流される乙女心
ペテン師

 五日間のテスト休みも終わり、とうとう終業式。
 これを終えると、後は四十二日間にも及ぶ長い夏休み。
 うん、いい感じ。
 と、例年なら思うところだけれど、今年は最悪。
 だって、夏休みということは、高瀬と日がな一日ともに過ごさなければならないということだから。
 高瀬の奴、夏休みの間くらいは家に帰るのかと思えば、全然だし。
「夏休み? もちろん、楓花と一緒にいるに決まっているじゃないか。せっかくの長い長い夏休み、いろんなことをして遊ぼうな?」
 などと、教師らしからぬふざけたことをぬかしやがって!
 遊べるかっ!
 というか、誰が一緒にいるか!
 何がなんでも家を抜け出し、一人で悠悠自適な夏休みを送るんだ。
 例のあのメールがあるから、高瀬を家から追い出すことはできない。
 それが何とも悔しいところだけれど。
 どうして、自分の家なのに、わたしがこんな思いをしなければならないの!?と、釈然としない思いでいっぱいだけれど。
 それでも、一家が路頭に迷うことは、絶対にさけたいゆゆしきこと。
 まったく、とてつもなく手まわしがいいペテン師だこと。
 ……うん、この夏休みを利用して、アメリカのパパとママのもとへ高飛びというのもいいかも。極悪ペテン師から逃れるために。
 そうして、でんでろでんな気持ちで迎える夏休み。
 来年は受験だから、今年が最後の遊べる夏休みだというのに。
 せっかくの夏休みだというのに。
 ああ、もう!
 あのインチキ教師のために、すでに最悪。
「南川、南川。おい、呼ばれているよ?」
 頭を抱え、もやもや思い悩んでいると、意識の遠くの方でわたしを呼ぶ声がした。
 うん、この声は嫌じゃない。
 だってこの声は、我がクラスの学級委員長、浦堂要の声だもの。
 ……え? へ?
「やっと気づいた。南川、高瀬先生が呼んでいるよ? 早くこないと、通知表公開の刑とか何とか言って」
 浦堂の親切な言葉を最後まで聞かないうちに、わたしは鬼のような形相で椅子を蹴倒し勢いよく立ち上がっていた。
 だってだって、インチキペテン師め。
 またふざけたことをほざきやがって。
 またふざけたことをやらかそうとしやがって。
 人が呆然としていることをいいことに、通知表をぴらぴら振っていやがるんだから!
 極悪教師め!
 ――まあ、人に見られても恥ずかしいような成績じゃないけれど。当然。
 だって、これで下手な成績なんかとってしまったら、またあの危険な個人レッスンをされないとも限らない。
 それだけは、絶対に避けたいところ。
「高瀬ー! 何をしているのよ!」
 そう怒鳴りながら、だだだだだと勢いよくインチキ教師に駆け寄り、その手からばしっと通知表を奪い取る。
 ……まったく、なんて奴なの。
「お前がいけないんだろう。何度呼んでも上の空だから」
 高瀬は非難の眼差しをわたしに向け、あてつけがましくふうとため息をもらしやがった。
 む、むかつくっ。
 たしかに、あなたの呼ぶ声なんて耳に入っていなかったけれど。
 でも、それもこれも全部、あなたのせいじゃない!
 あなたのことを考えていたせいじゃない!
 ――考えていた?
 わたし、今、高瀬のことを考えていたの……?
 そう思った瞬間、またわたしはそこに立ちつくし、考えに沈んでしまった。
 目の前には危険な教師高瀬がいるというのに。
 自らライオンの餌食になるが如く。
「南川? どうした?」
 急に勢いをなくしたわたしを、高瀬は怪訝そうに見てきた。
 ぽんとわたしの頭に手をおき、探るように顔をのぞきこむ。
 ぼすっ。
 同時に、そんな鈍い音がした。
 そして、わたしはくるりと踵を返す。
 ついでに頭におかれた高瀬の手も振り払ってやる。
「南川……。お前、俺に恨みでもあるのか?」
 お腹の辺りを苦しそうにおさえ、高瀬が恨めしそうに去り行くわたしの後姿を見ている。
 恨み? そんなもの――。
「ありまくるに決まっているでしょう! 極悪教師!」
 そう怒鳴り、がたんと席につく。
 わたしらしからぬその行動に、お気楽極楽クラスの連中、みんなあっけにとられたように驚いている。
 ふんっ。そんなもの、わたしには関係ないけれどね。
 このペテン師相手だと、どうも調子が狂って困るわ。
 学校一の才女。それでもって絵に描いたような優等生の名が泣かされるわ。
 本当、腹が立つ。
 後ろの席の学級委員長浦堂要は、そんなわたしを心配そうに見ていた。
 これまでのわたしからは、とうてい想像もできない行動だったのだろう。


