チョコわずらい

 わたしの手の中には今、世界中の不思議ぜんぶをかき集めても足りないくらいの不思議がある。
 この、リボンふりふりの四角い物体がわからない。
 どうして、わたし、チョコなんて買っちゃったの?
 ……そのチョコ、いわゆるバレンタインチョコというものらしい。
 ちょっぴりあまく、そしてほろ苦い、ビターチョコ。
 しかも、このチョコを見た瞬間、あの男が好きそうだなあとか、むしろ、あの男のことしか思い浮かばなかったのだけれど?
 ――血迷っている。終わっている。すべてが。間違いなく。


 はじまりは、あれだったのよ。
 あれが、すべてのはじまりで、元凶だったのよ。
 「明日はバレンタインだから、みんなでチョコを買いに行こうよ。もちろん、男子全員に配る義理チョコだけれどね?」なんて言って――本命チョコは、当然、もう用意済み……らしい――お気楽極楽クラスメイトの女子生徒さんたちに、強引に引っ張られてきてしまったこと。
 妙にうかれて、見ているだけで気分が悪くなるほどに、あまったるーい雰囲気が充満している、このバレンタインチョコ売り場≠ニかいう場所に。
 ピンクやら赤やらのハートが乱舞しているように見えるのは、絶対に錯覚とかじゃないと思う。
 まったく、だから、お気楽極楽だというのよ。
 こんなに簡単に、お菓子会社の陰謀にそそのかされちゃって。
 もともと、こんなイベント、日本には存在しなかったのよね。
 発祥地でだって、女の子から男の子にチョコを渡すなんて風習はないというし。
 本当、楽しければ何でもありのようね。
 本命だけならまだしも、義理をばらまくなんて、節操なしもいいところだわ。
 まったく、嘆かわしいことね。
 わたしには、ついていけないわ。
 これまでだって、誰にもチョコなんてあげたことないもの。
 ……いや、あるけれど。
 でも、それは、パパにだけよ。
 だってパパったら、あげなかったら、まるで子供のようにだだをこねてすねちゃうもの。
 ママからのチョコだけで十分でしょうに、娘にもたかるなというのよ。
 ――そういえば、そんなパパよりたちが悪い男が、いたような気もするけれど……。
 この際、さっくり無視しちゃった方がいいかもしれないわね。
 だって、本当にたちが悪いから。いかさまの如く。
 あーあ。それにしても、キャピキャピ娘さんたち、きらきらと瞳を輝かせて、チョコに群がる娘さんたちの群れに突進していっちゃっている。
 本当、好きね。そして、元気ねえ。
 わたしには、やっぱりついていけないわ。
 そう言うと、「あれ? でも、楓花ちゃんにも、パワフルになれる相手がいるじゃない。女の子は、恋をすると無敵になるからね」なんて、キャピキャピ娘さんが言ってくれちゃったりしたけれど。
 それ、違うから。
 だってわたし、恋≠ネんてそんな不気味なもの、していないから。
 誰も好きじゃないから。
 好きなわけないじゃない。
 好きであってたまるか!
 だって、あの男よ!?
 あの男の一体どこに、好きになる要素があるというの!?
 欠片すら存在していないわ!
 視界の片隅にすら入れたくないほど嫌う要素なら、たっぷりあるけれどね。
 ――と、そう思っていたはずなのに、どうして、わたしの手の中には、しっかりとチョコがあるのでしょう?
 世界最大級の謎だわ。
 しかも、バレンタインチョコ売り場とかいうところに、いかにも置いていそうな、このきらきらにラッピングされたチョコは……?
 世の中、本当、不思議だわ。
 ……いや、そんな現実逃避をしている場合じゃないわよ。
 問題は、このチョコよ。
 これ、どのようにして処分しようかしら?
 まさか、このままポイっとゴミ箱に捨てるのも、食べ物を粗末にしちゃうからしてはいけない。
 だからといって、持ち帰るのもとっても怖い。
 気づいたら、発見――発掘されていそうなのよね。
 どんなに奥深くに隠していたって。
 庭に穴でも掘って、その中に埋めちゃったとしても。
 だって、相手は、犬よりもすぐれた嗅覚の持ち主だもの。
 こういうことに関してだけは。
 そう思うと、もう八方ふさがりのような気がしてならないわ。
 本当、どうしよう、このチョコ……。
 なんだか、バレンタインチョコを自分で食べる……というのもむなしいような気がするし――まあ、世の中には、自分用にチョコを買う娘さんも、たっぷりいるようだけれどね――だからといって、まさか、あの男にくれてやるなんてもってのほかだし。
 だって、悔しすぎるもの、それは。
 なんだかそれって、あの男にくれてやるために、わざわざ用意したと思われそうじゃない。
 それだけは、絶対に思わせたくないのよ。
 わたしの意地とプライドにかけて。
 ――んー。悩む、悩みまくる。
 さて、どのように処分してくれようかしら?
 そんなことをもんもんと考えながら、帰路を急ぐ。
 キャピキャピ娘さんたちにわからないようにこっそり買っちゃって、その後、そそくさと逃げるように帰ってきたのよね。
 この後、みんなでお茶をしようという誘いを、あの男を口実に断って。
 そうすると、みんなあっさりさっくり諦めることを知っているから。
 ……悔しいことに。
 そういう点でしか、役に立たないけれどね、あの男は。
 だって、あのまま一緒にいたら、わたしのことだから、いつぼろを出すかわからないもの。
 ――自分で言っていて、悲しいけれど。
 嗚呼、住宅街の生活道を歩くわたしの身を、夕陽が無情にも赤くそめている。
 なんだかとっても、切ない。
 どうしてわたしが、チョコごときで、そして、あの男ごときで、こんなに悩まなければいけないの?
 そうよ、そもそも、このチョコがいけなかったのよ。
 わたしの視界に入ったりするから、買いたい衝動にかられてしまったのよ。
 そして、その誘惑に負けて、こんなものを買っちゃったりなんかするから、こんなにも悩まなければいけないのよ。
 あー、うー、もう、いやー!
 このまま、ここに投げ捨てて帰っちゃおうかしら。


