 振り返ると、そこには、妙に険しい顔をした重臣たちが立っていた。
 フィガロットもジョルーも、この優しい出来事につい心を奪われ、警戒を怠り、彼らが近づいてきていることに気づけなかったらしい。
 そんな自分に、二人は少し憤りを感じる。
 今は油断してはいけない時だということを忘れてしまっていたなんて。
 萌歌がそこにいると、ついつい心がなごんでしまう。
「王子、やっとつかまえましたぞ」
 どことなく荒い息をしながら、重臣の一人がそう告げる。
 そして、ずずいっと、フィガロットへ歩み寄る。
「我々が申し上げたいこと、おわかりですね」
 もう一人の、もやしのようにひょろりとしたおじさんが、そのまま八つ裂きにでもしそうなするどい眼差しで、フィガロットをにらみつける。
「ああ……」
 フィガロットは妙に冷静に……冷たく、そう答える。
 凍えるような眼差しが重臣たちに注がれる。
 ひくりと、重臣たちの頬がひきつった。
 フィガロットのこの姿は、振る舞いは、これまで彼らが見てきた王子ではなかった。
 いつも腹立たしいくらいさわやかな笑顔を浮かべる、あの胡散臭い王子ではない。
 ――そう、この王子は、もとから胡散臭かった。
 とりわけ、完璧するぎほどのその振る舞いが。
 恐らく、これがこの王子の本性なのだろう。
 化けの皮がはがれたということだろう。
 取り繕うことができないほど、追い込まれているということだろう。
 これまでは、うまくその面の皮で騙していたけれど、こうなった今ではそれは偽物だとひしひしとわかる。
 まあ、しかし、その胡散臭さが、彼らが理想とするものだったことは否めないので、王子はよくやっていたと誉められもできるだろう。
 ……そう、あくまで、よくやっていた。――過去形。
 この王子は、今回、いちばんしてはならないことをしでかした。
 これを、忌々しく思わずにいられようものか。
「そうですか。ならば、話は早い。儀式を穢すことは許されません」
「早急に、あの娘を国へ帰し、儀式の仕切りなおしを」
 重臣たちが、フィガロットに詰め寄る。
 後ろに控えるジョルーは、無表情でフィガロットを見守っている。
 見守られているフィガロットもまた、どこか蔑むように重臣たちを見ている。
「黙れ。お前たちまでも、そのような根も葉もない噂に惑わされおって」
 そして、低く冷たい声で、フィガロットは静かに言い切る。
 すると、ひるむのではなく、もやしのおじさんは水を得た魚のように、にたりと陰湿な笑みを浮かべた。
 フィガロットにすっと顔を寄せて、わざとらしくささやく。
「これは、根も葉もなくなどありませんよ、王子」
「……何?」
 フィガロットは、近づいたひょろりとやせ細った気持ちの悪い顔を訝しげに見つめる。
 すると、もやしおじさんはさらににたにたと笑みを浮かべる。
「あの娘は、あの方向でいけば、たしか神殿へと出るかと……」
 もやしおじさんはくいっとフィガロットの耳へ顔を寄せ、ぼそりとつぶやく。
 瞬間、フィガロットの顔から色が失せていた。
「ジョルー! ここはお前にまかせた!」
 そして、もやしおじさんを乱暴に突き飛ばし、フィガロットは駆け出していた。
 突き飛ばされた拍子に、もやしおじさんはどすんと床に倒れていた。
 しかし、どこか満足そうににたにたと陰湿に笑んでいる。
「え? ええ!? ちょ……っ。フィガロットさま!?」
 いきなり白羽の矢を立てられたジョルーは、多少取り乱したように、走り去るフィガロットへ叫ぶ。
 しかし、その時にはすでに遅く、ジョルーの足ではもうフィガロットに追いつけそうもなかった。
 ジョルーは、諦めたようにふうっとため息をつく。
 同時に、はっと何かに気づき、頬をひきつらせながらくるーりと振り返る。
 ジョルーの体がかちんとかたまる。
 ジョルーは、とんでもないものを目に入れてしまった。
 勝ち誇ったようにふんぞりかえる、たちの悪いおじさん――重臣たちを。
 どうやら、これはいささかまずいことになったかもしれない。
 いや、いささかなどではない。思いっきり。
 この重臣たちに、いい口実……証拠を与えてしまったのかもしれない。
 フィガロットがどうして慌てて駆け出したのか、ジョルーはようやくわかったような気がした。
 すっと目を閉じ、これからの無事を祈る。
 そう、フィガロットが助けに走った萌歌が無事であるように……。
 この陰険な重臣たちは、自らの保身のためなら、常識では考えられないような残虐なことも平気でしてのけることを、ジョルーは知っている。


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update:08/12/19