悠久の風に吹かれて
(九)

 夕月夜。
 そろそろ、夕暮れ時でも、まだ昼間の暑さが残る頃となってきております。
 しかもそれは、湿気を多分に含んだ、蒸し暑い暑さでございます。
 そのような中、朧月が淋しげに、光を地上に注いでおります。
 その光が注がれた先には、釣り殿にけだるそうに座す、一人の風流を解した様相のまだ若い男がいました。
 池に浮かぶ朧月を趣深げに眺めながら、何やら思いふけっているようでございます。
「宮様……。只今戻りました」
 疲れをあらわにして、やつれた気さえある殿上童は、そう言って、静かに宮様と呼ぶ男の前に姿を現しました。
 男は、殿上童に視線を移そうともいたしません。
 まだ池の朧月を眺めたままです。
 その殿上童はなんと、先ほど香子さまと陽楊さまに捕まった、あの殿上童でございました。
梅若(うめわか)ですか……。――そして? その他に、報告しなければならないことがあるでしょう?」
 じろりと意地悪げに、その男は梅若と呼んだ殿上童を見つめます。
 すると、梅若はたじろぎました。
「……は、はい。それが……変な男と女の二人組につかまってしまいまして……。だけど、ご安心ください。決して、あの文箱は、宮様の指示で置いたものとは言っておりませんので……!!」
 梅若は慌てて釈明をしますが、宮様と呼ぶその男に、鼻で笑われてしまいました。
「当たり前でしょう? もしそのようなことまでしゃべっていたら……今頃は、君の首はつながっていなかっただろうね?」
 そして、くすくすと嫌な笑いをします。
 陰気を帯びた、不気味な笑みでした。
 梅若の顔が、さあっと青ざめていきます。
 生きた心地がしなかったことでしょう。
「過ぎてしまったことは、もうよいとしましょう。梅若。これからの君の仕事ぶり、期待していますよ?」
 そう言って男は立ち上がり、ぽんと軽く梅若の頭をなでました。
 すると梅若は、ほうっと安堵のため息をもらし、胸をなで下ろし、元気に答えます。
「はい! 兵部卿宮さま!!」
 男は陰湿な微笑をたたえ、梅若を見つめ、そしてまた池に浮かぶ朧月へ視線を移しました。


 香姫さまは、あの呪詛騒動と殿上童騒動のために、葵瑛さまのお邸に下がってきておられました。
 どうやら、もう東宮御所にとどまる理由もなく、むしろ東宮御所にいては香姫さまの身の安全も保障できないということになり、このような判断が下されたようでございます。
 香姫さまの短い御所勤めも、早々に終わりを迎えてしまったようでございます。
「あ。方違えをするのを忘れた!」
 香姫さまと陽楊さまの前に、まだ寝起き姿のままで姿を現すなり、葵瑛さまはわざとらしくそう叫ばれました。
 そのような葵瑛さまを疑わしそうに、香姫さまと陽楊さまがじと〜りと見つめておられます。
「忘れたのではなく、もとからするつもりがなかったのでしょう?」
 むっつりとしたお顔で、香姫さまが疑わしそうにおっしゃいました。
「そうではなくて……。どうせ出仕が面倒になったのだろう? お前は本当に、きまぐれでしか出仕しないのだから……」
 陽楊さまは、どっと疲れたように大きなため息をもらされます。
「いいから、とにかく参内しなさい」
 ぐいぐいと、香姫さまが葵瑛さまの背を押されます。
 すると葵瑛さまは、するりと香子さまの手からすり抜け、香姫さまの正面にまわってこられました。
「香子は、それほどにわたしをのけ者にしたいのかい?」
 にやにやとした嫌な笑いを、香姫さまへ向けられます。
「はいはい。もう何でもいいから、とにかく葵瑛さまは、ご自分のお仕事をしてくださいな。一応それでも、兵部卿なのでしょう!」
 香姫さまは、完全にあきれ返ってしまっておられます。
 そのような香姫さまを見て、葵瑛さまはさらに楽しそうにおっしゃいます。
「じゃあ、行き触れにでもあったことにして、今日の参内はなしということで」
「葵瑛さま!!」
 額に青筋を立てながら、香姫さまが声を荒げられました。
 すると、葵瑛さまはくすくすと笑うことをやめ、今までのふざけた表情ではなく、真面目な表情をして、香姫さまを諭すようにおっしゃいます。
「今は、出仕だの何だの言っている場合ではないでしょう? 昨日あのようなことがあったのです。わたしには、呪詛の犯人をつきとめることの方が大切なのですよ」
 それでもなお、香姫さまは疑わしそうに葵瑛さまをにらみつけておられます。
 葵瑛さまの普段の行いから、この発言が信じるに値するものだとは、とうてい思えません。
 香姫さまがあくまで葵瑛さまを疑う姿勢を崩されないので、葵瑛さまもとうとう白旗をあげてしまわれました。
 両手をやる気なげにだらしなく上げ、ため息をもらされます。
「はいはい。――やれやれ。まったく……香子にかかると、静かに休養もとっていられない……」
「当たり前じゃない! そのようなことをしている場合ではないでしょう!」
 今度は、香姫さまはなんと、姫君にはあるまじき行動をとられていました。
 どんと、右足で、葵瑛さまの背をけりつけておられたのです。
 ……香姫さま……。それはさすがにやりすぎというもの……。
 しかし、けられた葵瑛さまは、相変わらず楽しそうに香姫さまを見ておられました。
 待ってください……。葵瑛さま。
 今、今まさに、あなたは、香姫さまにけられたのですよ!?
