教官室の秘め事
ペテン師

 放課後の国語科教官室。
 そろそろ日が暮れるのもはやくなってきた頃。
 もうすぐ、文化祭がやってくる。
 放課後といっても、学校のあちこちでは、わいわいがやがやといった楽しそうな生徒たちの声が響いている。
 本当はクラブ活動に熱中している時間帯のはずだけれど、今はそんなものよりもこっちの方が大事とばかりに、みんな文化祭の準備に駆けまわる。
 だから、あの夏の日のように、不運にもわたしが高瀬の本性を知ってしまった時のように、暇つぶしがてら、高瀬に愛想をふりまきに来るキャピキャピ娘さんたちの姿もない。
 きっと、クラスメイトか何かにつかまっちゃっているのだと思うけれど。
 だって、ああいうキャピキャピ娘さんとかって、「ええ!? せっかくのネイルアートが駄目になっちゃう」とか何とか言って、さぼりそうな勢いだから。
 ああ、そうじゃなくて、「これから彼氏とデートなの」かもしれないわね。
 ちゃんと決まった人がいるにもかかわらず、他の男を追いかけるという辺りは、節操がないと思うけれど。
 まあ、つき合ってもいないのに、キスを許しちゃうとか、ぎゅっと抱きしめさせてやるとか、しまいには一緒に住んじゃうとか、そんなとんでもないことをしているわたしよりは、よほどましだとは思うけれどね。
 そう、わたしってば、この男、この国語科教官室の住人高瀬昂弥と、今もって同居しているのよねえ……。
 はあ、これで、何ヶ月?
 二ヶ月? 三ヶ月?
 もう、うんざり。
「高瀬、わたしも準備をしに行きたいのだけれど?」
 どかっと俺様ちっくに机に両足を放り出し、いつかのように、無駄に色気を放出している男が、今わたしの目の前にいる。
 もちろん、わたしはその男を、面倒くさそうにじとりとにらみつけている。
「だめ。別に楓花がいなくてもいいだろう。だから、もう少しここにいて」
 むうとどこかすねたようにそう言って、高瀬はぐいっとわたしの腕を引っ張る。
 そして、当然のように、その胸へダイブさせられる。
 上げていた足も下におろし、がっちりとその腕の中にわたしをとらえている。
 なんだか、くすぐったい。
 これって、高瀬はすなわち、わたしを独り占めしたいということでしょう?
 胸の奥がかゆくなっちゃうじゃない。
 どうしても手がとどかないそんなところを、かゆくさせないでよ。
 高瀬の大馬鹿者めっ。
「もう、高瀬ー。学校じゃまずいと言っているでしょう? いい加減学習しなさいよ」
 ぐいぐい高瀬の胸を押し返す。
 どうにか高瀬の腕の中から逃れるため。
 だけど、やっぱりそれは本気ではなくて……ふり。
 一体、わたしはいつから、本気ではなくふりで抵抗するようになったのだろう?
 ……わからない。
 気づけば、嫌がるふりをしていて、心のどこかでは本気で抵抗してはいない。
 そして、何だかんだと言いつつ、高瀬の思うようにさせている。
 どうしてなのかはわからないけれど、もう抵抗できないから。
 わたしも、こうしてぎゅっと高瀬に抱かれていたいから。
 この空間は、とても心地いいから。
 ここにいるだけで、すごくほっとする。安心する。
「それより、楓花、今日の夕食は何がいい?」
 にっこにっこと嬉しそうに微笑みながら、高瀬がそんなことをきいてくる。
 何故、こんなにすこぶるご機嫌なのか、わかっちゃうから頭がいたい。
 それはもちろん、わたしが大人しく高瀬に抱きしめさせてやっているから。
 そして、あの日。
 わたしは高瀬のものだよな?と聞かれたあの日。確認されたあの日。
 わたしは、否定で返すのではなく、だけど言葉を発するのでもなく、ただ高瀬の背に腕をまわし、きゅっと抱きしめ返していた。
 あの日から、高瀬は無駄にご機嫌。むかつくくらいご機嫌。
 もうわたしは高瀬のものだと、そう信じて疑っていないよう。
 まだ認めたわけじゃないのに、許したわけじゃないのに、高瀬はそう信じきっている。
 どこからそんなに自信がくるのかというくらい、確信している。
 それは、多分に、いつまでたっても肯定も否定もしないわたしにも、責任があるかもしれないけれど。
