移り香の相手
ペテン師

 つくづく、わたしって真面目よね?
 とか、自分で自分を褒め称えてあげたくなっちゃう。
 だって、こんなの無視しちゃえばいいことじゃない?
 なのにどうして、わたしはこうして、律儀にも今、ここにいるの?
 放課後の国語科教官室の前に!
 ……まったく、自分で自分がわからないわよ。
 もっとわからないのは、どこかのペテンなインチキ教師だけれどね。
 ところで、放課後の国語科教官室になんて呼んで、あのインチキ教師、何をする気なのだろう?
 そこが、最も問題であり、恐ろしい。
 そう、想像すらできないほど不気味。
 ノックをしようと右手をかまえてみるけれど、それ以上は動いてくれない。
 ここまで来たはいいものの、やっぱりそれ以上踏み出す勇気はわたしにはない。
 どこの世界に、自らライオンの餌食になりにいくシマウマがいるのよ、どこの世界に。
 わたしが置かれた状況は、まさしくそれ。
 わたしはシマウマじゃないけれど。くどいようだけれど。
 ――うん、やっぱりやめよう。
 このままくるりと踵を返し、だだだーと逃げ去れば、万事オーケー!
 後から高瀬に何か因縁をつけられたとしても、一貫して無視!
 オーケー、オーケー、それに決めた。
 訳がわからないインチキ教師からは、逃げるが勝ち!
 そうしてくるりと振り返ると、同時にぶふっとわたしの顔にあたるかたいもの。
 それはまるで、たくましい大人の男の人の胸のよう。
 そして、甘い香りが漂ってくる。
 そんな、いかにもなキーワードが二つもそろってしまった。
 いやーな予感がして見上げると、そこにはとってつけたようにあいつの顔があった。
 そう、インチキ教師高瀬昂弥の俺様な微笑みをたたえる顔!
 ええーっ!?
 どうしてこうなっちゃうのよ。
 どうしてタイミングよくここにいるのよ。
 ……まあ、ここはこの男の生息地だけれど。
 だからって、外ではなく中にいてよ。
 と、意味がないことを思ってみたり。
 思ったところで、もうどうにもならないけれど。
「よしよし。逃げずにここまでよく来たな」
 高瀬はくくっと肩で笑い、にやりと微笑む。
 ということは、当然逃げると思われていたわけで、だから逃げてもよかったということで……。
 嗚呼ー。わたしって、なんて馬鹿なのだろう。
 これで本当に、学校一の才女とうたわれる南川楓花!?
 まあ、同時に、融通がきかないほど馬鹿正直とも言われているけれど。
 ……むかつく。
 高瀬は、するりと横をすりぬけ逃げようとするわたしの腕を、がしっとつかんだ。 
 と思った次の瞬間には、がらりと教官室の扉が開けられ、ぽいっと中へ放り込まれる。
 そして、がしゃんと鍵がしまる音。
 ――ちょっと待ってください。
 ねえ、放り込まれるまでは、わたしも無理矢理納得してあげよう。
 それで? どうして、そこで鍵をしめるのかなあ?
 それがわたしには、最大の謎なのだけれど?
 高瀬をにらみつけると、素知らぬふりをしてにっこり微笑む。
 そして、じりじりとわたしへ寄って来る。
 締め切られた、夏の放課後の教官室の中で。むわっと蒸し暑い空気の中で。
「そう警戒するなって。人目があるところでは何もしないから」
 無理。
 警戒するなという方が無理。
 絶対の絶対に無理。
 天地がひっくり返っても、無理。
 ……ん?
 というか、今さりげなく聞き捨てならない台詞を言われたような気がするのは、わたしの気のせい?
 たしか、人目があるところでは何もしないって……。
 ――え? それってどういう意味?
 裏の意味をとれば……?
 こてんと首をかしげた瞬間、またしても高瀬に抱き寄せられていた。
 同時に、やっぱり甘い香りが香ってくる。
 コロン?
