悠久の風に吹かれて
(六)

 くすくすと笑われながら、香姫さまは、女房仲間の栞、雅、志木が控える庇へ入って来られました。
「あら? 香さん。何をそのように笑っていらっしゃるの?」
 栞は楽しそうに笑う香姫さまに気づくと、不思議そうに首をかしげました。
「え? ええ。今そこで、女房あてのお文を持ってきた殿上童とすれ違いましてね……。それがその童、とても奥手なのか、顔を赤らめ、口ごもりながら答えたのですよ。それがかわいらしくて……」
 香姫さまは、本当に愉快そうにころころと笑われます。
「まあ、香さんたら! 意地悪な方ね」
 栞もそう言いながらも、くすくすと笑い出してしまいました。
「その童なら、わたくしも先ほど目にしましたわよ。そこの前の簀子を通って行きましたわよね?」
 志木も話に加わってきます。
「ええ。すぐそこですれ違いましたわ」
 香姫さまはそうおっしゃりながら、栞と雅の間に雅がすっと開けた場所に腰を下ろされました。
 もうすっかり、香姫さまは、東宮御所の女房の仲間入りをしてしまっておられるようです。
 このような、一連の無駄のない動き。
 短期間に、よくここまで溶け込んだものです。
 やはりこれは、香姫さまがもともと大臣の姫君であり、それによる余裕と教養、気品がそうさせているのでしょうか?
 ……いえ。気品……は、少し疑わしいですが。
「それはそうと、聞きまして?」
 いきなり話題を変えるように、雅が香姫さま方三人に声をかけました。
「何を?」
「……東宮の……お妃候補のお話ですわ」
 ぎくっ……。
 香姫さまの表情が一瞬にしてゆがみ、ひくひくとお口の端も笑っておられます。
 今度はよりにもよって、もしかしてご自分のお話……?と――
 それにしても、見事な話の飛びっぷりでございます。
 それは香姫さまであるとばれてはいけないので、香姫さまは何も言わず、ただ女房たちの話を聞くことに決められました。
 ええ、まさかここで、ご自分の話が持ち上がるとは思ってもいなかったでしょうし、ご自分の批評をご自分でされることなど、とうていできません。
 ……ただ、香姫さまご自身もわかっておられますが、香姫さまの噂話はいいことなどまったく期待できません。
 ですから、一体どこまで耐えられるか……それが問題です。
「……東宮のお妃候補……というよりは、むしろ東宮ご自身のお話ですわね」
 雅に続け、栞がそう訂正しました。
 すると雅は、おもしろくなさそうに頬をふくらませます。
「あら? 栞さんはもうご存知だったの?」
「ええ。わたくしだけでなく、志木さんもご存知よね?」
 栞が志木に確認の目配せをします。
 すると、志木は首を縦に振りました。
「おもしろくないですわね。……では、香さんは?」
 「香さんは?」と振られても、香姫さまは困ってしまいます。どう答えればいいのか。
 ……まあしかし、どうやら話は、香姫さまから東宮へ変わりそうなので、答えても差し支えないでしょう。
 そして、これはもしや、東宮暗殺計画につながる手がかりを得られるかもしれない好機です。
 ですから、女房たちにどんどん得意げに語ってもらう方がよいと、その短い間に考えが及ばれたようです。
「いいえ……。残念ながら……」
 香姫さまのそのお返事を聞き、栞と志木は驚いたように目を丸くし、雅は嬉しそうに微笑みます。
「では、香さんのためにお話ししますわ」
 雅は、すすすと、香姫さまにすり寄りました。
「ところで香さんは、一体どの程度、東宮についてご存知?」
 お話ししますわ……と言っておきながら、質問をしてくる雅。
 香姫さまは、言っていることがさっきとは違うじゃないと思われながらも、素直に雅の質問に答えることにされました。
 ここで反論しても、何の得にもならないことを、香姫さまはご存知だったのです。
「東宮について……と申しましても、わたくし、それほど存じてはおりませんのよ? 東宮の御名が、常永(ときなが)親王とおっしゃるくらいで……」
 香姫さまは、困ったように首をかしげられます。
 すると、またしても、雅は嬉しそうに微笑みます。
 どうやら、この宮中では、どの女房もこの話に関しては知らない者がいないのでつまらなかったところ、ほとんどご存知ない香姫さまを発見したようです。
 話したくて話したくて仕方がなかったことを、得意げに語れる相手をみつけて、喜んでいるようです。
「では、香さんはご存知ないのね? 東宮には、お妃さまが一人もいらっしゃらないことを?」
「え……!?」
 香姫さまは雅のその発言に驚かれ、目を真ん丸く見開かれます。
 無理もありません。東宮は御年二十歳になろうかという、ちょうど盛りの年頃。
 ……いいえ、それを除いたとしても、世のやんごとないご身分の殿方は、二十歳にもなれば、妻の一人や二人はめとっていようものでございます。
 それが東宮ともなれば、なおのこと……。
 そのような東宮が、いまだに独身……!?
 しかし、もちろん香姫さまはこのことをご存知でした。
 東宮御所に上がる前に、予備知識として、陽楊さまと葵瑛さまが知る限りの東宮情報を入手されておりました。
 中には、東宮御所に仕える女房たちよりも、もっと深いところまで教え込まれているかもしれません。
「やはり驚かれましたわね!」
 嬉しそうに弾んだ声で、雅がずずいと香姫さまににじり寄ります。
「東宮にも、今までそのようなお話がなかったわけではないのですけれど……何しろ、あのご性格ですからね」
 そして、悟りきったように、ほうと大きなため息をもらしました。
「あのご性格……?」
 香姫さまは、怪訝そうに雅を見つめ返されます。
 顔は怪訝そうに作られていますが、その実、香姫さまはその言葉をきき、かなり東宮に興味をもたれてしまったようでございます。
 いまだに独身で、さらには女房にあのご性格……と言わせてしまう、その東宮とは……?
 今まで、東宮妃入内とその言葉を聞かれた時から、陽楊さまと葵瑛さまに説明されてもなお、東宮なんて顔も見たくないわ!と思っておられたのですが、今は東宮のお顔を拝したくなってきてしまっておられるようです。
 一体……どのような方なのだろう?と――
 香姫さまは、こういうお方でございます。
 ご自分が楽しめそうと思ったら、あとはもうおかまいなしに突き進む、そういうお方なのでございます。
 まあ、これは、陽楊さまと葵瑛さまにも言えるような気がいたしますけれど……。
「ええ。本当に困ったお方ですのよ? 最近はましになったとはいえ、以前は毎日のように内裏を抜け出し、京の町へ赴かれていましたのよ。しかも、供の一人もつけずに、お一人で!!」
「……!?」
 さすがの香姫さまもその言葉を聞いては、驚かずにはいられなかったようでございます。
 これは、陽楊さまにも葵瑛さまにも教えられていなかったことでございますから。
 「あいつら……。手を抜いたわね」と、香姫さまは微かな怒りを覚えられました。
「だけど、それといまだに独身なのと、どのように関係が……?」
 それがまだわかりませんでした。
 すると今度は、雅の横から、自分も話したくて話したくて仕方がなかったのか、志木がひょいと身を乗り出してきました。
「関係大ありですのよ!」
「まあ、志木さん。わたくしの楽しみを奪わないでちょうだい!」
 もちろん、雅が反撃に出ます。
 しかし、さっくり切られてしまいます。
「わたくしにも、楽しみの半分をわけてちょうだい。東宮について知っているのは、あなただけではないのよ?」
 反撃を食らってしまった雅は、おもしろくなさそうにぷうと頬をふくらませ、ぷいとそっぽを向いてしまいました。
 そのような雅にはおかまいなしに、今度は志木が香姫さまに講釈をはじめます。
「そのように型破りなお方ですから、入内の決まりそうな姫君から、そのことを聞きつけたという理由でふられてしまいますのよ。……それでもなお、入内したいと申し出てきた姫君は……東宮御自ら、手ひどくふってしまわれるのですって」
「手ひどく……?」
「ええ。それがまた、ひどいお言葉ですのよ。とても東宮のお言葉とは思えませんわ。何しろ、そのふり方が……」