「……何しているの?」
 玄関を開けたら、そこには、今最も見たくない男の顔があった。
 本日、バレンタインデイ。
 老若男女関係なく、うかれ舞い踊って、世界をピンク色に染める日。
 なので、当然の如く、校内のあちらこちらで、チョコのお祭りが開催されていた。
 例にもれず、この男にも義理チョコが贈られていた。大量……大漁に。
 さすがに今年は、誰もこの男にチョコなんて渡さないだろうと思っていたけれど、去年まで九九パーセント本命チョコだったそれが、一〇〇パーセント義理チョコになっただけで、贈られるチョコの量は変わっていなかった。
 むしろ、腹立たしいことに、増えていたかもしれない。
 何しろ、面白がった男子生徒さんたちまでも、この男にチョコを渡していたから。
 「本命チョコよ」やら「わたしを、た・べ・て」やら「楓花ちゃんより、わたしの方がおいしいよ」なんて、めちゃくちゃにふざけたメッセージカードつきで。
 そして、そんなチョコたちを、この男も妙にのりのりで、かたっぱしから受け取っていたのよね。
「あとで、みんなで食おうな」
 とか何とか、贈った相手の気持ちを踏みにじるようなそんな言葉をそえて。
 だけど、チョコを贈ったみなさんは、何故か、そうしようそうしようとやけに盛り上がっていたのですが?
 ――あり得ないわよ。
 一体、どこまでお気楽極楽になれば気がすむの?
 まあ、こんなバレンタインも、この男のまわりでなら、あり得るのかもしれないけれど。
 だって、この男を中心に、普通じゃないから。常識なんて通用しないから。
 思いっきり、今さらだけれどね。
 ――だから、わたし以外からチョコを受けとっても、さっぱり胸は痛まない。……むしろ、馬鹿馬鹿しい。
「え? 決まっているだろう、バレンタイン」
 思いっきりいぶかしげににらみつけてやっているこの男は、そんなことを言いながら、玄関に入ったばかりのわたしに、妙に楽しげに、超特大リボンをぐるぐるまきつけてくる。
 真っ赤でふわふわで、楽にわたしなんて覆えてしまうくらい、多きなリボン。
 そして、リボンのはしとはしを、ちょうどわたしの胸のあたりへもってくると、そこできゅっとリボン結びにしてしまった。
 それから、ほくほく顔でにっこり微笑む。
「だから?」
 それを冷めた目で見ながら、ぽつりつぶやく。
 心なしなんかじゃなく、思いっきり怒気を含ませて。
 しかし、そのようなものに気づくほど、この男は繊細ではない。
 ――むしろ、意識はすでに、あらぬ世界へ飛ばしちゃっている、が正解かもしれない。
「もうっ。にぶいなあ。だから、チョコなんかより、俺はこっちが欲しいから。――ほら、バレンタインプレゼントのできあがり」
 真っ赤なリボンでぐるぐる巻きにしたわたしを、この男はひょいっと抱き上げる。
 当然、とってつけたように、お姫様だっこ。
 きらきらと、少年のように瞳を輝かせている。
 ――だけど、その少年、少年は少年でも、ベッドの下とかに、見られてはまずいものを隠すような少年よ。……頭痛いわ。
 そして、今にもスキップが飛び出しそうなほど軽い足取りで、さっさとリビングへと連れ込んでいく。わたしを。
 そんな男――高瀬の胸の中で、盛大にため息をひとつもらした。
 もちろん、あてつけるために。
 まったくあてつけになどならないとわかっていても、しないよりはまだわたしの気がおさまるはずでしょう?
「……それで、ホワイトデイには、キャンディーやクッキー、マシュマロとかじゃなくて、ブルーのリボンをぐるぐるまきにした高瀬とか?」
 思いっきり脱力感におそわれ、思わずぽつりつぶやくと、高瀬は瞬時に反応していた。
 そして、にっこり笑いわたしを見下ろしてくる。
「おおっ! さすがは楓花、よくわかっているな。当然だろう」
 にやりと微笑み、きっぱりそう言い切る。
 ――嗚呼、やっぱり……。
 聞かなくてもわかっていたけれど。
 本当に、この男の思考は、どうしてこうもあからさまなの? わかりやすいの?
 きっと、百人中百人までが、ぴたっとあてられちゃうわよ。高瀬を知る人ならば。
 高瀬の胸の中で、リボンぐるぐるまきにされたまま、もう一度大きく息をはきだす。
 その時には、もうリビングのソファーにうずめられていちゃったけれど。
