悠久の風に吹かれて
(一)

 これは、むかしむかしのお話。はるかむかし、悠久の歴史の中、雅の風に包まれたむかしの話。
 しかし、少〜し様子がおかしいようです……。


 ここは、帝のおわします内裏は清涼殿(せいりょうでん)
 ……から少し南東へ下ったところにある、ちょっと身分の高い、さる貴族のお邸。
 その貴族はどのくらい身分が高いかと申しますと、そう……お役職で申しますと、まあ、左の大臣(おとど)といったところでございましょうか。
 そんな貴族のお邸で、騒動が巻き起こるのでございます。
 いえ、どうやら、もうすでに巻き起こっているようでございます。


「大変です! 大臣。姫さまが……香姫(こうひめ)さまが……!!」
 そう叫びながら、香姫さまとやらに仕える女房が、寝殿にいらっしゃる大臣のもとへ、脱兎の如く飛び込んでまいりました。
 ――そう、これが全てのはじまりだったのかもしれません……。
「香姫がどうかしたのか!?」
 大臣が女房にそう尋ねられました。
 すると女房は、真っ青な顔をし、恐る恐る答えます。
「こ、香姫さまが……消えました」
「は〜い〜!?」
 あまりの驚きぶりに、思わずすっとんきょうな声を上げてしまわれました。
 大臣にはあるまじき驚きぶりです。まだまだ修行が足りません。
 しかし、まわりに控えている女房たちは、そんなことよりも、香姫さまが消えた……ということに驚き、大臣にかまう者などおりません。
「香姫が消えたとは……一体どういうことだ!?」
「はい……。今朝、香姫さまのご寝所に、お目覚めのご挨拶にうかがいましたところ……すでにお姿はなく……」
「あのおてんば姫め、またどこかへ雲隠れしたな……」
 大臣は、苦々しそうに口をへの字にゆがめられます。
「そのようにもうかがえますが、今度ばかりはそうとも……」
「どういうことだ?」
「はい。それが……」
 女房はそう言いながら、大臣に香姫さまが着ていたと思われる(きぬ)を手渡しました。
「これがどうした?」
 大臣は怪訝な顔つきで、女房から香姫さまの衣を受け取られます。
「はい……。これが、庭の松の木の枝にひっかかっておりました」
「そのようなことは、よくあることではないか」
 よくあることとは、よく言ったものです。
 こんな奇妙な出来事、よくあっては困りものです。
 何しろ、身分高き貴族の姫ともなれば、そう滅多やたらに、ご自分の邸とはいえ、お庭へ出ることなど許されるものではありません。
 しかも、庭の松の木に衣がひっかかるなど……言語道断です。
 しかし、大臣も女房たちも、その違和感に、不思議に気づいてはおられません。
 いいえ。この場合、大臣たちは慣れてしまいすぎていて、それがあってはならないことだと、もう判断がつかなくなってしまっていたのかもしれません。
 そうなると、この香姫さまというお方は、かなりの破天荒なお姫さま、ということになるのでしょう。
「ですが……御帳台(みちょうだい)にはぬくもりが残っていないことから、香姫さまがお姿をお隠しになられたのは夜中かと……」
 女房がそう言うと、そこにいた者達皆にどよめきが起こりました。
 さすがの香姫さまでも、夜中に一人邸を抜け出す……ということはなさらないでしょう。
 それくらいの常識はお持ちのはずです。
 だからこそ、皆はどよめかずにはいられなかったのです。
「ま、まさか、香姫さまはさらわれて……!?」
 その中の一人が、そう叫びました。
 すると、大臣はものすごい剣幕で、その者へ向かって怒鳴られます。
「馬鹿なことを言うでない! どのようにすれば、この左大臣の邸から、姫を連れ出せるというのだ! 警備は万全のはずだ……!」
「そ、それはごもっともでございますが……。その……もののけの仕業ということも……」
 そう言うやいなや、皆、言葉を失ってしまったようです。