 それでもなお笑っていられるその神経……。
 もう、あなたにはついていけません。
 どうやら葵瑛さまは、香姫さまにこのような扱いをされてもなお、香姫さまで遊ぶことの方を選んでしまわれているようです。
 おもしろければ何でもいい。そのような思いが顕著に現れています。
 そして香姫さま、あなたには怖いものというものはないのでしょうか?
 そのようなお二人のやりとりを、少しはなれて傍観しておられた陽楊さまは、完全に呆れ顔でございます。
「とにかく、お前は参内してこい。……すぐに帰ってきてもいいから」
 陽楊さまのそのお言葉に、ようやく葵瑛さまもその気になられたのか、女房を呼び、出仕の準備をさせます。
 ……とはいえ、もう時刻はお昼前。太陽も中天にさしかかろうとしている頃です。
 そのような頃に参内しても……内裏には入れないのでは……?
 ――ということは、この際、おいておきましょう。
 そしてしばらくし、準備の整った葵瑛さまが、再び香姫さまと陽楊さまの前に姿を現されました。
「それでは、行って参りますよ。……嫌ですが、嫌ですが……」
 ぶつぶつとそのようなことを口にされながら、葵瑛さまはすごすごと牛車に乗り込まれます。
 そのご様子を、簀子から、香姫さまと陽楊さまがぼんやりと見ておられました。
 葵瑛さまが牛車に乗り込もうとした時、一人の水干姿の童が飛び出してきて、葵瑛さまに耳打ちをしました。
 すると、葵瑛さまはにやりと微笑まれます。
 その表情は、今まで香姫さまも陽楊さまも見たことがない、どこか陰気を帯びたものでございました。
 これまでにも、葵瑛さまのにやりとした笑みはしばしば見ることがありましたが、これほどまでに陰湿な笑みは、さすがの陽楊さまも見られたことがなく、少し動揺されているようです。
 耳打ちをした童の見送る中、葵瑛さまの乗った牛車は、ぎしぎしと音を立て、門をくぐっていきました。
 それを確認すると、ほうっとため息をもらし、童は香姫さまと陽楊さまのいる方へと振り向きました。
「あ……っ!」
 その瞬間、香姫さまは思わず声をもらしておられました。
 遠めではありますが、しっかりとわかります。
 その振り返った童はなんと、昨日香姫さまと陽楊さまが羅城門で詰問した、あの殿上童だったのでございます。
 香姫さまのお声に気づかれ、もう興も失せ、奥へと引っ込んでおられた陽楊さまは、何事かと香姫さまの横までやって来て、香姫さまの視線の先を確認されました。
 するとそこには、女房たちと楽しそうに談笑しながら、中へと姿を消していく童の姿がありました。
 香姫さまと陽楊さまは言葉を失い、そして顔色も失い、互いに訴えるように見つめ合われます。


 裏切られた。
 陽楊さまはあの時、そう思われたことでしょう。
 何しろ、いちばん信頼を寄せていた葵瑛さまと、あの呪詛の文箱を東宮の御寝所においた殿上童が、知り合いだったのですから。
 しかも、かなり親しげでございます。
 そして、それだけは絶対にあり得ないと思っていた、東宮を廃し、次の東宮に立つ親王は、葵瑛さま……?
 そのような疑念すらわいてきます。
 ですが、何故でしょう? あれほどまでに陽楊さまの信頼を得て、そして協力的だったあの葵瑛さまが……。
 葵瑛さまは、ご自分が楽しいことなら何でもする……というそのようなお方ですから、まさか、東宮暗殺阻止よりも、東宮暗殺の方がおもしろいとでも思われたのでしょうか?
 しかし、それにしては、葵瑛さまにしてはあさはかです。
 いくら楽しいこととはいえ、ご自分が不利になるようなことは、決してなさらないお方……。
 一体、葵瑛さまに何があったのでしょう……?