 興味ない。

「たったその一言ですのよ? ――本当、ひどいですわよね!? それじゃあ、ふられた姫君もいたたまれませんわ」
 香姫さまにそう話しているうちに、志木は何やらむかむかしてきてしまったのか、憤りはじめています。
「だけどわたくし、その後のことも聞きましてよ?」
 今度は、栞が口を出してきました。
「その後のこと……?」
 志木とまだすねている雅、そして香姫さまが首をかしげられます。
「ええ。興味ないとはたしかにおっしゃるそうですが、それであっさり身を引いたり、逆にその誇りによって東宮をふったりする姫は、そのままにしておくそうですが、なかには、泣いたり、仕舞いには出家するだの自害するだの言い出してしまう困った姫君もおられるそうなのです。そのような姫君たちには、その言葉の後に、『わたしは決めているのです。この権力争いの激しい後宮に入るのですから、入内してくる姫君はそれなりの覚悟と、そして努力をしいられるでしょう。――わたしは、姫の後ろ盾に期待するつもりも、必要ともしていません。そのようなことを繰り返していては、内裏が……しいてはこの国が乱れてしまいます。ですからわたしは、たった一人でよいのです。たった一人の姫君だけを妃として迎え入れましょう。そして、その姫だけを生涯愛し抜きましょう。自らの人生を犠牲にして入内してくる姫君に対しての、わたしのせめてもの誠意です』とつけ加えるそうですわ」
「……生涯、たった一人の姫君だけを……?」
 香姫さまは、思いふけるかのように、ぽつりとこぼされました。
 東宮のおっしゃられたというそのお言葉が、とても気になられて仕方がないようです。
 そのお言葉は、まさしく香姫さまが殿方に求めるそれだったのですから。
 香姫さまだけを愛してくれる殿方……。
 ナンバーワンではなく、オンリーワン=B
 香姫さまは、そのような位置に憧れ、そして望まれているのです。
 ですから、そのような殿方であれば、身分など、財力など、権力などどうでもよいと、いつかおそばに仕える女房にこぼされたことがございます。
 ――香姫さまが、東宮妃入内を嫌がり、家出をされた裏には、そのような思いが込められていたようでございます。
 香姫さまってば、その噂に似合わず、なかなかの乙女ちっくな方だったようでございますね?
「……案外、思っていたよりも、良い方かもしれませんわね……?」
 そうぽつりとつぶやかれました。
 すると、栞も雅も志木も、自分の耳を疑うかのように、珍しいものでも見るかのように、香姫さまを凝視します。
「どこが良い方なものですか! たしかに、今のは美談にも聞こえるかもしれませんが、とにかくあの東宮は破天荒です! そして、破綻しています!!」
 三人は声をそろえ、きっぱりとそう言い放ちました。


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update:03/06/12