 だけど、どちらもできないのは本当だから。
 だってまだ、わたしにはわからないから。
 たしかに、もう逃げないと決めた。
 男の人の好きが信じられないと怖がっているのじゃなく、その場で足踏みをしているのじゃなく、飛び込んでみようと思った。
 高瀬の胸に。高瀬の気持ちに。
 まだ全部が全部信じられるわけじゃないけれど、最近の高瀬は優しいから。
 そして、どことなく切なさを感じさせる。
 だから、信じてやってもいいと思う。今は。
 わたしを見つめるその目がいっている。
 まるで捨て犬のような目を時々高瀬はする。
 わたしに捨てられたら、もう駄目になると。生きていけないと。
 ばっかみたいっ。
 そう思うけれど、突き放せない。
 ライオンのくせして捨て犬のような目でわたしを見るから、ついつい心がぐらっとゆれて、そして許してしまう、高瀬の暴挙。
 流れるように、惑うように、気づけば、高瀬の思うがままになっている。
 もう流されたっていいと思っているわたしが、やっぱりいるのかもしれない。
 高瀬なら、いいかなって。
 それはどうしてだかはわからないけれど、だけどそう思っちゃう。
 あんなに大嫌いなインチキ教師だったはずなのに、今ではこの腕の中が心地いいと思う。
 だから、突き放せないし、手放せない。
 このあたたかくて優しい腕を失いたくない。
「うーん。何がいいかなー? 高瀬って、本当に何でも作れちゃうからむかつくのよねっ」
 高瀬の腕の中で、ぐるっと上体をまわしてみた。
 そして、ぶにいと頬を思いっきり引っ張ってやる。
 当然、真横に。長く。
 そう思うと、なんか本当にむかついてきちゃったから。
 この男は、金持ち男のお買い得男のくせして、わたしよりも料理のレパートリーが多いときているから、本当にむかつくっ。
 ぶにいと頬を引っ張ってやっているのに、高瀬はそれでも嬉しそうにくすくす笑っている。
 本当にもう、この詐欺師めっ。
 頬を相変わらず引っ張ったままのわたしの両手に高瀬はふわりと触れ、そしてぎゅうと握り締める。
 それからもちろん、その両手はあっけなく高瀬の片手にすっぽりおさまり、あいたもう一方の手はわたしへのびてくる。
 これまたふわりと優しくわたしの髪をすいて、極上の微笑みを落とす。
 幸せだと。こんなに幸せなことはないと。
「楓花のためなら、何でもできるからね」
 高瀬はそんな訳がわからない答えを返してきた。
 さっきのわたしの皮肉に。嫌味に。
 そしてもう一度、「何がいい?」と、首をかしげて楽しそうに聞いてくる。
 くすくすと笑いを添えて。
 猫をかぶっても、全然かわいくも何ともないのに。
 むしろ、気持ち悪い。
 まったく、この男は。
「わからない……。何でもいい」
 なんだか悔しくて、そう答えてやる。
 「何がいい?」と聞いてくるくらいだから、きっと高瀬にも何を作ればいいのかわからないのだと思う。
 だから、ちょっといじわるしてやる。
 ふんっ。夕食の献立くらい、自分で考えやがれというのよ。
「じゃあなあ……」
 高瀬はふむっと少し考えた後、口を開いた。
 わたしの両頬を、大きくてあたたかいその両手にふんわりと包み込む。
 優しい目でわたしを見つめる。


 教官棟のいちばん東の端。
 普段あまり人がよりつかないこの国語科教官室へ、ゆっくり歩いてくる人物がいたことに、この時のわたしたちはまだ気づいていなかった。
 ゆっくりと静かに、その足音すら聞こえないように歩いている。
 本当はちゃんと足音がしていたのかもしれないけれど、その時のわたしたちにはそれを聞きとる余裕なんてなかった。
 もう他のことに気を配る余裕なんてなくて、ただ二人の攻防戦を繰り広げているだけ。
 キスをしてこようとする高瀬。
 それを阻止しようとするわたし。
 そこには、そんな二人しかいなかった。
 それがとても楽しくて、気づけば夢中になっていた。
 高瀬との、じゃれあい。
 傾きかけた太陽が差し込む、オレンジ色の国語科教官室。


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update:04/06/16