教官室の抱擁
ペテン師

 冷静。
 冷静になろう。
 冷静になれば、少しは何かを考えられるようになるだろう。
 そう判断し、わたしは懸命に平常心を取り戻そうとする。
 そして、思いついた。ひとつの皮肉を。
「だけど、意外だった。あなたって、結構親近感を持てる奴かもしれないわね?」
 皮肉をたっぷりこめ、さらに皮肉る表情で言ってやった。
 もちろん言い方も、皮肉たっぷり。
 ペテンな現代文を教えるペテンな教師に、親近感なんて持てるわけがない。
 しかもその本性も、やっぱりペテンだったし。
 すると高瀬、本当に驚いたというように目をぱちくりしばたたかせた。
 まるで、辺りの様子をうかがう、ハムスターのような目をしている。
 ライオンはどこへいったのよ、ライオンは!
 とは、あえてつっこむなかれ。
「え……?」
 高瀬はきょとんと首をかしげて本当にわからないようだから、皮肉り損になってしまった。
 まったく、この男は……。
 あーあ、国語教師なら、これくらいの皮肉、理解しろというのよ。
 それでよく、現代文を教えているわね。
 まあ、ペテン現代文を教えるペテン教師だから、この程度かもしれないけれど。
「だって、今までのあなたって、どこか完璧すぎて気持ち悪かったもの。たしかに、していることも言っていることもめちゃくちゃだけれど、どこか完璧だったのよ。子供相手に媚を売って。良家のご子息さまで、将来を約束された男が。でも、本性はそうじゃないとわかって、ああ、案外、人間味がある奴なのかもしれないなーと思ったわけよ。不覚にも」
 ため息まじりに、思い切り面倒くさそうに言ってやった。
 半分は本当で、半分は嘘。
 そして、やっぱり皮肉を込めて。
 たしかに、常々そう思っていなかったわけでもない。
 どうしてこの男は、ここまで完璧な教師を演じられるのだろうとは思っていた。
 誰一人として――ううん、恐らくわたし以外は、そのペテンな素顔に気づけないほど、完璧に。
 完璧すぎるほど完璧な理想の教師だったから、だからわたしはそれがかえって胡散臭いと思ってしまった。
 だから気づけたのかもしれない、この男のインチキぶりに。
 ちらっと高瀬を見ると、本当に驚いたというように目を見開いていた。
 さっきよりもさらに驚いている。
 ……どうして?
 高瀬は、驚く高瀬を見てさらに驚くわたしに気づき、ふと笑った。
 もちろん、ペテンな微笑み。
「……ふーん」
 それがまた癪に障るものだから、もうこれ以上は相手にしていられない。
 相手にすればするほど、この男は腹立たせてくれる。
 そういう男なのよ、もとから、絶対。
 この高瀬昂弥、国語教師、二十六歳という男は!
 もう、本当にむかむかして、頭が痛くなってきた。
 だから、とっとと逃げ去ることにした。
 逃げるが勝ちよ!
 これ以上関わっていては、なんだか自分が馬鹿になるみたいで嫌。
 この男と、こんなに長い時間一緒にいるつもりなんてなかった。
 同じ空間を、共有なんてしたくない。
 一緒にいればいるほど、それだけインチキ菌に侵されてしまう。
「じゃあ、そういうわけだから、わたしはもう帰るわよ。これから委員会だから」
 くるくるまわる事務用の椅子からすっくと立ち上がり、わたしは高瀬からふいっと顔をそむけた。
 わたしが立った椅子は、嘲笑うかのように、勝手にくるりと一度回転する。
 そんな椅子を横目に、高瀬の横を通り、教官室の出入り口へ向かう。
 入ってきたのは窓だけれど、さすがに窓からなんて出られやしないもの。
 その時、高瀬にいきなり腕をつかまれてしまった。
 高瀬のもの言いたげな視線がちくちくささる。
 ……冗談じゃないわよ。まだ何かあるというの!?
「何よ……? まだ何かあるわけ? 心配しなくても黙っていてあげるわよ、あなたの本性。わたし、そこまで性格悪くないし。それに、言ってもどうせ誰も信じないだろうし?」
 思い切り面倒くさそうに、はき捨てるように言ってやった。
 だって、本当に面倒くさいし、うっとうしいんだもの。
 それに、言っても誰も信じないというのも本当。
 この男の信者は、学校中に広く分布している。
 わざわざ、そんな狂信的な信者を敵にまわすなんて馬鹿な真似、このわたしがするはずがない。
 それに、高瀬の本性がどうであれ、わたしにはまったく関係ない。
 これ以上、わたしに関わりさえしなければ。
 できれば、関わりあいたくなかった、こんな奴、こんな男。
 わたしの願いは、平穏無事に高校生活を送ること。
 そう、この男さえいなければ、わたしの高校生活は平穏無事なはず。
 現代文の時間になるたび、心臓をかきむしるような怒りを覚えなくてすむ。
「そうじゃなくて……」
 じとりと見下ろすわたしを見上げ、高瀬はふと切なそうに微笑んだ。
「何?」
 なんとも不気味なその表情に、わたしは思わず眉間にしわを寄せる。
 この男の切なそうな顔ほど、胡散臭いものはない。
 次の瞬間、高瀬はにっこり微笑んだ。
 さっきまでの切なそうな微笑はきれいさっぱり嘘のように、めちゃくちゃ腹立たしいさわやかな笑顔。
 ……やっぱり、ペテンだったのよ。その切なさも。
 そう思った瞬間、つかまれた腕をぐいっと引かれ、わたしの顔は高瀬の胸の中に落っこちていた。
 ぐいっと抱き締められる。
 押しつけられた高瀬の胸から、高瀬のぬくもりが伝わってくる。
 そして、ふわりと香る甘い香り。
 ……なんだか、むかつく。
「覚悟しておくんだね。俺の本性を知って、ただですむと思わないことだね?」
 高瀬の栗色のやわらかい髪がわたしの頬をくすぐり、高瀬のあたたかな息がわたしの耳にかかり、そうささやかれた。
 ――え……?
 高瀬は、ささやくと同時に、ぱっと手を放した。
 そして、にやりと極悪な笑みを浮かべた。
 高瀬の言葉より高瀬のこの行動に驚いたわたしは、硬直してしまっていた。
 自慢じゃないけれど、男の人に抱き寄せられたのなんてはじめてだもの、仕方ないじゃない。
 ぎょっと高瀬を凝視する。
 すると高瀬は、くすくすくすと、やっぱり意地悪く笑い出す。
 このインチキ教師は、何もかもお見通しという顔をしている。
 もちろん、わたしのどぎまぎまでも。
 ……むかつく!
 皮肉なことに、そのおかげで正気に返ったわたしは、高瀬を振り払い、そのまま教官室の扉へ向かい駆け出した。
 ちくちくと、刺すような高瀬の視線に見送られる。
 教官室を出て、ぴしゃりと扉を閉めたわたしが、その扉にもたれかかり、ゆでだこのように顔を真っ赤に染め上げてしまったことは、誰にも言えない秘密。
 ――そう、誰にも言えない、こんなこと。
 男の人に抱き締められたのはこれがはじめてなんて、そんな屈辱的なこと!
 しかもその相手が、世界でいちばん大嫌いな、インチキ教師高瀬昂弥なんて!
 これは言えないどころじゃなくて、認められない。
 絶対に絶対に、あのインチキ教師、許さない。
 女子高校生の純情な感情を何だと思っているのよー!
 こんのインチキセクハラ教師!
 地獄に落ちやがれ!


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update:04/01/09