ライオンが生まれた日

 まずい。
 逃げなければ。
 どこか、絶対に見つからないところへ。
 あのライオンが、絶対に見つけられないところへ。
 そうじゃないと、今度こそ、本当の本当に終わってしまう。わたしの人生。
 ……もうすでに終わっているけれど。
 このままじゃあ、最後の砦まで陥落されてしまう。
 にやりと俺様に微笑み。こともなげにさらっと。
 だって、だって今日は、あの男の――。


「高瀬先生、お誕生日、おめでとうございます」
「はい、これ、プレゼントー!」
 昼休み。
 学校の廊下の曲がり角。
 ちょうど中天をこえたばかりの陽が、目にまぶし……くはない。
 だって、今日は、わたしの心をあらわしたかのような、雨。
 あいつの日頃の行いが悪いとばかりに、今日この日は、雨。
 そして、その男の姿を見つけた瞬間、危険信号が点滅した。
 黄色から赤へと変わる。
 ……いや、すでに、あいつを見つけた刹那、赤信号になっていた。
 イエローカードなんかじゃなく、一発でレッドカード。
 即刻、退場。この場から。
 だからもちろん、身を守るために、本能的にじりじりと後退していた。
 そんな時、そんな言葉が、たて続けにわたしに襲いかかってきた。
 それだけじゃない。
 あの男は、そこにわたしがいないことをいいことに、キャピキャピ娘さんたちに囲まれて、鼻の下をでれーんとだらしなくのばしたりなんかしている。
 やっぱり、根っからのドスケベライオンなのよ。
 ――まあ、あの男がドスケベじゃないなんてことはあり得ないけれど。
 そろそろ、しとしとと雨が降り続く季節。
 降りやむことなんて知らないのじゃないだろうかとさえ思えてしまう、そんな季節。
 雲は灰色で重く下がっているのに、じとじとと全然さわやかじゃない空気が充満しているというのに、どうしてそこだけ、南国パラダイスなの?
 からっと晴れ渡った、青空。
 あちらこちらに、プルメリアの花が見えてきそうよ。
 おまけに、フラダンスまで踊っちゃう!?
 何なのよ、あのうかれ模様は。
 そこには、わたしはいないというのに。
 廊下の曲がり角、こちら側から、そんな光景を思わずのぞき見てしまう。
 しかも、そのプレゼント≠ニかいうものを、高瀬の手にむりやりおしつける娘さんたちが数多!
 それを、わいわいとはやしたてる、健全なのだか不健全なのだかわからない男子生徒さんたちも……数多!
 どうして、いつもいつも、いーっつも、あの男のまわりには、人がたくさんいるの。
 ……なんだかおもしろくない。
 あの男はインチキペテン師なのだから、人に慕われるなんて、これっぽっちもあってはならないはずなのに。
 どうして、いつもあいつのまわりには人がいて、そうして幸せそうに微笑んでいるの?
 やっぱり、そこにわたしはいないというのに。
 そこにいるのは、わたしだけじゃないといけないのに。
 そして……そうなんだ。
 あの男の誕生日、みんなは知っているんだ。
 知っているのは、わたしだけだと思っていたのに。
 だからって、違うからねっ。
 わたしが知っていたのは、ひと月も前から、今日この日が高瀬の誕生日だと、あの男が耳にたこができるほど、うっとうしいほど、毎日毎日言っていたからであって……。
 もちろん、あの男の誕生日を祝ってやる気も、プレゼントなんてそんな贅沢なものを用意しているわけもない。
 どちらかというと、とっても危険な予感がするから、今日一日、あの男から逃げることを考えなければならない。
 それなのに、たまたまとはいえ、こんな光景を見せられて、どうしてわたし、今こんな気持ちになっているの?
 ここぞとばかりに、逃げられるチャンスだというのに。
 ……やっぱり、むかつく。
「散れっ!」
 気づけば、砂煙を巻き上げんばかりの勢いで、そこにどんと右足を踏みつけた。
 キャピキャピと高瀬に群がる娘さんたちの目の前。
 今まで身を隠していた曲がり角から出てきて。
 そう怒鳴ると、キャピキャピと黄色い声は、一瞬にしてしーんと静まりかえっていた。
 そして、数秒の静寂。
 次の瞬間には、蜘蛛の子を散らすように、その場から、キャピキャピ娘さんたちも健全なのだか不健全なのだかわからない男子生徒さんたちも、みんな消えていた。
 そして、ここにとり残されたのは、わたしと、この危険なインチキペテン師。
 瞬間、悟る。
 わたしは、間違いなく、自ら蜘蛛の巣にかかりにきてしまったのだと。
 だってほら、この男、こんなに嬉しそうに、だけど意地悪く、にやにや笑っているもの。
 これで、わからないわけがない!
「楓花、そうか。やきもちをや――」
「これ以上、あんたのインチキ菌の感染者を増やしたくないだけよ。増えれば増えるだけ、わたしが迷惑する」
 とろんと顔を崩して、わたしに抱きつこうとしてきた害虫男をするっとかわし、ぴしゃりと言い放ってあげる。
 そう、まさしくそうなんだもの。
 これ以上、インチキ菌の感染者が増えたら、わたしがとっても困る。
 ただでさえ食中毒に気をつけなきゃいけない季節だというのに、これ以上おかしな菌をばらまかないでもらいたいわ。
 ……その辺りの毒薬なんて比じゃないほどの殺傷力なのだから、その菌は。
「楓花……。ひどい」
 高瀬はわたしに恨めしそうな目を向けてきた。
 そうて、訴えてくる。
 「愛が足りない」と。
 ふんっ。そんなもの、もとから、みじんも……かけらすらないわよ。
 調子にのるのじゃないわよ、このインチキペテン師が!
 それに、わたしがいなくても、十分楽しそうだったじゃない。
 ……やっぱり、おもしろくない。


