悠久の風に吹かれて
(三)

 ――と、ここで、先ほどの文に書かれていたことをご紹介いたしましょう。
 あの文には、このようなことが書かれていたのです。


 娘の東宮妃入内を何度頼んでも、帝も東宮もお許しにならない。
 しかし、どうしても娘を東宮妃に据えたい。
 では、残された道は……。
 東宮を自分たちの都合の良い親王に変えてしまえばよい。
 そのためには、東宮が邪魔である。すなわち……東宮を暗殺してしまえ。
 それを実行するにはどうすれば良いか……。
 東宮の失脚を企む他の連中を引っ張り込み、実行しよう。
 それに、東宮によい感情を持たないあなたも、参加しないか?


 そのような、東宮暗殺を呼びかけるものでございました。
 この文から察すると、まだこの計画はそう進んではいないようではありますが、悪い芽は早めに摘んでおくべきだと誰しも思うことでしょう。
 ですから、香姫さまも陽楊と名乗る公達も、この計画をぶっ潰す考えに至られた……とはとても言いがたいのですが――
 このお二人にとっては、これはあくまで楽しい遊びにすぎないのです。
 東宮のお命などこのお二人にとっては、どうでもよいこと。
 いかに自分たちが楽しむか……それしか、このお二人の頭にはなかったのでございます。


 陽楊さまは先ほどはああはおっしゃいましたが、実はとても悩んでおられました。
 何しろ、勢いとはいえ、仮にも女性である香姫さまを仲間に、東宮暗殺阻止というとても危険なことをはじめようとされているのですから。
 いくらお二人にとって遊びでも、命に関わる危険なことにかわりはありません。
 そして、女性である香姫さまを、危険なめにあわせるわけにはいかない……。
 そう思うのは、公達としてごく当たり前のことでしょう。いえ、殿方として当然のことでしょう。
 しかし、陽楊さまは勢いにまかせ、その場ののりにまかせ、香姫さまと東宮暗殺阻止を行うと、お約束されてしまったのです。
 一度約束したものを覆すわけにもいかず……いえ、陽楊さまはこの時点ですでに、香姫さまのご性格を見抜いてしまわれ、やっぱり香姫さまはやめるように……そう言うと、その後が怖い。とんでもないことになりそうだ。大暴れされては手がつけられそうもない……。
 そうなると、さらに香姫さまを危険なめにあわせることになる。
 暴走されては、苦労が倍になると、頭の中ではじかれていました。
 そのような、まったくもってその通りである考えを、めぐらされておられたのです。
 ですから、陽楊さまはその二つの狭間で葛藤されておられました。
 暴走覚悟でためしに香姫さまにやめるよう促すか、それとも、このまま続行するか……。
 まあ、どちらにしても、厄介なことにかわりはありませんが。
 しかし、すぐに決着がつくのです。
 何しろ、相手はあの香姫さま。一筋縄ではいきません。
 暴走されるよりはよほどましです。腹をくくり、運命をともにしようと決意なさいました。


「人気がないとは言っても、このような町中で話していては、どこの誰にきかれるともしれない。とにかく、どこか他に人のいないところへ行こう」
 陽楊さまはそうおっしゃると、問答無用で香姫さまの腕を引っ張り、神泉苑から出て、二条大路へと姿を消されました。
 それにしても、香姫さまもかなり変わっておられますが、この陽楊さまも相当かわったお方です。
 女性にこのような気軽な振る舞いをされるとは……。
 そして香姫さま。貴族の……しかも大貴族の姫君である香姫さまが、このように、何のためらいなく殿方にお顔をお見せになるなど……。殿方にご自分の肌を触らせるなど……。
 まあ、だから誰も、この町娘が香姫さまであると、気づきもしないのでしょうけれど?
「行くってどこへ?」
 香姫さまは陽楊さまに引かれながら、不審げに陽楊さまをにらみつけられます。
「わたしの知り合いのところだよ。そこなら安心して話ができる。この近くにあるのだよ」
「じゃあ、その人にもこのことを話すということ? やめてよね。このようなおもしろそうなこと、他の人に教えちゃったら、楽しみが減るじゃない!」
 お待ちください、香姫さま……。何か、頭痛がしてきそうですよ……。
 仮にも東宮、その御身が危ないというその事態を、おもしろそうなことなどと、楽しみなどとおっしゃられますのは。
 それが帝や東宮のお耳に入れば、香姫さま、あなたさまはどうなるかおわかりですか!?
「大丈夫。彼もわたしたちの仲間だよ。楽しみが減るようなことはしない」
 陽楊さまはちらっと香姫さまを見られ、にこりと微笑まれました。
 香姫さまは次の言葉をなくし、むすっと頬をふくらませ、陽楊さまにずるずると引っ張られていかれます。
 陽楊さま、あなたは、実はとてもすごいお方なのかもしれませんね。
 この短時間で香姫さまの思考を読み、そして自由に操られている……。
 しかし、おっしゃられていることは、香姫さま同様、はちゃめちゃなことに変わりはありませんけれど……。

