悠久の風に吹かれて
(五)

 その日の夜。
 新月で、その姿はございません。
 闇にまぎれて、香姫さまは東宮御所のお庭で、陽楊さまと葵瑛さまと会う約束をされておられました。
 庭の奥の方の朽ちかけた梨の木の下に、三人のお姿がありました。
 三人が落ち合ってすぐのこと。
 陽楊さまが楽しげに声を出して笑っておられます。
「……困ったちゃん。困ったちゃんね〜! 困ったちゃんとはよく言ったものだ!!」
 陽楊さまのその爆笑ぶりとは大違いに、葵瑛さまはどこふく風、涼しいお顔で夜の空を眺めておられます。
 朔月で、暗い夜空を眺めるその葵瑛さまのお姿は、どこか凛とし、絵になる様でございます。
 まこと、お血筋が良く気品のある殿方とは、そこにいるだけで趣深いものでございます。魅入られてしまいそうです。
 しかし、そのような葵瑛さまも、このお二人、香姫さまと陽楊さまにかかっては、趣もへったくれもございません。
 葵瑛さまにはかまわず、会話を続けられます。
「でしょう? わたしもそれを聞いた時は、思わず吹き出しそうになっちゃったわよ」
 香姫さまは、必死に笑いをこらえておられます。
「それはさておき、香子殿。何かわかりましたか?」
 香姫さまと陽楊さまが楽しげに笑っておられるところへ水をさすように、葵瑛さまが冷静におっしゃいました。
「……ああ、そうだった。香子、どうだい?」
 まだくすくすと時折笑いをまじえながら、陽楊さまも香姫さまを見られます。
「――収穫なし。まったくわからないわ。わたしには、女房たちの噂話しか届いてこないわよ。その噂話の中にも、東宮妃だとか、暗殺だとかそういった話は……。どこの誰と誰がくっついたとか、あの方が今いちばん人気だとか……。どうでもいいことばかり」
 香姫さまは、疲れたように大きなため息をもらされます。
「そうか。やはり、そちらも何もなしか……」
 陽楊さまは、険しいお顔をされます。
 もう笑ってはおられません。表情も真剣なものへと変わっていました。
 この短時間に、陽楊さまは真面目な雰囲気に切り替わられておりました。
「そちらも……ということは、あなたたちも?」
「ああ。まったく。あの文は本当に存在したのかとさえ思えるほどに、きれいさっぱり」
「何故かしら……? あんなにあからさまに同志を募っていれば、すぐにわかりそうなものなのにね……?」
 香姫さまは、考えこまれてしまいました。
 まだ肌寒い春の夜の和風が、冷たく香姫さまの頬をかすめます。
「ねえ、もう東宮御所の生活も飽きちゃった。わたしも、あなたたちと一緒に行動したいわ」
 香姫さまは哀願するように、上目遣いで陽楊さまを見られます。
 陽楊さまは「う……」と小さく声をもらし、一瞬動揺されました。
 香姫さまを東宮御所へ押し込まれたのは、陽楊たちでは探れないような秘密を探って欲しいということをたてまえに、その実、香姫さまの身の安全を守るためだったからです。
 ですから、香姫さまが東宮御所から退出してしまっては、意味がありません。また、次の護衛方法を考えねばならなくなります。
 今の陽楊さまにも葵瑛さまにも、そのような余裕はありません。
 今は一刻も早く、東宮暗殺を企む不逞の輩をつきとめねばならないのですから。
「そのような目で見ても駄目。もうしばらく、あなたには御所で探ってもらうよ」
「ええ〜!!」
 思い切り不服そうに、香姫さまはその場に勢いよくしゃがみ込まれました。
 そして、恨めしそうに陽楊さまのお顔を見上げられます。
「そうすねないすねない。それに、収穫がなかったわけではないでしょう?」
「なかったわけではないー!?」
 思い切り顔をゆがめ、どこがよ!と陽楊さまを疑わしく見つめられます。
「だってほら、葵瑛が困ったちゃんだとわかったじゃないか」
 陽楊さまは提案するようにそうおっしゃり、香姫さまの手を取り、立ち上がらせようとその手を引き上げられます。
 香姫さまはその反動で、ひょいと立ち上がらされてしまわれました。
 しかし、相変わらず恨めしそうで、そしてやる気なく、けだるそうに振る舞われます。
「……まあ、そういう点ではね……」
 おもしろくなさそうにつぶやかれました。
「ところで香子。その香の香りは……?」
 今夜香姫さまと会ってから、香姫さまからふわっと香ってくるとてもよい香り。
 その香りは、先ほどの冷たい風に運ばれ、陽楊さまの鼻をくすぐっておりました。
 そして、その香りが、陽楊さまはずっと気になっておられたようです。
「え? これ? この香は、葵瑛さまからいただいたのよ。東宮御所に上がる前に。――ほら、わたし、一応、一日かけて一通りのことは叩き込まれたじゃない? だけど、香だけはどうもね〜……。そうしたら、この香をくれたのよ。これを使いなさいって」
「え……?」
 陽楊さまは怪訝な顔つきで、葵瑛さまを見つめられます。
 葵瑛さまは相変わらず涼しい顔で、夜空を眺めていらっしゃいました。
 お二人の会話など聞いていないかのように、素知らぬふりをされております。
「――あれ? でも、今気づいたけれど……この香りって……まさか……?」
 香姫さまはそうつぶやかれると、陽楊さまの束帯(そくたい)の袖をむんずとつかみ、ご自分の方へと引き寄せられました。
 そして、その衣に焚き染められた香の香りをかがれます。
 香姫さまの表情が、次第にゆがんでいきます。
「やっぱり……。この香りって、陽楊さまと同じじゃない!!」
 香姫さまはそう叫ばれると、葵瑛さまをきっとにらみつけられました。
 それでも変わらず、葵瑛さまは涼しいお顔で夜空を眺めておられます。
「――やっぱり……。葵瑛のことだから、絶対何かすると思っていたよ……」
 陽楊さまは頭をかかえ、どんと朽ちかけた梨の木にもたれかかられました。
 では、香姫さまからにおいたっていたあの芳しいよい香りは、陽楊さまのそれだった……ということなのでしょうか?
 それに今まで気づかなかった香姫さまは、相当薫物が苦手のようでございますね。
 女房たちが言っていた箏の琴やお歌は、さすがに香姫さまも貴族の姫君でございますから、それなりにはこなされますが、こと薫物に関しては、本当に苦手だったのでございましょう。
 男と女、同じ香りをさせている……ということは、すなわち――
 遊びにしても、冗談にしても、はたまた本気にしても、相当たちが悪いですよ、葵瑛さま……。