 それから半時ほど後のことでございましょうか。
 件の香姫さまは、このようなところにいらっしゃいました。
 鴨川(かもがわ)にかかる橋の上に。
 欄干に手をかけ、恨めしそうに川をのぞき込んでおられます。
 鴨川と申しますと、その川原は、死体捨て場となっているも同じで……。
 大臣の姫ともあろうお方が、このようなところにいらっしゃるなど、尋常ではございません。
 また、お供の者を、一人も連れておられません。
 ……そして、香姫さまのそのお姿も、普通ではありませんでした。
 まるで、市井の娘にやつしたそのお姿。
 今をときめく左の大臣の姫ともあろうお方が、あまりにも嘆かわしいお姿ではありませんか。
「……まったく、父様ったら。わたしはまだ、結婚なんてしたくないのよ……!」
 どうやら香姫さまは、単純単純、単純すぎる理由で、お邸を抜け出してこられたようです。
 ……となると、香姫さまはやはり、皆の期待通りに、それとも期待を裏切り?、不可抗力ではなく、自らの意志でお邸からお姿を消された……ということになるのでしょうか。
 まさか、ここまで常識から逸脱したお姫さまだとは思いもしませんでした。
 ――もちろん、大臣も、お邸に仕える者も皆、そう思っていたことでありましょう。
 香姫さまのその言葉通り、ニ日ほど前、香姫さまのお輿入れ……ご結婚が決定いたしました。
 そのお相手は、もう本当にありきたりと申しましょうか、次の帝であらせられる東宮でございます。
 香姫さまは、それが嫌で嫌でたまらなかったのです。
「どうして、何人も女をかこっている女たらしのところへ、このわたしが入内しなくちゃならないのよ。……どうせ結婚するなら……身分なんてなくていいから、浮気性じゃない男のところがいいに決まっているじゃない」
 ぶつぶつとつぶやかれ、鴨川の川原に寝転がる……もとい、放置されている死体をにらみつけられます。
 まったく、このお姫さま、やはり普通ではありません。
 普通の姫君ならば、死体などを目にしたその瞬間、卒倒されてしまいそうなものです。
 そして、やれ加持祈祷だ、やれ陰陽師だと、騒ぎ立てそうなものですのに……。
「は〜あ……。どうして女になんて生まれちゃったのだろう……。男だったら……兄さまみたいに男だったら、こんな気持ちにならずにすんだのかな……?」
 その時でした。突然、香姫さまは後ろから声をかけられました。
「このようなところに、女性が一人でくるものではありませんよ。娘さん」
 香姫さまは驚き、ばっと振り返られます。
 するとそこには、やけに身なりのいい公達が立っていました。
 このようなところにいるには、不釣合いな格好をしています。
 どう考えても、身分高い貴族がやって来るような場所ではございません。
「……誰? 検非違使(けびいし)ではないようだけれど?」
 香姫さまはあろうことか、その声をかけてきた公達をにらみつけられました。
 わからないでもありませんが……。普通の人間ならば、誰も好んでこのようなところへやってきたりなどいたしません。
 ――ということは、香姫さまも、普通ではないということになるのでしょうか……?
「はは……。気の強い娘さんだ。ところで、このようなところに長居は無用ですよ。もののけに祟られてしまいますよ」
 そう言ってその公達は、香姫さまを橋から離そうと促します。
「触らないでちょうだい!」
 やはり香姫さま。ただでは動きません。
 ぴしゃりと公達に言い放たれます。
 お忘れのようですが、現在の香姫さまは、どこからどう見てもただの町娘。
 そのような香姫さまが、明らかに身分高そうな殿方に、そのようなお言葉遣い……。
 まずいです。かなりやばいですよ、香姫さま……。
 しかしこの公達、かなりできたお方のようです。
 顔色一つ変えずに、にこやかに微笑みます。
「……失礼。少し礼を欠いてしまったようですね。しかし、本当にここは危険ですよ。もののけや怨霊だけではありません。ここには、盗賊も巣くっているのですから」
 公達は苦笑いをうかべ、「さ、早く」と言わんばかりに、今度は強引に香姫さまの腕を引きます。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 放してよ!!」
 慌てて叫ばれ、腕を握っている公達の手を放そうと、必死にもがかれます。
 しかし、公達の手はびくともせず、さらには香姫さまのそのお言葉を無視し、そのまま都の中へと連れて行ってしまいました。


