おねだりライオン

 うっすらと目を開けると、カーテンの隙間から、朝の陽光が飛び込んできた。
 少しのまぶしさを感じ、思わず目をつむってしまう。
 だけど、このままずっとベッドの中にいるわけにもいかず、まだちょっぴり眠い目をこすりながら、上体を起こそうと試みる。
 それでも、それは途中でくじけそうになる。
 だって、冬の朝の空気は、肌をさすように冷たいから。
 ぶるるっと身をふるわせ、ベッドの中にUターン。
 違和感に気づいたのは、そんな時だった。
 ベッドの中にいても、朝食の準備をする香りがほんのり漂ってくるのは、別に今さら驚くことじゃない。
 だけど、今朝の朝食の香りは、いつもと何かが違う。どこかが違う。
 だって、妙にあまい香りがしているから。
 いつもなら、こんがり焼けたトーストの香りだとか、入れたてのコーヒーの香りだとか、ふわふわのスクランブルエッグの香りだとかなのに……。
 どうして、こんな、お菓子屋さんのような香りがするの?
 その香りに、一瞬にして覚醒する。
 寒いはずなのに、ためらいなくベッドから飛び出していた。
 だってだって、とてつもなーく嫌な予感がするのよ。
 こんな香りがする朝は、絶対にろくなことがない。
 そのままベッドを抜け出し、キッチンへ一目散にかけていく。
 そして、勢いよく扉をあけると……。
 そこにはやっぱり、案の定、いた。……いやがった。
 こちらに背を向け、鼻歌なんかを歌いながら、妙にうかれた馬鹿が一ぴ――俺様ペテン師が一匹、懸命に何かの作業をしている。
 ただでさえとろけそうなほど甘い男なのに、そのまわりにまとう空気まで、とろとろに甘そう。
 オーブンの中には、今まさに焼きあがろうとしている、ふわふわな物体がある。
 それらすべてから、この状況を悟る。
 同時に、くらりと嫌なめまいが襲ってくる。
 開けたままになっている扉にどっともたれかかり、ため息まじりにつぶやく。
 手でおでこをおさえちゃったりなんかもしてあげちゃうわよ。
「というか、何をしているのよ、高瀬」
 するとペテン師は、ぴたっと鼻歌をやめ、すかさずこちらへ振り返った。
 このうかれとんちき男は。
 まるで、どんなに小さくても、わたしの言葉なら聞き逃すわけがないとでも言うかのよう。
 実際、この男の耳は、地獄を通りこした耳なのよ、わたし限定で。
「え? あ、楓花、おはよう。見ての通り、ケーキを焼いているんだ」
 満面の笑みで、高瀬はほくほくとそう答える。
 あわだて途中の生クリームが入ったボールをかかえながら。
 クリームがたっぷりついた泡だて器を、嬉しそうにぷらぷらと振っている。
 こ、この男はっ。
「……いや、それはわかるから、見れば。だから、どうしてそんなことをしているのかと聞いているのよ」
 そう、そんなものは、見ればいやでもわかる。
 わからないのは、この男の思考。
 思いっきり、今さらだけれど。
 何故、朝っぱらから、そんな理解不能な行動を……?
「だって、クリスマスだろう?」
「はっ!?」
 まるでそれが当たり前というように、高瀬はけろりと答える。
 そして、再び、ボールに泡だて器を入れ、カシャカシャとあわだてはじめる。
 思い切り怪訝に顔をゆがめるわたしにかまわず、高瀬はうきうきと続ける。
「クリスマスといえば、俺の愛情たっぷり手作りケーキを、楓花に食べさせなければ」
「あの……?」
 さすがに、ここまでわが道を行かれると、わたしでもつっこみの勢いが衰えるというもの。
 まあ、今さら、つっこむ気にもなれないけれど。
 この男の意味不明な思考には。
 というか、そのケーキ、おかしなものなんて入れていないでしょうね?
 いつかみたいに、ホレ薬とか何とか、たわけたものを……。
 どうして、ケーキを作っているのかとかそういうことは、もうおいておいてあげるわ、この際。
 今さらすぎるから。
 ただ、問題はそこなのよ。
 どうして、高瀬の手作りケーキをわたしが食べることが義務なの?
 ――あ、やっぱり、そこにもつっこんじゃいけないような気がする。
 だから、今最も問題にしなければいけないものは、何かいかがわしいものを混入していないかということで……。
 嗚呼ー。どうして、こう普通じゃないことを気にしなきゃいけないの?
「え? 何? 楓花も一緒に作りたいって? ――いやだなー、そんな新婚みたいなことを言って。嬉しいじゃないか」
「ふざけるな、害虫」
 ほら、やっぱり、この男は人の話なんて聞いていない。
 すべてを自分の都合のいいように解釈する、超ボジティブ男。
 ……あきれるほどに。
 げんなり肩を落とすわたしに、高瀬はうきうき歩み寄ってくる。
 持っていたボールと泡だて器を、ぽいっと放り捨てて。
「またまたー、照れちゃって」
「照れてなんて、これっぽっちもない。あきれているのよ」
 あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて、やっぱりめまいを覚えたわたしを、高瀬はすいっとその胸に抱き寄せる。
 一寸の狂いもなく、みじんの迷いもなく。
 そして、ぽっと頬をあからめて、本気で照れてみせる。
 ……こ、このいかれ男は。
「え? 愛しているって? 照れるじゃないか」
 言っていない。ひとっことも言っていないから。そんなことは。
 この男の耳、大丈夫? ちゃんと聞こえている!? 正常に働いている!?
 ……なんてそんなことは、やっぱりもう、今さらすぎてつっこむ気にもなれない。
