悠久の風に吹かれて
(四)

「それで? どうしてわたしが、このような格好をしなければならないのかしら?」
 葵瑛さまのお邸の寝殿で、目をすわらせる香姫さまがいらっしゃいました。
 この春のうららかな陽気もどこへやら、香姫さまのお心は、どんより曇り空でございます。
 今の香姫さまのお姿を見ては、それも納得のできること。
 ほんの小半時ほど前、葵瑛さまは「じゃあ、早速……」とつぶやかれると、手に持っていらした扇を閉じ、ぱちんと音を鳴らせ、女房をお呼びになりました。
 女房はどこに控えていたのか、葵瑛さまがお呼びになるとすぐに、すすすとしなやかな動きでおそばへやってきました。
 そして、葵瑛さまの指示を仰ぐと、またすすすとどこかへ去っていきました。
 それからしばらくして、先ほどの女房と一緒に数人の女房が現れ、そのまま香姫さまを几帳(きちょう)の陰へと連れ去り、ぎゃあぎゃあわめく香姫さまを押さえつけ、今のようなお姿に変えてしまったのです。
 ……そう、それは全て、何か楽しい……もとい、よからぬことを企んでしまった葵瑛さまのご指示によるものでございました。
 女房装束に着せ替えられた香姫さまが、むすっとしたお顔で几帳の陰から出て、陽楊さまや葵瑛さまがいらっしゃる簀子に姿を現され、先ほどの言葉をおっしゃられたのです。
「よく似合っているじゃないか」
「ええ、とてもお似合いです」
 陽楊さまと葵瑛さまは、からかうように楽しげに笑われます。
 そこでさらに、香姫さまの目がすわっていきます。
 このお二人方、わかっていて、あえてこのようなことをおっしゃっておられるのでしょう。
 まったく、似たもの同士でございます。
「似合って当然じゃない。わたしほどの美少女ならね!」
 ふんと鼻で笑うようにそうおっしゃられ、見下すようにお二人を香姫さまが見られます。
 これは、香姫さまの微かな抵抗でございます。
 せっかく町娘に変装をしていたのに、普段のような装束をさせられては、いつぼろが出るかわかったものじゃありません。
 いくらおてんば姫だの破天荒だのと言われてはいましても、香姫さまもやはり、左大臣の姫君であらせられます。
 そうやすやすとそのお振る舞いや雰囲気までも、町娘のそれにすることは不可能に近いのでございましょう。
 先ほどの香姫さまのお言葉に、陽楊さまも葵瑛さまもあきれるのではなく、「ほう。そう返してきたか」と、まるで香姫さまの反応を見て楽しんでいるようでございます。
「だから、わたしにこのような格好をさせて、何をしようというのかしら!?」
 半分感心し、半分楽しみ、一向に香姫さまの質問に答えようとされない陽楊さまと葵瑛さまに業を煮やした香姫さまが、ずずいと陽楊さまに詰め寄り、にらみつけられます。
「そうだな。うん、今から御所に出仕でもしてもらおうか?」
 にらみつけられた陽楊さまはまったく動じず、そのようなとんでもない発言をされてしまわれました。
 その横で、楽しそうに、葵瑛さまはくすくすと笑いをこらえていらっしゃいます。
 陽楊さまと葵瑛さまはご友人でございます。それもただのご友人関係ではございません。その前に悪≠フつくご友人関係でございます。
 もちろん、陽楊さまにも、葵瑛さまの企みが手にとるようにわかってしまうのです。
 ですから、陽楊さまがこう発言されるまでにも、葵瑛さまの説明はございませんでした。
 にもかかわらず、わかってしまったのです。示し合わせたようなこの発言……。
「なによ! それじゃあまるで、わたしを厄介払いでもするかのようじゃない!」
 香姫さまは、むんずと陽楊さまの直衣の襟元をつかみ、ぎりぎりと力を込めていかれます。
 陽楊さまもさすがにそうされては苦しいのか、ごほっとむせるようなせきを一つされました。
「その逆だよ。君には重要な役を担ってもらうのだよ。内から探って欲しいのだよ。わたしたちでは、とうていそれは無理だからね」
