手負いの猫の飼いならし方
ペテン師

 トントントン。
 キッチンから聞こえてくる、リズムよい包丁の音。
 極悪ペテン師は、夕食の支度をしている。
 もういいと言っているのに、たまにはわたしが作ると言っているのに、ペテン師はずっとずっと夕食を作ってくれている。
 最初の夜だけ、お腹がすいたお腹がすいたと、エサをねだる猫のようにだだをこねたきり、高瀬はずっと食事を作っている。
 一度わたしの手料理を味わうことができ、それだけで満足みたい。
 あくまで、今は、だけれど。
 ねえ、なんで? どうして?
 わたしが作った食事、そんなにおいしくなかった?
 そう思ったこともあったけれど、それは違うとすぐにわかった。
 高瀬は、知っていたから。
 誰かに食事を作ってもらう、そういう幸せを忘れていたわたしを。
 そんなわたしに気づいたから、高瀬は作れる限りは作ってくれる。
 夕食、そして朝食。
 それがやっぱり心のどこかでは嬉しくて、作らなくていいとは言えないわたしがいる。
 こうして、キッチンから聞こえてくる包丁の音は耳に心地いい。
 こうして、キッチンから漂ってくる食事の支度の匂いは心を弾ませる。
 だから、いらない、なんて言えない。
 むかつく。そして、ずるい。
 高瀬は、全部全部お見通しだから。
 リビングのソファーに体をうずめ、涼しいエアコンの風を受け、わたしはいつもうとうととはじめてしまう。
 すると、タイミングよく高瀬がやって来て、うとうとしかけたわたしにそっとタオルケットをかけていく。
 風邪ひかないようにと。
 それに気づいているけれど、いらないと言ってタオルケットを投げ捨てるのじゃなくて、そのまま寝たふりをしているわたしが、最近はいる。
 最初の頃は、それでも何かと抵抗していたはずなのに。
 なんだか、今ではわかるような気がする。
 はじめての夜。
 そして、今日の朝。
 寝たふりをしていた高瀬の気持ちが。
 きっと、こういう気持ちだったのだろうなって。
 妙にふわふわして、でも何だか嬉しくて、つい寝たふりをしちゃう。
 高瀬がかけてくれるタオルケットからは、薔薇の……高瀬の香りがふんわり漂って、まるで高瀬に抱きしめられているみたい。
 夕食ができるのを、わたしはうとうとしながらリビングで待つ。
 そして、今日もその時がやってきた。
 がちゃりとリビングの扉が開く音を、意識の遠くで聞いた。
「楓花、指切った」
「はあ!?」
 いつもとは違うこのパターンに、一気に眠気が吹っ飛んでしまった。
 狸寝入りを忘れて、わたしへ歩いてくる高瀬をぽかんと見る。
 だって高瀬、どこかすねた子供のようにぷうと頬をふくらませているから。
 泣き声をつくって、猫なで声でそんなことを言ってくるから。
 高瀬はわたしのもとまで歩いてくると、ぽすっと横に腰かけた。
 当然、その体をすりっとわたしにすり寄せることも忘れない。
 そして、うっすら血がにじんだ左手の人差し指を、ついっとわたしに差し出してくる。
 へえー。高瀬、緑色ではなく、ちゃんと赤い色の血をしていたんだ、ちゃんと。
 と、おかしなところで妙に感心する。
 差し出された高瀬の指が属する左手を、ぺしっと軽くたたく。
「こんなもの、なめておけば治るわよ」
 さらっとそう言い捨て、ぷいっと高瀬から顔をそむけてやった。
 まったく、この男は。
 無視を決め込むことにしたら、高瀬はさらにわたしにその体を押しつけてきて、まるでねだるようにまたしても猫なで声。
「じゃあ、なめて?」
 たわけーっ!
 ねだるように、すがるように、じっとわたしを見つめてくる高瀬の瞳。
 一瞬、その瞳にぐらっときてしまった。
 もちろん、その瞳に悩殺されたのじゃなくて、あきれてめまいを覚えたから。
 まったく、この男はっ!
 いい年をした男が、何だそれはっ!
 同時に怒りもこみ上げてきて、すっくと立ち上がる。
 そして、高瀬のもとをすたすたと歩き去る。
 恨めしそうに、淋しそうに、すがるように、わたしを見つめる高瀬なんておかまいなしに。
 リビングの扉を開け、廊下へ出る。
 恐らく高瀬は、すねてしばらくはそのソファーに体をうずめているだろう。


 再びリビングに戻ってくると、高瀬は案の定すねてそこにいた、まだ。
 まったく、もう……。
 本当、この男、どうにかして。
 そんな高瀬に、赤の十字が入った白い箱をぐいっとつき出す。
 そして、だんと音を立て、目の前のローテーブルの上に勢いよくそれを置く。
「ほら、救急箱。これで自分で手当てしてよ。勝手に、ご自由に!」
 そう言ってぷいっと顔をそむけ、ぽすっとソファーに腰をおろす。
 当たり前だけれど、高瀬が座っていない一人がけのソファーに場所を移して。
 ローテーブルの上に置かれた救急箱を恨めしそうに見つめながら、高瀬はあてつけるようにぼそりつぶやく。
「楓花……。何? これ」
「だから、救急箱と言っているじゃない」
 はき捨てるように言ってやった。
「楓花、手当てしてくれないのか?」
「自分でできるでしょう、それくらい」
 今度は答えるのも面倒というように言ってやる。
 まったくもう、この男は。
 普段の俺様極悪ペテンっぷりはどこへいったのよ。
 妙におかしな猫なで声なんか出して、甘えるようにわたしにすがってこないの。
 本当、今の高瀬は子供みたいよ?
 しかも、たちが悪い、甘えん坊な子供。
 まったく……。さっきから、楓花楓花って、うるさいわね。
「楓花……冷たい」
 高瀬は恨めしげにわたしを見つめ、不服そうにつぶやく。
 そして、ぱこっと救急箱の蓋を開けた。
 何やらがさごそと救急箱の中を探り、渋々といった様子で自らの手当てをはじめる。
 どこかちくっと胸に痛みを感じつつ、そんな高瀬を横目でちらっと見ていた。
 こみ上げてくるおかしな感情をぐっとこらえる。
 高瀬に気づかれないように、膝の上でぎゅっと両手をにぎりしめる。
 少しうしろめたい気持ちを抱き、またふいっと高瀬から視線をそらす。
 わたしの死角では、がさごそと変わらず高瀬が出す音がした。
 その音は、ざわざわとわたしの心をかき乱す。
 本当は、少しは優しくしてやってもいいと思う。
 優しくしてもいいと思う。
 ……優しくしたいと思う。
 そう思うのに、何故かできない。
 心と体の両方が、いうことをきいてくれない。
 その一歩を踏み出す勇気は、まだわたしにはない。


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update:04/03/31