 たとえ正しく耳の中に入った言葉でも、脳に到達するまでに、自分の都合のいいように変換されちゃっているに違いないもの。
 本当に、どこまでいくの? そのゴーイングマイウェイっぷり。
「……もう、いい」
 だから、いつものように、わたしは高瀬の腕の中、ぐったりなっちゃう。
 ぽてんと、高瀬の胸にもたれかかったりもする。
 そして、そんなわたしに気をよくして、高瀬がさらにご機嫌が浮上するのもいつものこと。
 この男のご機嫌には、果てというものはないよう。
 腕の中に大人しくおさまっていてやると、それで満足したのか、高瀬はわたしを解放していく。
 そして、放り捨てていたボールと泡だて器を再び手にとって、作業を再開させる。
 そんな高瀬を、わたしはただ、ぼんやり見ていることしかもうできない。
 なんだかもう本当に、朝からとっても疲れたわ。
 というか、朝からキッチンを占拠されていたら、わたしの朝食、作れないのだけれど?
 視線をさまよわせていると、隣のダイニングのテーブルにふと目がとまった。
 そして、再び、疲れが怒濤のように押し寄せてくる。
 ――ある。ちゃっかり、ある。あきらかに、わたしのために用意されたとわかる、朝食が。
 こ、この男、一体いつから起きて、こんなふざけたことをしているの!?
 信じられない。だってまだ朝の六時よ!?
 思いついたが最後、時間なんて関係なくなっちゃうのかもしれない、この男は。
 ふらふらふらーと吸い寄せられるように、わたしはテーブルへ歩いていく。
「……あっ!」
 すると、背後で、高瀬がそんな叫び声を上げた。
 何事かと、思わず振り返ってしまう。
 こんな男、何があろうと、放っておけばいいはずなのに。
「え? どうしたの?」
 しかし、それがいけなかった。今思えば。
 こんな男、心配なんて、これっぽっちもしてやっちゃいけなかったのよ。してやる必要なんてなかったのよ。
 声をかけると、高瀬はゆっくりくるーりとこちらへ振り向いた。
 そして、ぺろりと舌を出しながら、どおけたように肩をすくめる。
「楓花ー……。鼻のあたまについちゃった、クリーム。――なめて?」
 しかも、最後の言葉を言う時なんて、妙にあまったるーく甘えたような猫なで声。
 だから、あなたは百獣の王ライオンでしょう!
 とは、もう今さらだからつっこまないわ。
 この男、自分の都合に合わせて、猫にでもライオンにでもなる男だから。
 ――時々、オオカミにもなっちゃうけれど。
「ほざいていろっ」
 だから当然、冷たくきっぱり言い切る。
 だけど、それくらいでひるむ男じゃないことくらい、もうわかりきっている。
「楓花、楓花、楓花ー……」
 ねだるように、恨めしそうに、高瀬はわたしを見つめてくる。
 ぽてぽてと、歩み寄ってきながら。
 もちろん、またしても、持っていたはずのボールと泡だて器は、高瀬の手の中にはない。
「ああ、もうっ、わかったわよ! ふけばいいでしょう、ふけば!」
 すぐそこにあったティッシュケースをがしっと乱暴にとり、ぐいっと高瀬の胸におしつける。
 だけど、それはあっさり払い落とされていた。気づいた時には。
 床で、淋しそうに、ティッシュケースがわたしたちを見上げている。
 さらに、何故だか、わたしの両手は高瀬の右手に拘束されちゃっている。
 おまけに、高瀬の左腕は、何故だかぐいっとわたしの腰を抱き寄せている。
「違う。なめて。もったいないだろう」
 めっと、まるで悪い子をたしなめるように、高瀬はわたしを見つめてくる。
 ――むしろ、悪い子はあなたでしょう、なんてやっぱり、今さらすぎて言う気にもなれない。
 嗚呼もう、本当、この男は、朝っぱらから……っ。
「な、な、何たわけたことをほざいているのよ!」
「いいから、な・め・て!」
 さらにずずいっと、高瀬はそのうかれ顔を近づけてくる。
 そんな高瀬に、不覚にも、わたしの顔は真っ赤に染まってしまう。
 嗚呼、もう、わかったわよ。なめればいいんでしょう!
 ク、クリームくらい、なめてやるわよ!
「……まったく、しようがないわね……」
 このままじゃどうにも埒が明きそうにないので、結局また、わたしが折れることになってしまう。
 渋々、クリームがついた鼻に、そっと唇を寄せていくと……。
 瞬間、ぐいっと抱き寄せられ、その勢いのまま触れていた。
 見事、的がはずれたところに。
 それから逃れようと、じたばたもがいてみても、結局は無意味のよう。
 しばらくしてから、ゆっくりとはなれていく。
 もちろん、顔がはなれた時には、わたしは思いっきり恨めしげに、高瀬をにらみつけていた。
 だけど、高瀬は妙に優しい微笑みを浮かべていた。
「あ……。今度は、楓花の鼻にクリームがついちゃったな」
 ふわりとわたしの髪をすきながら、何がそんなにおかしいのか、高瀬はくすくす笑い出した。
「え?」
「今度は、俺がなめてあげる」
 そうして、高瀬はまた顔を近づけてくる。
 だから、当然、瞬間、
「死にさらせー!」
 わたしの十八番みぞおちパンチが、高瀬にお見舞いされていた。
 ぼこりと。
 ――その後、わたしの身に待ち受けていたものは、もう言わずと知れたこと。
 嗚呼もう。本当に、絶対、間違っていると思う。
 この男の存在からして。
 というか、キスくらい、普通にねだれないの?


おねだりライオン おわり

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update:05/12/25