「おい、楓花。待てよ!」
 誰もいない放課後の教室で呼びとめられた。
 まさに、扉を開け、廊下へ出ようとした時。
 あの後、高瀬に一発お見舞い事件の後、高瀬の奴、極悪な笑みを浮かべ、「罰掃除」とか言って、今日の掃除すべてをわたしにおしつけやがった。
 当然、掃除当番の連中は両手を上げて大喜びで、さっさと帰宅の途につく。
 まあ、終業式だから、もともとかたちだけで適当に掃除をして、はい、さようなら、なのだけれど。
 どうやら、他校では、終業式の日に掃除なんてそんなことはしないようだけれど、何故だかうちの学校ではあったりするから不思議。
 そんなにここの理事長は綺麗好きなの? いや、校長?
 まあ、そんなことはどうでもいいけれど。
 適当にかたちだけの掃除を終わらせ帰ろうとした時、それまでじっとわたしの様子を見ていた高瀬が、そうして呼びとめた。
「何よ、まだ何かあるの?」
 はあとあてつけがましくため息をもらし、仕方なく振り向いてやる。
 するとそこには、不服そうな表情を浮かべた高瀬が立っていた。
 そして、わたしの後ろの扉を閉じ、右手をそこにだんと打ちつける。
 同時に、びくんとわたしの体が震えた。
 もう誰もいない終業式の放課後。
「な、何なのよ、あなた……」
 当然、ぎろりと高瀬をにらみつけてやる。
 少し、たじろぎながら。
 だってだって、今の高瀬、どこか怖い。
 妙に真剣な顔を、目をしているから。
 このままライオンの餌食にされちゃうかもしれない。
 そんなシマウマが抱くような不安な思いを、わたしは抱いてしまった。
「それはこっちの台詞。何だよさっきの。お前、この間はあん――」
 高瀬は、急にそこで言葉を切った。
 ぷいっと、わたしが高瀬から顔をそらしたから。
 顔をそらすと、高瀬は扉をおさえつけていた手をずらし、その手をわたしの頬にもってきた。
 そして、ぐいっとまた高瀬に向き直らせる。
「お前、この間はあんなに、あんなに……」
 その後、言葉を続けるのかと思えば、高瀬は苦しそうに顔をゆがめ、またそこで言葉を切った。
 ううん、詰まらせた。
 そしてそのまま、苦しそうな表情をたたえたまま、ぐいっとわたしを抱き寄せる。
「ちょっと高瀬! ここ学校!」
「知るものか!」
 高瀬はそう叫び、強く強くわたしを抱きしめる。
 それが、妙に切なそうに、苦しそうに、わたしは感じた。
 そして、必死に何かをわたしに伝えようとしているとも――。
 わからない。
 わからない、高瀬が……。
「楓花、夏休みは、ずっと一緒にいような」
 力強く抱く高瀬の腕の中、甘く切なくささやかれた。
 高瀬のそんな行動は、言葉は、ぎゅっとわたしの胸をしめつける。
 ……わたし、もしかして、高瀬を傷つけた?
 そんな思いがよぎった。
 それでさらに苦しくなった。
 こうして高瀬がその思いをぶつけてくるたび、わたしの心がぐらぐらゆれる。
 このまま流されるように高瀬を受け入れたら、わたし……。
 そしてその時には、高瀬にはもう、わたしは必要でなくなっていたら?
 そう思うと、不安でたまらない。
 でも、抱きしめ返したくなる手を必死に押しとどめているわたしも、たしかにここにいる。
 高瀬の背に腕をまわしたいのに、ぐっとこらえる。
 高瀬が触れるたび、心が嬉しい悲鳴を上げている。
 でもやっぱり、高瀬を受け入れることをためらっている。
 だって、高瀬を受け入れて、その後、高瀬にわたしが必要でなくなったら……。そう思うと不安だから。怖いから。
 だから……。
 ――え? それだけ?
 それだけで、わたしはためらっているの?
 もっと他にもいろいろあるでしょう? いろいろ。高瀬相手だもん。
 ……ううん、ない。
 今では、それだけ。
 たったそれだけの理由。
 あんなに嫌っていたはずなのに。
 わたしは、ただ怖いだけ。
 いつの間にか、気づかないうちに求めている、高瀬を。
 こうして抱きしめられていると、それを嫌というほど実感させられる。
 高瀬がわたしが求めるものをくれるから、高瀬がわたしを求めるから、だからわたしも求めてしまう。
 多少強引で俺様で極悪で、そしてペテン師だけれど、何故だかそんな高瀬がわたしが望むすべてを持っている。
 絶対に、それだけは認めたくないのに。
 それは、頭のどこかでは、きっとわかっていたことだと思う。
 だけど、心が駄目だと警鐘を鳴らしていた。
 でも、もうそんな警鐘も意味がない。
 そんなもの意味がない。
 それは、高瀬の罠にはまってしまったから。ペテンにかけられたから。
 高瀬の麻薬のようなキスが、わたしをはなれなくさせる。
 高瀬の甘い薔薇の香りが、わたしを酔わせる。
 高瀬のすべてが、わたしを惑わせる。狂わせる。
 そう気づいた。
 そう気づいてしまったから、そうわかってしまったから、……もういい。
 流されたっていい。
 どうされたっていい。
 どうなったっていい。
 高瀬なら……。
 ただ、高瀬がいれば。
 高瀬が触れてさえいてくれれば。
 もう、どうなっても……。
 どんなに抗っても、もう無駄だとわかったから。諦めたから。
 高瀬は、あまりにも甘美にわたしを酔わせるから。
 高瀬のキスは、甘い。
 そうして、高瀬がもう前ほど嫌いじゃないとつきつけられる。
 まだまだ認めたくないのに、認めざるを得なくなる。
 このままだと、いちばん許しがたいパターンに、わたしははまっていくのかもしれない。
 それだけは、絶対に嫌。
 何がなんでも。意地でも。
 どうして、よりにもよって、わたしはこんな変な奴を……?


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update:04/03/25