 いくらか歩かれた頃でしょうか。
 大きなお邸の前に、お二人はやってこられました。
 この辺りは、都でも相当身分の高い方々がお邸をかまえる一帯でございます。
 このようなところに知り合いがいらっしゃるとは、やはり陽楊さまは、相当ご身分の高い方だと考えてもよいようでございますね。
「ここ……?」
 香姫さまはそのお邸の門を、ぽか〜んと見上げておられます。
 古びてはいますが、威厳を感じさせる荘厳なつくり。
 一体、どれだけ歩けば、このお邸のまわりを一周することができるだろうかという大きなお邸。
 よほど身分が高くなければ、このような広大な土地を持つお邸に住むことはできないでしょう。
 陽楊さまはそのような香姫さまにはおかまいなしに、すたすたとその門からお邸の中へ入っていかれます。
 門で警備をしている者たちも、いつものこととでも言うように涼しい顔をし、陽楊さまを止めようとはいたしません。
 どうやら、陽楊さまとこのお邸の主は、相当な顔馴染みのようです。
 何しろ、お顔だけで通れてしまうのですから。
 しかしさすがに、陽楊さまに連れられた質素な娘姿の香姫さまを、不審げにじろじろと見ずにはいられません。
 ですが、陽楊さまの連れにそそうをしてはならぬと、ただじっとおもしろくなさそうに、にらみつけるだけです。
 とうていこのお邸には不釣合いな香姫さまのお姿を。

