サラブレッドなインチキ教師
ペテン師

 あるよく晴れた夏の放課後。
 見てはいけないものを見てしまった。
 そのためにわたしは、人生を棒に振ることになってしまった。
 そう、十六という、そんなうら若い身の上で。人生を……。
 この時ほど、自分の運のなさを恨んだことはない。


 とても暑い日だった。
 くらりとめまいを覚えるくらい、とても暑い夏の日。
 もうすぐ期末テストを控えた、ある夏の日の放課後。
 いくら私立校といっても、まさか校舎の外まで空調がきいているわけがない。
 ぎらぎらの太陽が、容赦なくわたしをじりじり焦がす。
 それなのに、わたしは、何故ここにいるのだろう?
 それは――。
「それじゃあ、高瀬先生、まったねー!」
 風に飛ばされたプリントを追いかけ迷い込んだ校舎裏で、わたしは、そんなキャピキャピと、嫌いな人種上位に位置する女子生徒の声を聞いた。
 その声を聞いた瞬間、思わず校舎の中を見てしまっていた。
 開けられたその窓から、風に吹かれひらひら揺れるカーテン越しに。
 ……皮肉なことに、嫌いなものほど気になるって、本当ね。
 この時、つくづくそう思ってしまった。
「はいはい。気をつけて帰るんだよ」
 こちらに背を向け、ひらひら手を振る、甘い顔立ちの若い男。
 当然、とってつけたように独身。
 その嘘くさいやわらかな微笑みと声とともに、部屋の扉がぴしゃり閉じられた。
 そこは、教官棟一階、いちばん東に位置する、国語科教官室。
 そして、女子生徒が口にしたその名も、わたしが嫌いとする人種の上位に位置する人間のもの。
 この国語科教官室の住人。
 別に教師が嫌いというわけじゃない。
 わたしはただ、この完璧なほどの笑顔を浮かべ、その下では何を考えているかわからない男が嫌いなだけ。
 名は、高瀬昂弥(たかせこうや)
 学校一の人気教師。
 男子生徒からも女子生徒からも好かれている、稀有な教師。
 国語教師――現代文を教えている。この高校で。
 しかもその現代文、めちゃくちゃ。
 現代文の教師のくせに、源氏物語を現代語訳したものを教材に使ってどうする。
 しかも、濡れ場ばかりをピックアップしやがって。
 それを、きゃあきゃあ言って喜ぶ女子生徒のみなさんもどうかと思うけれど。
 そして、この男の暴挙はこれだけではすまない。誰にもとめられない。
 だってこの男、何を隠そう――。
 ここまでなら、どこにでも普通にいる教師だろう。
 いや、いないこともないかもしれないが正解。
 というか、いてたまるか、こんなインチキ教師。
 この教師、本当に普通じゃない。
 その普通じゃないというのが、また普通じゃない普通じゃなさ。
 どこか胡散臭い。それも普通じゃない胡散臭さ。
 そう、その笑顔が! 行動が!
 絶対、裏でとんでもないことを考えているのよ。
 いや、表でも十分とんでもないけれど。
 たとえば……。
「……まったく、お子様の相手も疲れるよなー。俺、職を間違ったか?」
 だんと机に足を叩きつけるようにのせる音とともに、なんとも面倒くさそうな声が聞こえてきた。
 そして、ちっという舌打ちまでも。
 ――学校一の人気教師、化けの皮はがれたり。
 そう、これが、わたしの運命を決定づける場面。
 そして、わたしが人生を棒に振ることになる瞬間だったかもしれない。
 高瀬は舌打ちをした後、あろうことか、こちら、開け放たれた窓の方へすっと視線を移した。
 艶かしい、流し目で。
 こんな時まで、いちいち色気を放出するなというのよ。
 この好色教師!
 それと同時に合ってしまった、目が。
 高瀬の何とも予想通りの本性に面食らって、呆然とそこに立ちつくしてしまっていたわたしと。
 そんなわたしの手にあるプリントを、夏の放課後の風が、せせら笑うように揺らしていく。
 ……不覚。
 どうしてわたし、この時逃げなかったのだろう。
 いくらだって逃げられるチャンスはあったのに、どうして!
 せめて、高瀬と目が合う前に逃げてさえいれば……!
 ――と言っても、後の祭り。
 本性を知られたこの教師が、そのまま黙っているとはとうてい思えない。
 だってその本性、極悪。
 今まさに、証明された。
 その極悪な微笑みから。その俺様な態度から。
 ふん。こうなれば、戦ってやるわよ。
 大嫌いなこのインチキ教師とね!
 ――どうして大嫌いなのかはわからないけれど。多分、生理的に好きじゃないのよ。うん、そう。絶対、そうに決まっている。
 そう、インチキ教師!
 今この瞬間、ねたが割れたのよ!
 普段、やわらかな微笑みを浮かべ、女子生徒に黄色い声で騒がれる独身教師。
 ……まあ、たしかに、癪だけれど、顔は悪くないと思う。
 いや、むしろ格好いいかもしれない。
 騒がれるだけはある。
 ふわふわの栗色の髪に、長いまつげ。
 教師のくせに、栗色という時点でどうかと思うけれど。
 これがまたむかつくことに、地毛らしい。「僕、色素薄いんだよね?」とか何とか。
 整った顔立ち。
 あなた、どこかで芸能人でもした方がいいんじゃない?と思わず言いたくなるくらい。