 ……本当に、神業のように手がはやい男よねえ。
 などとしみじみとしている場合でもないような気がするけれど。
 ソファーにうずめられたまま、つかれきったような、あきらめきったような目で、じいっと高瀬を見ていると、ふいに結ばれていたリボンがゆっくりほどかれていく。
 ぱらぱらと、ほどかれたリボンが、ソファーの下に波のように広がっていく。
 その様子を、何をするのだろう?と見ていると、……わかった。わかってしまった。わかりたくなどないのに。
 今度は、贈られたプレゼントをあけているのだろう。……いや、そのつもりだろう。
 そして、リボンがほどかれ、あけられたそこには、その中には――。
 嗚呼、この男の思考、こうもすっきりきれいによめちゃうようになっちゃったわたしは、どうかと思う。
 だってほら、「いただきます」とか言いながら、口づけを落としてくるもの。
 結局は、これがしたかったのでしょう。欲しかったのでしょう。
 まったく、どうしようもない男よね。
 本当に、どうしてこうも、まわりくどくしか、キスをねだれないの? このインチキライオンは。
 素直にねだればいいものを。
 まあ、素直にねだったところで、そう簡単にはあげないけれどね。
 わたしの背に腕をまわし、逃れられないようにがっちり抱いてくる高瀬の胸を、ちょっとだけ押し返してみる。
 じいっと、にらむように見つめてながら。
「……じゃあ、チョコはいらないのよね?」
 瞬間、がたがたどたんばたんと、なんとも奇妙な音を鳴らせ、あの高瀬がわたしからはなれた。
 のけぞるように。
 ソファーの下で、格好悪くしりもちをついている。
 しかも、目を見開き、うったえるように、うろたえるように、わたしを見つめている。
 体は小刻みに震えている。
「あ、あるのか……?」
 そして、さぐるようにわたしを見つめながら、恐る恐るそうつぶやいた。
 そんな高瀬に、目をすわらせ、さらりときっぱり言い切る。
「ないわよ」
「やっぱり……」
 同時に、がっくりと高瀬の肩が落ちた。
 今度は、すべての希望に見放されたかのように、哀愁を漂わせはじめる。
 本当に、この男は、どうしてこんなにちょろいのかしら? わたしに関することにおいては。
 まあ、最近は、それが高瀬のような気がするけれど。
 これが、あの極悪インチキペテン師と同一人物かと思うと、なんだかとってもむなしくなってくるけれど。
 高瀬のまわりに群がる、キャピキャピ娘さんたちや健全なのだか不健全なのだかわからない男子生徒さんたちに聞いてみたいわ。
 一体、この男のどこがよくて、そんなに騒いでいるの?と。
 だってほら、哀愁を漂わせたかと思うと、今度はいじいじといじけだしちゃっている。
 ――まったく、仕様がないわね。
 そんな高瀬からすっと視線をそらし、ソファーの下へ移動させる。
 そこには、さっき、リボンと一緒に落とされたわたしの鞄があるから。
 それを、ついっと拾い上げる。
 その中から、ひとつの小さな箱を取り出してくる。
 真っ赤なリボンがふんだんに飾られた、その小さな箱。
 そして、それを、いじいじと、カーペットの上に幾何学模様を描きはじめた高瀬へ、ぽいっと放り投げる。
 すると、さすがはわたし。
 見事、いじいじとカーペットをなぞるちょうどその指先に、それはぽてっと落ちた。
 それを見届け、わたしはすいっと顔をそらし、そこで肩をすくめる。
 ……本当は、いつ渡そうかなとかそんなことを思いながら、鞄にそっとしのばせていたなんて、そんなこと、悔しいから絶対に言ってやらないけれど。
 結局、捨てられなかったとかもね?
 そらしたそこからちらっと見た高瀬は、幸せいっぱいに無邪気に微笑んでいた。
 放り投げた真っ赤なリボンがふんだんのその小さな箱を、大切そうに愛しそうに手に持っている。
 そして、わたしは、そんな高瀬に目を奪われ、そらすことができなくなっていた。愛しいという思いが、胸を侵食していた。気づいた時には。
 ――たまには、あまやかしてやってもいいかもしれない。
 その笑顔を見られるのなら。
 そんなバレンタイン。


チョコわずらい おわり

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update:06/02/14