 そんなたちの悪い、冗談とも本気ともとれる葵瑛さまの悪ふざけから一夜が明け、それでもなお、薫物の苦手な香姫さまは、昨夜と同じ陽楊さまの香りをさせておられました。
 今さらご自分で香を合わせることもできず、仕方なしにその香を使われている……と言っても過言ではありませんが……。
 ここは東宮御所とはいえ、香姫さまは、まだ一度も東宮のお顔を拝したことはございませんでした。
 また、香姫さまも東宮のお顔に興味はまったくなく、見たいとも思っておられませんでした。
 他の女房たちなら、まず御所に上がると、東宮のお顔を拝そうと東奔西走するもののようですが、香姫さまに関してはそのようなことはございませんでした。
 香姫さまのいちばんは、東宮暗殺の首謀者を探る……それだったのですから。
 ここが、香姫さまの他の普通の姫君と違うところでございます。
 それだから香姫さまは、まだ東宮のお顔もご存知ありませんでした。
 また、女房たちのお話では、東宮は最近ご多忙で、なかなか女房がお世話をする隙もないようでございます。
 ただでさえ暇な御所勤め。さらに女房たちは暇を持て余し、いつにもまして、噂話にはなをさかせてしまうのです。
 香姫さまはそのような女房たちの噂話に飽き飽きして、東宮御所の探検でもしてみようかと思い立たれました。
 この辺りも、香姫さらまらしいところでございます。
 日がな一日、じっとお部屋の奥に座っていらっしゃる、大貴族の姫君らしいことはできないようです。
 庭に面した簀子沿いに、ゆっくりとした足取りで歩き、香姫さまは、散りはじめ、濡れた桜をご覧になられていました。
 昨夜、陽楊さまたちと別れたそのすぐ後から、ぱらぱらと霧のような雨が降り、そしてそれは次第に勢いを増し、本日のお天気は生憎の雨模様でございます。
 雨の中、必死に花を散らさず守り抜こうとしているその桜の様は、香姫さまですら興を覚えずにはいられませんでした。
 紅雨(こうう)に揺れるその桜の様は、素晴らしいものでございます。
 簀子の端には、まだ弱まらない雨が、軽く打ちつけています。
 それを避けるように、女房たちが控える場へと歩みを進めておられます。
 どうやら、東宮御所をひとまわりしてしまわれたようです。
 本日は東宮は清涼殿へと行かれていて、こちら東宮御所の方にはいらっしゃらないので、女房たちはのんびりと会話にはなをさかせていました。
 女房たちが控える部屋の近くまで来られた時、香姫さまは、螺鈿(らでん)文箱(ふばこ)を持ち、普段東宮の御寝所として使われている(ひさし)へと歩いて行く、一人の殿上童(てんじょうわらわ)とすれ違われました。
「あなた……。今、東宮はいらっしゃらないわよ? それに、お文なら、誰か人を通さないと……」
 香姫さまは、そのような女房らしい言葉を、その殿上童にかけられました。
 すると、殿上童は振り返り、にこっと微笑みます。
「ありがとうございます。しかしこれは、東宮にではなく、こちらの女房の方へのお文で……」
 童はそこで言葉をにごしました。
 香姫さまは、ぴんとこられたのか、
「こちらの女房は今、そこの向こう側と、そこの庇の二ヶ所に集まっていてよ?」
そうおっしゃり、そのまま女房たちが控える庇へとお姿を消されていきました。
 その後ろ姿を、童は、熱い眼差しでじいっと見つめていました。
 何かもの言いたげに、強く――


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update:03/06/12