 それから数時間後。
 何故だかわたしは、こんなところにいる。
 高瀬の家の、薔薇の温室に。
 放課後になるやいなや、この薔薇の温室へ拉致られてしまった。
 妙に嬉しそうに顔の筋肉をゆるませ、体のまわりには花をばらまいた高瀬によって。
 その花は、やっぱり見事なまでのプルメリアだったことを、わたしは見逃していない。……まだ南国気分でいるのか、この男は。
 本当に、目もあてられないほどの、壊れ模様。
 そして今、真っ赤な真っ赤な薔薇の中、高瀬と二人きり。
 ぷいっと顔をそむけたわたしの後ろに、高瀬が立っている。
 薔薇の花にそっと手を触れ、優しくなでている。
 ふわりと、甘い微笑を浮かべる。
 それを、視界の隅でちらっととらえてしまったら、思わず見入ってしまいそう。
 ……どうして?
「なあなあ、楓花。それで、楓花からのプレゼントは?」
 そう言いながら、当たり前のように、性懲りもなく、高瀬はまたわたしへ手をのばしてくる。
 この一面の薔薇が放つ甘い香りよりも、もっと甘い香りを放ちながら。
 だけど、今日の楓花さまは、いつもにましてご立腹なのよ。
 あなたの、そのふらふらとしたくらげのような生き方にね。
 糸が切れた凧め。
 どうせ、そうして、女の子と見たら、誰にでもしっぽをふっているのでしょう!?
 いつでもどこでも、年中発情期男が!
 ……むかつくっ。
「はあ!? 何寝ぼけたことを言っているのよ。そんなのあるわけないじゃない」
 のばしてきた手をべちんと叩きはらい、汚らわしそうに高瀬をにらみつけてやる。
 本当、この男、調子にのるのもたいがいにしなさいよね。
 キャピキャピ娘さんたちに、プレゼントをたーんとおしつけられていたのだから、それで十分じゃない。
 その上、まだわたしからの慈悲が必要だというの?
 この贅沢者め。
 そんなことばかり言っていたら、そのうち罰があたるわよ。
 ――いや、そのうちなんかじゃなくて、もうすでに、この男は地獄いきだと決定しているけれど。これまでのその散々な悪行から。
 その最たるものが、このわたしをたぶらかしたということよね!
 ……たぶらかしたなら、最後まで責任をもって、わたしだけを見ていなさいよ。
 腹立たしい!
「ふーん。別にプレゼントなんていらないけれどね。……楓花がいれば」
「……え?」
 そうつぶやいた時には、すでに遅かった。
 背を向けていたはずなのに、たしかに安全な距離をたもっていたはずなのに、どうして、まるで魔法のように、わたしはすでに高瀬の胸の中にいるの!?
 し、信じられない!
 しかも、逃げられないように、両腕でぎゅう抱きしめられている。
「そういうことで、いただきます」
 その言葉と同時に、ぐいっと高瀬へと向けられた顔に、高瀬の顔が降っていた。
 ふわりと、頬に触れる、高瀬の栗色の髪。
 く、く、悔しい!
 そして、やっぱり、この男はとんでもないペテン師よ!
 見事に華麗なペテンの技をもって、神業のようにやられちゃっていたんだもの。
 いただかれてしまっていた。
