恋するマリオネット
(96)

 急激に、胸がすっと冷たくなっていく気がした。
 それまではやっていた思いも、引き潮のようにひいていく。
 かと思うと、また勢いよく襲いかかってくる。
 急ぎ足だった萌歌が、ふいに速度をゆるめた。
 ライヒが不思議に思い、ちらりと萌歌を見ると、苦しそうな表情を浮かべていた。
 萌歌に合わせ、ライヒの歩く速度も、自然ゆるやかになる。
「やっぱり無理よ。わたしじゃ、フィガロットを不幸にする」
 萌歌が、思い余ったように、しぼり出すようにつぶやいた。
 ライヒが抱き寄せる萌歌の肩は、体は、すべてを使って、これ以上先へ行くことを拒んでいるようにすら感じられる。
「萌歌……。そのようなことは……」
 萌歌の肩に触れるライヒの手に、ぎゅっと力がこもる。
 今さら、萌歌は何を言い出すのだろう。
 萌歌がフィガロットを不幸にすることなどありはしないのに。
 それは、この少ない時間、ともにいて、二人を見てきたライヒにも、簡単にわかること。
 むしろ、萌歌を失うことこそが、フィガロットの不幸だろう。
 ともにいて、萌歌がフィガロットを幸せにすることはあっても、不幸にすることなど決してない。
 そのことに、萌歌はまだ気づいていないのだろうか?
 いや、今になって、怖気づいている?
 萌歌がこれから飛び込もうとしている世界は、これまで彼女がいた優しくおだやかな世界ではない。
 まわりすべてが敵のその渦中へ飛び込むようなもの。
 萌歌はそれに気づき、急に恐ろしくなった?
「ライヒさん、どうしよう、このままじゃ……」
 身じろぎし、萌歌の両手がライヒの胸の辺りをつかむ。
 その手は、見てわかるほど震えている。
 ライヒは萌歌の肩に触れていた手を、ふわりとその両手へかぶせてやる。
 だけど、ライヒの手では、萌歌の震えはおさまらない。
 やるせなさが、ライヒの胸に広がっていく。
 きゅっと、思わず顔をゆがめていた。
 だけど、萌歌はそれに気づくことなく、苦しそうに、その張り裂けそうな胸から吐き出すように、かすれた声で叫ぶ。
「わたし、わかるの。フィガロットは、この国の犠牲にはなりたくないと望んでいるのじゃない。むしろ、その命を賭して守れるなら、他の誰でもない自分の命を差し出すだけですむのなら、それほどいいことはないと思っているはずよ。だけど、だけど……」
 そこで、萌歌は言葉をつまらせた。
 ふいっと顔をそらし、苦しそうに唇をかんでいる。
 何かを言おうと、必死に抗おうとしているけれど、萌歌の体はもう、萌歌の意志を無視して、いうことを聞いてくれなくなってしまっているように見える。
 そこまで追い込まれていたのか……と、ライヒはやりきれない思いになる。
 気づいてやれなかった。
 萌歌もまた、フィガロットとともに、この国の犠牲になりはじめていたことに。
 萌歌は、フィガロットの苦しみを、自分のものとしてしまっていたなんて……。
「萌歌の存在が、その邪魔をする……と? 王族の力を維持するためには、神に決められたしきたり通り儀式で伴侶を選ばねばならない。そうしないと、神の怒りを買う」
 どこか冷たく、だけど声色だけは優しく、ライヒは萌歌にそう問いかける。
 すると萌歌は、今さらだとわかりつつも、言われてはじめてそのことを自覚したように、驚きに目を見開く。
 そして、すぐに苦しそうに小さくうめき声を上げた。
 ぽろぽろと、その黒い目から涙がこぼれる。
 それは、涸れることなど知らないとばかりに、次から次へと流れ落ちている。
 すっと、その目元にライヒは手をやる。
「だから、わたしは……」
 だけど、ぽつりとつぶやいた萌歌のその言葉によって、それは萌歌に触れることなく、きゅっとかたく握り締めもとの場所へ戻っていく。
 そのあふれる涙、ライヒの手でぬぐってはいけないと気づいて。
 この涙をぬぐっていいのは、ぬぐってやれるのは、ぬぐうことを許されているのは、今はフィガロットしかいない。
 フィガロット以外の手では、いくらぬぐってもその涙がとまることはないだろう。
「ねえ、それでたえられる? 萌歌は辛くないの?」
 ついっと萌歌をひきはなし、ライヒはどこか冷たく見下ろす。
「え……?」
 急なライヒのその変化に、萌歌は戸惑いの色を見せる。
 だけど、何かに気づいたように、そして何かをあきらめたように、ライヒの胸をにぎっていた手をゆっくりはなしていく。
 それから、くるっと、ライヒに背を向けた。
「わたしが消えることで、フィガロットが楽になるのならば……。わたしは、儀式で選ばれたのではない」
 萌歌はすっと顔をあげ、今歩いてきたばかりの色とりどりの花々が咲く庭園をまっすぐにらみつける。
 あれほど美しいと感じていたそこが、今はまったく綺麗だとは感じられない。
 むしろ、色を失った世界、モノクロームの世界に萌歌の目には見える。
 色を失い、美しさを失い、そして、生気すら失ったように。
 萌歌はフィガロットに一緒に戦おうと言ったけれど、だけどやっぱり、萌歌の存在がその戦いの邪魔をしていると気づいてしまったから。
 たとえどんなに頑張っても、相対するそれは、簡単にひねりつぶされてしまいそうなほど大きい存在だと、萌歌は気づかされてしまった。
 それに、命を賭してまで……なんて、萌歌にはできない。大切な人の命を犠牲になんてできない。
 そうわからされてしまったから、だから……。
 何よりも、フィガロットを守りたいから。
 どのようなことをしてでも、萌歌は愛しい人を守りたいから。
 憎まれてもいい。恨まれてもいい。
 あの人を守れるならば。
 しきたりなんて、掟なんて、どうでもいい。
 ただ、愛しいあの人を守りたいだけ。
 ずるずるずるっと、自らの意志に反して、萌歌の体から力がぬけていく。
 広がる花々のすみで、くずおれた萌歌を、ライヒは妙に優しい眼差しで見つめていた。
 ライヒは萌歌の腕をひき、すっと引き上げる。
「そう……。うん、わかった」
 そして、ぐいっと抱き起こし、やはり優しい微笑みを萌歌へ向けた。
 その目は、まるですべてを見透かしているようだった。
「え……?」
 ゆるりとライヒの胸へ沈みながら、萌歌は涙が流れるその目を不思議そうに見開く。
 そして、抱えられるように支えられながら、向かおうとしていたそこへ向かっていく。
 ゆっくりゆっくり、一歩一歩、地を踏みしめ確かめるように歩みを進める。
 それはまるで、何かを暗示しているようにすら感じられる。


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update:09/02/22