「な、何かの間違いよね? だって、あの葵瑛さまが……」
 動揺を隠せないご様子で、香姫さまが陽楊さまに同意を求められます。
 しかし、陽楊さまはその口をかたく閉ざし、開こうとされません。
 それほどまでに、陽楊さまには衝撃的でならなかったのでしょう。
 いいえ。陽楊さまは、まだ信じておられます。
 たったあれだけのことで疑うとは……と、ご自分を叱咤しておられます。
 ですが、頭ではそう思っていても、心ではついていけません。
 ご自分の中に生まれた矛盾と葛藤されながら、陽楊さまは、必死にご自分を取り戻そうとしておられました。葵瑛さまを信じ続けようとしておられました。
 そして、何かを決意したかのように、簀子に降り注ぐ陽の光を見つめられます。
 きらきらと光り、その光は、今の陽楊さまにとっては、憎らしいものとなってしまっています。
「……たとえ、葵瑛を敵にまわすことになっても、東宮暗殺は絶対に阻止しなければならない」
 そのような断固とした強い眼差しで、光を見つめておられます。
「陽……楊さま……?」
 香姫さまは、陽楊さまのその強い眼差しを目の当たりにされ、さらに動揺してしまわれました。
 この短い間ですが、香姫さまにもわかっておられたのです。
 陽楊さまが葵瑛さまに寄せる、その信頼のあつさ……。
 それは、言葉で言いあらわせるような、簡単なものではないということを。
 陽楊さまのお立場は、お役職は、ご身分は、まったく香姫さまにもわかりません。
 しかし、葵瑛さま同様、やんごとないご身分の方……だとは、多少なりとは気づいてきておられます。
 そのようなご身分におられる方が、これほどの信頼を寄せる方。
 そのような方を敵にまわしてまでも、成し遂げなければならない理由などないでしょう。
 別に、東宮暗殺阻止など、陽楊さまが、葵瑛さまが、香姫さまがする必要などどこにもないのですから……。
 それをはじめたのは、ただおもしろそうだから。そのような不純な動機にすぎなかったはずなのですから……。
「大切な人を守るためにも、東宮には東宮のままでいてもらわねば困る」
 陽楊さまは陽の光からふいに視線をはずし、苦しそうにつぶやかれました。
「大切……な人……?」
 香姫さまは、陽楊さまのそのお言葉を悲しげに確認されます。
 すると陽楊さまは、香子さまを切なそうに見つめ、言い聞かせるようにささやかれました。
「……東宮の……思い人だよ……」
「思い人……?」
 香姫さまはそうつぶやかれ、その場に立ちつくしてしまわれました。
 頭は真っ白になっておられました。
 思考が停止したような衝撃を受けてしまわれました。
 東宮の思い人を、陽楊さまは思っている……ということなのでしょうか?
 そのようなかなわぬ思いのために、陽楊さまは、恋敵である東宮のお命を守ると……?
 大切な人を守るため、その大切な人を守ることのできる人を守る……。
 なんと哀れで切ないのでしょう。
 そして、陽楊さまの東宮暗殺阻止の決意の裏には、そのような事情が……。
 ところで、陽楊さまが思いを寄せるその東宮の思い人とは、一体……?
 香姫さま?
 いくら東宮妃入内が決定している香姫さまといえ、まさかそのようなことが……。
 もし香姫さまが東宮の思い人であるなら、同様に陽楊さまの思い人でもあります。
 その香姫さまが目の前にいるのに、陽楊さまが気づかないはずがありませんから……。
 東宮もまた、思い人を守るために、意にそわぬ結婚をしようとしているのでしょうか?
 では、そのような思いの隠れ蓑にされた香姫さまは一体……?
 生涯一人の女性を愛しぬくとおっしゃられた東宮を見直しつつあった香姫さまの中に、微かな東宮への怒りと憎しみが生まれはじめていることに、香姫さま自らも、まだ気づいてはおられませんでした。
 陽楊さまを苦しめ、そして香姫さまを侮辱した……そのような東宮――
 陽楊さまは、その問いには答えず、悲しげに香姫さまを見つめておられます。
 その陽楊さまのお姿を見て、香姫さまはさらに切なくなり、胸が締めつけられる思いに襲われます。
 そして、それを誤魔化すかのように、ずっと聞きたかったことを、思わず口にしてしまわれます。
「ねえ……陽楊さま。あなたは一体、何者……?」
 陽楊さまはやはり何も答えず、陰気を帯びた潤んだ瞳で、香姫さまを意味ありげに見つめられました。
 香姫さまは、それ以上は何もおっしゃることができませんでした。
 お二人は陽の光を浴び、ただじっと見つめ合われたままでございます。


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update:03/06/19