「無理……?」
 ぱっと手を放し、きょとんと首をかしげられます。
 陽楊さまは襟元を正しながら、はあっとため息をもらされました。
 ……どうやら、本当に苦しかったようでございますね。
「ええ、そうですよ。東宮のいらっしゃる東宮御所へは、我々もなかなか近づくことができないのですよ。そこであなたに、女房として上がっていただきたいのです。そして、内から情報を収集していただきたいと……。もちろん、我々も外から探っていくつもりです」
 葵瑛さまが、首をかしげる香姫さまの頭の上からそう説明されます。
 すると、香姫さまは顔を上に向け、葵瑛さまを見られました。
「……そのようなまどろこしいことをしていては、時間がかかりすぎるのではなくて?」
 香姫さまのそのお言葉を聞き、葵瑛さまは一瞬驚いたような表情を見せられ、そして苦笑いを浮かべられました。
「そうかもしれません。たしかに、あなたの言う通りかもしれないですね。ですが、今の我々にできることは、それくらいなのですよ。……東宮妃入内を望む貴族たちを監視することくらいしか……。そして、そこから糸口を見つけるしかね」
「……」
 香姫さまは困ったように葵瑛さまを見られ、そして陽楊さまに視線を移されます。
 すると、陽楊さまも苦笑いをされ、こくんとうなずかれました。
 香姫さまはそれを確認されると、はあっと大きなため息をつかれます。
「……わかったわ。それじゃあ、わたしは宮仕えをしてくればよいのね? ……だけど、できるかしら。わたしに……」
 それは、町娘のふりをしている香姫さまとしてではなく、普段、女房を従えていらっしゃる香姫さまとしての発言でございました。
 香姫さまはもうすっかり、ご自分が町娘のふりをされているということを忘れられてしまっているようです。
 しかし、その発言は逆に、陽楊さまと葵瑛さまに、町娘という印象を色濃くうえつけるものとなりました。
「……まあ、多くは望まないよ。何しろ、貴族の生活とは程遠い生活をしているのだろうからね」
 陽楊さまは、ぽんぽんと、香姫さまの頭を軽くなでられます。
 なでられたその頭にご自分の手をあて、香姫さまは何か言いたそうに、じいっと陽楊さまを見つめられます。


 京は北に位置する内裏。
 そしてその奥に、普段東宮がおわします東宮御所がございます。
 香姫さまは、親王であらせられる葵瑛さまの是非とものすすめで出仕してきた女房として、すぐに東宮御所の女房たちにとけ込んでしまわれました。
 ご本人の心配には及ばず……。
 香姫さまは、普段の女房たちの噂から、帝や東宮に仕える女房たちの間では、傍からみる雅をよそに、常に勢力争いが繰り広げられていると思っていらっしゃいました。
 そこで、案外すんなりと受け入れられてしまったご自分に驚かれていました。
 まずはそこから苦労するだろうなと覚悟をなさっていただけに、それは拍子抜けもいいところでございましたでしょう。
(かおり)さん。今から貝合わせをするのだけれど、あなたもいかが?」
 もう三年も東宮御所に仕えている女房の(しおり)が、香姫さまに貝合わせのお誘いをします。
「ありがとうございます。だけどわたくし、このお庭をもう少し眺めていたいので……」
 庭をはかなげに眺められていた香姫さまは、栞に誘われるとゆっくりと振り返り、しおらしく答えられました。
 すると栞は、嫌な顔をするのではなく、むしろ感心したように、ほう……とため息をもらしました。
「……さすがは、兵部卿宮さまがご推薦されたお方。他の方とはどこか違いますわね……」
「そうですわね。箏の琴も素晴らしいですし、お歌を詠ませても、この東宮御所に仕える女房の中では、恐らく右に出る者はいないでしょう。……そして、この薫物。素晴らしい香りですわ。どのようにすると、あのような香を合わせることができるのでしょう? ――どこか深い……。いつかかいだことのあるような、気品のある香り……」