「さ、ここまでくれば大丈夫でしょう。――せっかくですから、お家までお送りしますよ?」
 朱雀大路(すざくおおじ)まで香姫さまを連れてきて、そこで手を放し、にこっと香姫さまに微笑みかけました。
 しかし、香姫さまはむすっとし、そしてぷいとそっぽを向いてしまわれます。
 相当お怒りのようです。
 無理もございません。今まで何不自由なく暮らし、そして思い通りにならなかったことなど一度もなかった香姫さまなのです。
 それが今、たとえ町娘に姿をやつしているとはいえ、公達如きにいいように扱われているのですから。
「どうしてです? 何故怒るのですか? 本当に、あのようなところは人の近寄るところではありませんよ」
 公達は困り果ててしまいました。
 もっとも、公達はよかれと思い香姫さまを鴨川から離したのですから、その反応は至極当然でしょう。
 しかし、困り果てたのもつかの間、すぐに自己本位に事をすすめていきます。
 まったく、変わり身の早いお方です。
「さあ、お家はどこですか? 洛西、洛南? それとも……洛中でしょうか?」
「どこでもいいじゃない」
 香姫さまは振り返り、あっかんべ〜と公達にされてしまいました。
 そのお姿を見、公達は絶句してしまいました。
 ……まったく、香姫さまときたら……。
 大臣がおてんば姫とおっしゃるのも、わかる気がいたします。
 何しろ、入内が嫌でお邸を抜け出してしまわれるなど、普通ではありえないのですから。
 普通の姫ならば……大臣の姫ともあろうお方なら、東宮に入内と聞いては、大喜びするものです。
 最高の名誉なのですから。先は明るいのですから。
 それほどの家柄とご身分があれば、女御にはなれます。
 女御になったら、贅をつくすこともできますし、宮中でときめくこともできます。
 それなのに何故、貴族の姫が憧れてならないその名誉を、自ら放棄しようというのでしょうか……。
 やはり、おかしな姫君です。
 香姫さまが公達にあっかんべ〜とされた時です。
 どんと、香姫さまに、徒歩(かち)の一人の貴族がぶつかりました。そして、怒鳴り散らします。
「これ、娘! どこに目をつけておる。邪魔だ、退け!!」
 もちろん、それを聞かれ、香姫さまが腹を立てないはずがありません。
 言い返そうとされたその時、突然がばっと口をふさがれ、ぐいっと体を公達の方へ引き寄せられてしまいました。
 恨めしそうに、公達をにらみつけられます。
 すると、公達はしっと合図を送り、そして、香姫さまにぶつかり暴言をはいた貴族を見下すように言い放ちます。
「どこに目をつけている……は、あなたの方でしょう? それに、みっともないですよ。このような往来で、女性にそのような言葉遣いをするなど……」
 そう言われた貴族は、もちろんかっとなり、今度は公達に何かを言おうとしました。
 しかし、公達にぎろりとにらみつけられ、瞬時に動揺し、そそくさとその場を去って行ってしまいました。
 なんとも、口ほどにもない男です。
「駄目ですよ。誰彼かまわず喧嘩を売っては……」
 ため息をもらしながら、公達は香姫さまを解放しました。
 すると香姫さまは、恨めしそうに公達をにらみつけられます。
「だって……悪いのはあちらでしょう? どうして、わたしがあのようなことを……」
「あなたは……どうやら、世間を知らないようですね? まるで、どこか大貴族の姫のようだ……」
 意味深長ににやっと嫌な笑みを浮かべ、公達は香姫さまを試すように見ます。
 香姫さまはもちろん、ぎくりとびくつかれました。
 そのお姿を確認し、公達は楽しそうに、にこにこと微笑みます。
 もしかして、この公達、ただ者ではないのかもしれません……。
 もしかして、この公達、香姫さまの正体を知っている……?
 ――そのようなわけがありませんけれどね。
 たとえ知っていたとしても、まさか左大臣の姫が、このようなことをなさるとは誰も思わないでしょう。
「な……っ。この姿を見て、よくそのようなことが言えてね?」
 香姫さまは、ふんとふんぞり返り、そう言い返されます。
 香姫さまのこの姿とは、まさしく今の町娘のお姿。
 「このようなみすぼらしい格好をした貴族の姫が、一体どこの世にいて?」とおっしゃりたかったのです。
 もちろん、その意図を、公達も簡単にくみとっています。
「……そのようなこと、得意げによく言えますね……」
 あきれ返ってしまい、そしてくすくすと笑います。
 その言葉を聞かれ、香姫さまもはっとなり、悔しそうにかあっと顔を赤らめられました。
 何しろ、今の香姫さまは、町娘に他ならないのですから。
 破天荒とはいえ、香姫さまも貴族の姫君。それなりの誇りはお持ちでございます。
 そのようなみすぼらしいお姿を、どこの世に、得意げに自慢する姫がおりましょうか。


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update:03/06/09