 ……していることも言っていることも、まるでホストのようだけれど。めちゃくちゃだけれど。
 すらりとのびたスマートな長い腕、足。
 ……認めたくないけれど。
 不覚にも、そう思ってしまえるから、むかつく。
 それに独身は独身でも、ただの独身じゃない。
 お買い得なのよ、この独身教師。
 だって、極めつきに、お金持ちときているのだから。
 この教師、理事長の孫という、そんなサラブレッドな教師。
 この高校の理事長といえば、世間に名の知れた超お金持ちだったりする。
 それでもって、その孫にして次期理事長。
 癪だけれど、これ決定事項。みんな知っている。
 大きなグループを持っていて、各界に手をのばしているお金持ち一族。
 この学校運営も、そのうちのひとつだったりする。
 むしろ、趣味かもしれない。むかつくことに。
 ちなみに、ここの理事長、趣味で理事長をしていたりする。
 これ、暗黙のうちに了解されていること。
 ……まったく、この上なく腹立たしい一族だことっ!
 当然、この男、何もしなくても遊んで暮らせるだけのお金は持っているだろう。
 こんな高校で、ちんけな国語教師なんてしなくても。
 その時点で、この男の教師も、趣味なのかもしれない。
 ああ、そうですね。
 そう考えると、たしかに職を間違ったのじゃない?
 それにわたしだって、こんなペテン師に教えられたくないわよ。
 これまたペテンな現代文を!
 さらに詐欺なのが、この男がいつかはこの学校の理事長になるということよね、やっぱり。
 よりにもよって、この男が。
 こんな奴が理事長を務める学校なんて、即つぶれるわね。
 さらに、そこに通う生徒は、みんなインチキ菌に侵されるわ!
 だってこの男、高瀬昂弥、国語教師、二十六歳。
 みんなは気づいていないけれど、わたしは気づいていた。
 野生の勘ともいえる、第六感で。
 ――こんなことを自分で言ったら、めちゃくちゃむなしくなるのですけれど?
 この男の笑顔は、似非笑顔だということを!
 そしてそれが、まさしく今証明された。
 ――しかし、この上なく、とてつもなく、まずいタイミングだったかもしれない。
「今の、見た?」
 にっこりと、とてもさわやかな笑顔を向けてくる高瀬昂弥、国語教師。
 だけど、それ、笑顔じゃない!
 笑っていない。笑っていないよ、目が!
 ぎらぎらと輝いているわよー!
 まるで、獲物を狙うライオンのように。
 ……へ? ということは、わたしはさしずめ、サバンナを駆けまわるシマウマというところ?
 嫌よ、やめてよ、そんな色気のないもの。
 だから違ーう!
 色気があればいいというわけじゃない。
 そうじゃなくて、今はそうじゃなくて!
 問題はそこじゃなくて、この男の笑顔と言葉!
 そう、とりわけ言葉!
「……しっかり」
 ひらひら揺れるクリーム色のカーテン越しに、わたしは思わずこくんとうなずいていた。
 こんなにしっかりと目があっちゃったんだもの、否定できない。
 否定したら、かえって窮地に追い込まれる。
 瞬時にそう悟ってしまった。これまた野生の勘で。
 わたしが案外素直に答えると、高瀬はふと笑顔をやめた。
 そして、がたんと音を立て、座っていた椅子から立ち上がる。
 もちろん、机の上にのせていた足を、嫌味なくらいスマートに翻して。
 ……まったく、この男は。気障野郎めっ。
 立ち上がったかと思うと、高瀬はほんのりと性悪な笑顔を浮かべ、ゆっくりとわたしの方へ近づいてくる。
 そう、ゆっくりと。
 まるでそれを楽しむように。
 いや、着実に獲物との距離を縮めていく、ライオンのように。
 ということは、やっぱりわたし、シマウマ!?
 だから、シマウマは嫌なのよー!
 もっとかわいらしいものにしてよ!
 だから、それも違うし。そんな場合じゃないし。
 だって見てよ、この男。この男の目。
 やっぱり、怪しく光り輝いてなんかいちゃったりする。
 うっぎゃあー。とって食われるーっ!
 そう思わず叫びそうになった瞬間、わたしの体はふわりと宙に浮いていた。
 それと同時に、何やら甘い香りがわたしの鼻をかすめる。
 さらさらでいて、くすぐったい高瀬の髪が、わたしの頬に触れる。
「少し、話そうね?」
 ……え?
 気づいた時には、わたしは高瀬の腕の中にいて、高瀬に担ぎ上げられていた。
 そこから、ぎぎぎぎとぎこちない音を立て首を動かし、顔を高瀬の顔に向けると、高瀬は待っていましたとばかりに、にやりと微笑んだ。
 極悪な悪魔の微笑みで。
 ……やっぱり、ペテン師だ。
 普段の甘いやわらか笑顔は、天使の笑顔は、気づいていたとはいえ、やっぱり嘘ものだった。
 そう悟った瞬間、わたしの頭は真っ白になっていた。
 だって、このインチキ教師が本性をあらわしたということは、そしてその腕の中にわたしがいるということは……。
 ただですむはずがない。
 ――南川楓花(みなみかわふうか)、十六歳。ぴっちぴちの乙女の夏。
 人生、終わりました。
 このインチキ極悪教師によって。


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update:04/01/01