 そう思ってみたけれど、これはそんな香りじゃない。
 高瀬も一応男なのだから、男臭いのかと思えば全然だし。
 むしろ、甘いいい香り。
 しかも、フローラルな。
 ……は?
 それじゃあ、これってもしかして、移り香とかいうものじゃないの!?
 だから、冷静に分析している場合じゃないから、わたし。
 女の香りをさせたその腕と胸で、わたしを抱き締めるな!
 人を何だと思っているの!?
 ――それもやっぱり、どこか違うような気はするけれど。
「ちょっ、はなしなさいよ、セクハラ教師!」
 がつんと、高瀬のすねに蹴りを一発。
 一瞬腕の力が弱まったけれど、逃げ出せるほどのすきは生まれなかった。
 高瀬は多少顔をゆがめ、もの言いたげにわたしを見つめるだけ。
 じっと、憂いを帯びた、熱い眼差しで。
 相変わらず、すごい力で抱き寄せられている。
 どうにも高瀬は、抱きつき癖があるみたい。
 ところかまわず、人を抱き締めたがるよう。
 ……だから、冷静に分析するのじゃない、わたし。
 そんな高瀬の眼差しに、ちょっとひるんだ瞬間、やられた。
 ひょいっと抱き上げられ、すとんと机の上に座らされる。
 そして、押さえつけるようにがしっと両肩をつかまれる。
「な、なによ。あなたが悪いんだからね。いきなりこんなことをして……」
 多少びくびくしながらも、闘志だけはみなぎらせる。
 相手が、インチキだろうがペテンだろうが、俺様だろうが極悪だろうが、戦意を失えばそこで終わり。
 一撃必殺でやられる。
「というか、はなしてよ。あなた、恋人がいるくせに、教え子にこんなことをして――」
 体をねじり、がしっと高瀬の腕をつかみ、その手をわたしの肩からどけようと試みる。
 すると高瀬は、一瞬切なそうな表情を浮かべた。
 ……え?
 やっぱり、訳がわからない。
 移り香の香りをぷんぷんさせて、そしてその傷ついたような表情?
 何なの、このインチキ教師は。
「――いないよ、恋人なんて……」
 そう言って、高瀬はまたわたしを抱き締める。
 ……だから、本気で待ってください。
 さっきから、訳がわからないのだってば。
 ああ、もう。頭がぐらぐらしてきちゃう。
「じゃあ、何なのよ、この香りは!」
 どうにか正気に返り、高瀬の腕の中でもがいて、とりあえずそれだけを叫ぶ。
 すると高瀬は、「あ……」と小さく声をもらし、何やら一人納得してしまった。
 それはまるで、わたしのすべてをわかってしまったような、癪に障る表情だった。
 そして、わたしをすっとひきはなし、にやりと微笑む。
「もしかして、南川、勘違いした? この香りは、うちで育てている薔薇の香りだけれど?」
 ……へ?
 またしても、思考停止一歩手前。
「え? 薔薇って、あなたそんなの育てているの!?」
 あんぐりと口を開け、思わず高瀬を凝視する。
 すると高瀬は、楽しそうにくすりと笑う。
 やっぱり、わたしのことをすべてわかっているかのように。
「ああ、俺というよりかは庭師だけれど。家の庭いっぱいに薔薇が咲いている」
「……そう」
 あまりにも意外なようで意外じゃないその答えに拍子抜けしてしまって、わたしはぽつりとそうつぶやいていた。
 そう言われれば、これは甘い薔薇の香りと言えないこともない。
 高瀬はまたわたしをひょいっと抱き上げ、今度はくるくるまわる事務椅子に座らせる。
 それから、にっこり笑って一言。
「話をしよう」
 そうして、わたしは完全に、インチキ教師高瀬昂弥の手に落ちた。
 癪だけれど、今回だけはそういうことにしておいてあげる。


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update:04/01/14