 香姫さまと陽楊さまは、そのお邸の寝殿へ通されました。
 そちらからは、ちょうど季節の花を楽しむことができます。
 今は春ですから……桜でございましょうか。
 やはり、花といえば桜。
 庭の池の釣り殿(つりどの)にかかるようにして、しだれ桜の木が一本でたたずんでいる様は、哀愁さえ感じさせ、風流の極みでございます。
 このお邸の主の美的感覚がうかがい知れるようです。
 相当なたしなみと教養をお持ちの方なのでしょう。
 何しろ、簀子(すのこ)を渡り、寝殿へ通される間、あの香姫さまが、そのにおいたつ桜の木に、魅入られていたような気さえするのですから。
「お待たせいたしました」
 香姫さまと陽楊さまが寝殿へ通されて、小半時ほどが過ぎた頃でしょうか。
 ようやく、(きざはし)に、陽楊さまの訪ね人、このお邸の主人が現れました。
葵瑛(きえい)、お前はまた庭で寝ていたのか? 出仕もせずに」
 階に現れた葵瑛と呼ばれたこのお邸の主を確認すると、すっくと立ち上がり、陽楊さまもまた、階へと進まれます。
 その階では、すでに葵瑛殿が、それ以上お邸の中へ入るのが億劫なのか、だらりともたれかかるように腰かけておられました。
 そして、階まで来られた陽楊さまも、同様に腰かけられます。
 葵瑛殿が階のいちばん下の段に、陽楊さまが上から二番目の段に、腰かけられます。
 それを確認すると、香姫さまも慌ててお二人のもとへ駆け寄られました。
 今の香姫さまは、くどいようですが、町娘の姿をされています。
 ですから、それが幸いしてか、何のためらいもなく殿方にお顔を見せることができ、近づくこともできるのでしょう。
 いつもなら、お父上の左大臣や、お付女房が口うるさくして、とうていこのような大胆なことはできません。
「ねえ、陽楊さま。本当にこの方、信じられるの?」
 香姫さまは、そっと陽楊さまに耳打たれました。
 しかし、このような至近距離。葵瑛殿にも、しっかりと聞こえてしまいます。
「おやおや。これはまた、信用のない」
 葵瑛殿は少し意地悪げに、香姫さまを見上げられます。
 香姫さまは、葵瑛殿のその言葉を聞かれ、絶句されてしまいました。
「こらこら、葵瑛。あまり香子をいじめるのじゃないよ。そして、香子。大丈夫だよ。この葵瑛は、わたしの無二の親友だからね。それに、秘密は絶対に守る主義だよ」
「それはどうでしょう? 秘密にもよりますよ。何しろわたしは、陽楊の幼馴染みですからね。陽楊の幼い頃の、あんなことやこんなことなどは……」
 楽しそうにくすくすと笑いながら、葵瑛殿は意地悪げに、今度は陽楊さまを見上げます。
「まったくお前は、いつもこれだ」
 半分あきれたように、陽楊さまがつぶやかれました。
「ところで、今日は、お前とこのような世間話をしにきたのでもなく、冗談につき合いにきたのでもない」
「ええ、わかっておりますよ」
 瞬時に、陽楊さまと葵瑛殿の表情がかわりました。
 そして、ぴんと空気が張り詰めます。
 それを見て、感じて、香姫さまは、ごくっとつばを飲み込まれました。
 何しろ、今までのお二人のなごやかな雰囲気はどこへやら、急に張り詰めたような空気が漂ったのですから。
「この文を……」
 陽楊さまは、先ほど香姫さまが拾われた文を、葵瑛殿に手渡されました。
 そして、葵瑛殿がその文を受け取り、開き、読みます。
 次の瞬間、葵瑛殿の表情もまた、香姫さまや陽楊さま同様、ゆがみました。
「……まったく。世の中には、本当、馬鹿な輩が多くて困りますね」
 葵瑛殿は大きなため息をもらしました。
 そして、陽楊さまを見上げます。
「わかりました。……協力……すればよいのですよね? 及ばずながら、ご助力いたしますよ」
「それでこそ葵瑛だよ」
 にこりと、陽楊さまは微笑まれます。
 この時のお二人の間には、何人たりとも割って入れない……そのような信頼に満ちた空気が感じられました。
 どうやらこのお二人の間では、香姫さまなどほっぽって、さっさと話に決着がついてしまったようでございます。
「ところで、陽楊。そちらの娘さんは? ずいぶん趣味がかわったではないですか?」
 またしても、葵瑛殿の瞳は、楽しげにからかうように陽楊さまをうつします。
「ああ。香子か」
「香子……殿……?」
 葵瑛殿は、陽楊さまから並行移動させ、香姫さまに視線を移します。
 それに気づかれた香姫さまは、じっと葵瑛殿を観察するように見つめられます。
「さっき、鴨川のほとりで拾ったのだよ」
「鴨川のほとり!?」
 葵瑛殿は、化け物でも見るかのように、香姫さまを凝視します。
 すると香姫さまは、それが何を意味しているのかすぐにおわかりになり、がばっと立ち上がり、葵瑛殿を威圧的に見下ろされます。
「言っておきますけれど、わたし、もののけなどではありませんからね! れっきとした人間です! それに、そのお文を最初に見つけたのだって、このわたしなのですからね!!」
 仮にも、明らかにご自分よりも遥か彼方の身分に位置するであろう葵瑛殿に、何のためらいもなく、むしろけんか腰に、香姫さまはこのように言い放たれました。
 すると、葵瑛殿は目を丸く見開き、珍しそうにしげしげと香姫さまのお顔を見つめます。
「……驚いた。このように威勢のよい娘がいたとは……」
 どこか論点のずれたことをおっしゃる葵瑛殿。
 何だかどっと疲れが出ます。
 しかし、やはり陽楊さまのご友人なだけあり、葵瑛殿もただものではなさそうです。
 このような暴言をはかれてもなお、一向に怒ったような様子はございません。
 それよりも何よりも、この香姫さまの反応を楽しんでいる節すら感じさせます。
 香姫さまはふんとふんぞり返り、じろりと葵瑛殿をにらみつけるよう見下ろされます。
「ところで、あなた誰よ?」
 言葉使いというものをご存知ないのでしょうか?
 いや、それよりも香姫さまは今、町娘の扮装をされているということを、きれいさっぱりお忘れになられてしまっているようです。
 香姫さまにそう尋ねられると、葵瑛殿はとんとんと軽やかに階を上り、香姫さまの横までやって来ました。
 そのお姿を見て、陽楊さまは、半分あきれたようにため息をもらされます。
 どうやら陽楊さまには、この後の展開が、手にとるようにわかってしまうようです。
「わたしは、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)。親王の一人ですよ」
「親王さま!?」
 一瞬にして、香姫さまのお顔がゆがみました。
 無理もございません。何しろ今、葵瑛殿……いいえ、葵瑛さまのお口から出たお言葉は、よりにもよって、親王というお言葉です。
 それが何を意味しているのか……少し勘のよい、いいえ、勘などよくなくても、少しでも世間を知っている者なら誰でもわかります。
 この葵瑛さまもまた、東宮の位につけるお方。
 よって、事と次第によっては、現在謀反を企む輩が、この葵瑛さまを担ぎ上げようとしているかもしれないのです。
 ……まあ、その陰謀に葵瑛さまも加担しているとするならば、最初からしらを切り通すか、またはこの場で香姫さまと陽楊さまの口を封じでもしていることでしょう。
 そのようなことをされないということは、少なくとも、葵瑛さまは加担されていないということでしょう。
 もちろん、それはわかりきったことです。一応、陽楊さまが信頼をおく方なのですから。
 まさか信じられない方に、陽楊さまも、このような重大なことを、わざわざお話になったりはなさらないでしょう。
「……ねえ、大丈夫なのでしょうね。あなたを信じても……?」
 香姫さまは、葵瑛さまの直衣の襟元をぎゅっとつかみ、露骨にそのようなことをおっしゃられました。
 すると、葵瑛さまは楽しそうに、またくすくすと笑われます。
「さあ、どうだろうね〜?」


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:03/06/09