いちばん心地いい場所
ペテン師

 いつかのように、世界はまたオレンジ色に染まっている。
 一歩前を歩くオレンジ色のペテン師を、いつかのように見ているわたしがいる。
 ううん、いつかのようじゃなく、今はもっと別の思いを胸に抱いている。
 あの時とは少し違う気持ちで見ている。
 一歩前を行くオレンジ色のペテン師は、なんだか、何というか、あの時とは違う気持ちをわたしに運んでくる。
 ペテン師の後姿をずっと見ていたい、そう思っている自分が、たしかにここにいる。
 自分でも自分の気持ちがわからなくなる。
 すると、インチキペテン師は、そんなわたしの気持ちを見透かしたように、いきなりくるりと振り返ってきた。
 そして、おしみなく降り注ぐ、オレンジ色の柔らかい微笑み。
 同時に、甘い香りがする。
 甘い甘い薔薇の香り――。
「楓花、おいで。遅れているぞ」
 そう言って、当たり前のように差し出される、ペテン師の手。
 大きな手。がっしりとした、男の人の手。
 だけど、ほっそりしていて、しなやかさを感じる手。
 オレンジ色に染まるその手を、オレンジ色の柔らかい微笑みを浮かべるペテン師の顔と一緒に、ぴたっと足をとめ見つめる。
 何故そうしたのかわからない。
 そんな自分に気づき、さらに自分がわからなくなる。
 するとペテン師は、そんなわたしに困ったように微笑み、一歩足を踏み出した。
 それで縮まる、ペテン師とわたしの距離。
 そして、その瞬間、触れていた。
 ペテン師の手とわたしの手。
 それは、当たり前のように、必然のように。
 そうしなければならないように。
 ふわりと触れたその手から、何とも言えない感情が、ざざざっと駆け上ってくる。
 ざわざわと、胸がざわめく。
 嵐が起こる。
 そして、気づけば握り合っていた。
 ペテン師の嬉しそうでいて優しい微笑みとともに。
 触れたペテン師の手は、とてもあたたかい。そして優しい。
「高瀬、まずいよ。こんなの誰かに見られたら……」
 そう言いつつも、もうこの手をはなそうとしないのはわたし。
 そして、高瀬も一緒。
 わたしの言葉に答える言葉はなかったけれど、そのかわり、わたしの手を握る高瀬の手にきゅっと少し力がこめられた。
 どうやら、それが高瀬の答えらしい。
「そんなものはどうでもいい」
 いつものように、俺様な言葉。
 駄目だと、まずいとわかっていても、振り払えない。わたしも。
 絡み合うように握られたその手が、高瀬の手からはなれることを拒絶しているよう。
 横に並ぶインチキ教師の顔を、ちょっとだけ視線をずらし見てみると、幸せそうに微笑んでいる。
 いつか見た、オレンジ色の太陽を背に微笑んだ時とは違って、とてもおだやかな顔をしている。
 ペテン師め、こういう顔もできるんじゃない。
 インチキ教師を見ていると、ふんわりとわたしを見つめるその目と視線が合ってしまった。
 視線が合うと、高瀬はこれまた極上のとろとろに甘い微笑を浮かべた。
 至上の幸福とでもいうように微笑む。
「楓花、かわいい」
 などと、そんなことを言いながら。
 だから当然、わたしも対抗する。
「きれい」
「かわいい」
 ぷいっと顔をそむけ言い放つと、高瀬はまたそんなことを言ってきた。
 無駄な言い合い。
 そんなことはわかっている。けれど、何故だか続けてしまう。
 楽しくて。嬉しくて。つい……。
 もう高瀬の顔を見なくてもわかる、その声から。
 きっと……ううん、絶対、高瀬はさっきよりも幸せそうに微笑んでいるに違いない。わたしの頭の上で。
 だって、握り合っている手にこめる力が、また、ほんの少し強められたから。
 そして、優しい高瀬の声。
「だから、きれいと言えと言っているでしょう!」
 ぷいっとそむけていたはずのその顔を、気づけば高瀬に向けていた。
 だけど当然、にらみを入れることは忘れてはいない。
 ぎろりにらみつけているはずなのに、高瀬は相変わらず嬉しそうに微笑んだまま。
 そして、腰を少しまげ、すいっとその顔を近づけてきた。
 近づいたと思ったら、ほんの一瞬、かすめるように触れていた。
 もちろん、唇と唇が。
 本当、このペテン師、危機感というものはないの?