 おいしく、ぺろっと。
「なあ、もっといいだろ?」
 さらにそんなことを言いつつ、高瀬は次から次へと唇を奪っていく。
 赤く甘い薔薇の中で、そんな薔薇たちに負けないくらい、甘くて優しくて、そして上等なキスを降らせてくる。
 しとしと雨が降る薔薇の温室の中。
 高瀬の腕の中、ちらっと見上げた硝子の天井に打ちつける雨。
 こんなちっぽけなキスと、雨が奏でる音楽なんかのために、ほんの少し前まで抱いていたあの妙にむかむかした気持ちが、馬鹿らしくなってしまった。
 すうっと、心がおだやかになっていく。
 結局、この男は、キャピキャピ娘さんたちからひとつもプレゼントを受け取らなかったし?
 それにしても、いつまで、こうして当たり前のように、わたしをおいしくいただき続けるのでしょう?
 このペテン師は。
 ……あ、頭痛い。
 わかっていたこととはいえ、この男、本当に予想をまったく裏切らない。
 つまりは、わたし≠ェプレゼントということね?
 やっぱり、いつもと思いっきり変わらないような気がするけれど。この男がしていることは。
 でも、そこが、この男がこの男である所以なのかもしれない。
 その背に、そっと腕をまわしてみる。
 そこだけ、いつもとちょっと違うところ。
 ペテンなライオンが生まれたその日。
 やっぱりペテンな薔薇の中で、わたしは、このペテン師から甘い時を与えられる。
 もちろん、わたし以上に、俺様ペテン師は甘く幸せそうに微笑んでいる。
 その腕の中で、わたしがおとなしく抱かれているというだけで。
 その背に、すっと腕をまわしてあげたというだけで。
 なんとも安上がりなペテン師。
 そして、罪深いペテン師。
 ……それで、どうして、わたしの体は、ゆっくりと、だけど着実に、甘く真っ赤な薔薇の中に倒れ……押し倒されていくのでしょう?
 優しく包み込む、この男に。
 そして何故、この男の手は今、わたしの制服のブラウスのボタンにかけられているのでしょう?
 押し倒す直前に、自分が着ていたジャケットをさっと脱ぎ、ちょうど倒れこんでいくそこに敷いていた。
 だから、薔薇のとげがわたしを傷つけることはない。
 甘い薔薇の中に、それとはほんのちょっと違った、高瀬の甘い香りが広がる。
 前からも、後ろからも、抱きしめられているような錯覚にとらわれる。
 ――結論。
「調子にのるな! 変態!」
 ごすっとみごとにみぞおちに膝をお見舞いし、さっくりと、このふざけた物体をはらいのける。
 だけど、わたしを抱く腕だけは、決して放そうとしない。
 やっぱり、そのまま薔薇……高瀬の香りの中に、包み込まれていく。
 嗚呼、もう、なんて犯罪者なのだろう。
 あきれすぎて、言葉もでてこない。
 というか、この男が、この世に生れ落ちたその所業自体、すでになにものにもかえがたいペテンだと思う。


ライオンが生まれた日 おわり

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update:05/06/04