 栞の横から、ひょっこりと、別の女房の(みやび)が顔を出し、そう言ってうっとりとした目で、御簾(みす)越しに庭を眺める香姫さまを見ました。
 ところがどっこいでございます。
 当の香姫さまは、ただ眠かっただけなのです。
 この春の陽気にあてられ、さらには東宮御所に上がってから七日、これといって何の進展もなく、この宮仕えもそろそろ飽きてきておられたので、眠たくて眠たくて、それで貝合わせなどする気にもなれず、ただぼうっとお庭を眺めておられたかっただけなのです。
 その物憂げな態度が、女房たちに趣を感じさせてしまうのですから、兵部卿宮さまのご推薦≠ニやらも、たいした先入観を与えてくださったものです。たいした威力でございます。
 まあ、ですから、香姫さまでも何の苦労もなく、この東宮御所の女房たちに受け入れられたのでしょうけれど……。
「ところで、兵部卿宮といえば、お聞きになりました?」
 貝合わせをしようと、道具を持ってきた女房の志木(しき)が、すとんと栞の前に座り、自分の座る横に道具を置きました。
 そして、前のめりになり、栞と雅に問いかけます。
 すると、彼女たちは目を輝かせ答えました。
「ええ、もちろんですわ! あの方、今度は下賤な娘に手を出したと噂ですわよ!?」
「まあ! それはまた変わったご趣味で!!」
 どうやら彼女たちの興は、貝合わせから兵部卿宮、すなわち葵瑛さまへと移ってしまったようでございます。
「一週間ほど前かしら? 何やら、鴨川の橋の欄干から飛び降りようとしていた娘を拾ったのですって?」
 先ほどから睡魔と戦いながら、切れ切れに女房たちの会話を聞いておられた香姫さまは、その言葉を耳にされ、ずるりと思わず倒れそうになってしまわれました。
 何しろ、その鴨川の娘。ひょっとしてひょっとしなくても、香姫さま、その方なのですから。
 多少歪曲はされていますが、一週間前、鴨川、欄干という言葉が合う娘など、そうそういないでしょう。
 さすがは、都一噂好きの宮中の女房殿。一週間前であろうが、今をときめく殿方のことなら、手に取るようにわかってしまうようです。
「あっちの姫、こっちの姫とお手をお出しになっていることは、もうあの方だと諦めもしていましたけれど、まさかそのような趣味にはしられるとは……」
「だけど、あの方なら、あり得る話かもしれませんわよ? 何しろあの方、この間、気位だけは高いことで有名な紀伊守が、任地より一時帰って来られて御所に姿を現したその時に、一言で打ちのめし、さらにはお役職まで取り上げてしまわれたそうですわよ?」
「まあ、怖い……!!」
 女房たちは顔を突き合わせ、それぞれ恐ろしい!!といったような表情をわざとらしく作って見せ合っています。
 今も昔も、女が三人よれば、これです。かしましいとはよくいったものです。
 女性というものは、噂話が好きなものなのですね。
 ……まあ、くどいようですが、香姫さまは例外ですけれど。
 そして、彼女たちは、都一噂好きの女房でございます。
「だって、兵部卿宮さま、宮中一の困ったちゃんですものね」
「そうそう、困ったちゃんですわ。帝ですら、あの方の暴走はとめられないとか……?」
 女房たちは自分たちのその発言で、葵瑛さまの困ったちゃんぶりを再確認し、どっと疲れたようにため息をもらしました。
 先ほどから女房たちの会話を盗み聞きしておられた香姫さまも、何かを悟ったように、遠くを見るようにお庭を眺めておられます。
 どうやら、香姫さまにも身にしみるほど、その言葉が真実であるとわかってしまわれるようでございます。


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update:03/06/12