 ただでさえ同居をしていることが世間にばれては一大事だというのに、こんな公道の真ん中で平気でこんなことをしてくるんだから。
 夕暮れ時の住宅街。
 たしかに、まわりに人は見あたらない。
 だけど、どこからどのようにして見られているかもわからない。
 こうして手をつないでいるだけでも十分危険だというのに、そんなことまでして――。
 訳がわからない、このペテン師。
 軽く触れるようなキスをした次の瞬間、鈍い音が響いていた。
 それは、わたしが高瀬のすねを思いっきり蹴ってやっていたから。
 だって、信じられないもの、やっぱり。
 家の中なら、それもあまりいいとはいえないけれど、まだましだからあきらめてあげる。
 だけど、こんなどこに誰の目があるとも知れないところで、こんなことをするから。
 怒らずにはいられないでしょう? 普通は。
 高瀬のすねを蹴ると同時に、わたしは高瀬から逃れ、オレンジ色の中をすたすたと歩き先を急ぐ。
 高瀬なんておかまいなしに。
 すねを蹴ってやったから、しばらくは動けずにそこにとどまることになるでしょう。
 いい気味。
 少し後ろが気になるけれど、ちらちらと振り返ることを我慢して、一歩二歩と歩みを進めていく。
 その時、わたしの後ろでは、何やらピっという機械音が響いた。
 それと同時に、悪魔の声が聞こえてくる。
「原黒」
 たったそれだけ。
 たったのその一言だけ。
 だけど、それで十分だった。
 わたしの背筋に、ぞくっと冷たいものを走らせるには。
 十分に、威圧がこもっていたから。
 高瀬の声に少し気をとられた瞬間、ぽすっと何かかたいようで柔らかいものがわたしの顔にぶつかった。
 そして、がしっと腕をつかまれる。
 それと同時に、わたしの耳元にふうと生暖かい空気が一筋流れた。
 ぞくぞくとする恐ろしい言葉とともに。
「俺から逃げられると思うなよ」
 その声は、嫌だけれど、とてつもなく聞き覚えがある。
 見なくてもわかる。
 こんな聞くだけでぞくぞくする声。おぞましい声。癪に障る声。
 これは、あの男のもの以外ではあり得ない。
 高瀬昂弥、二十六歳。インチキペテン教師!
「高瀬ー!」
 ぐりんと振り返ると同時に、わたしはそう怒鳴っていた。
 わたしの腕は、まだ誰かにつかまれたまま。
 というか、原黒とかいう高瀬の召使いにつかまれたまま。
 だから、どうして!?
「どうしていつも、こうタイミングよく現れるのよ、この人!」
 高瀬をぎろっとにらみつけ、怒鳴る。
 無事なもう一方の手で、びしっと原黒とかいう召使いを指差す。
 すると高瀬は愉しげににやりと微笑む。
「それは、俺のボディーガードだから」
 高瀬はそう言ったかと思うと、右手に持っていた携帯をぽんと浮かせ、キャッチ。
 すかさずシャツの胸ポケットへしまう。
 携帯が宙を舞った瞬間、銀色のボディーは陽の光を浴び、きらりと輝いていた。
 それが、わたしの目には妙にまぶしく見えた。
 そして、その光を受けた高瀬も。
 悔しいことに。認めたくないけれど。癪だけれど。
 呆然としているわたしは、原黒とかいう召使い……もとい、ボディーガードから、高瀬の胸へ引き渡される。
 そして、もう当たり前になってしまった、ごろごろという高瀬の頬ずりがわたしに襲ってくる。
 抵抗という言葉を頭からすっかり失い、高瀬の胸の中、腕の中、オレンジ色の景色の中、されるがままになっていた。
 高瀬はやっぱり、わたしを優しく包み込む。
 そして、そのあたたかくて甘い空間で思う。
 高瀬は、どうしてわたしが好きなの?
 本当にわたしのことが好きなの?
 それがわからない。
 それがわからないから、動き出せない。
 心のどこかでは、オーケーサインがもう出ているはずなのに。
 それでも、ためらう。
 傷つくのが怖いから。
 痛い思いをしない恋なんてないというけれど、だけど、こうして流されるままにしてしまう恋なら、傷つきたくなんてないじゃない?
 やっぱり、女の子というのは、傷つきたいから恋するんじゃなくて、大切に、そしてたくさん愛してもらいたいから、恋するんじゃないのかな?
 わたしだけを愛してくれる人を愛して、そして幸せになりたいから、恋するんじゃないのかな?
 一方的に甘えてしまうような恋はダメなのかもしれないけれど、わたしはそんな恋がいい。
 いっぱいいっぱい甘えさせてくれて、いっぱいいっぱい愛してくれなきゃ、嫌。
 包容力あるその腕の中で、心地よくして欲しい。
 そうして、わたしは抗うことをせず、高瀬のぬくもりを感じていた。
 暑い暑い、夏の夕暮れ時。


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update:04/03/19