悠久の風に吹かれて
(十)

 陽楊さまと東宮の思い人は、もともと恋人同士だったのかもしれない。
 そのような考えが、香姫さまの脳裏をかすめました。

 だけど、東宮妃入内が決まり、二人は引きはなされた。
 ……いいえ。東宮妃はわたしと決まっているのだから、恐らく……東宮の思い人と知り、陽楊さまは諦めさせられてしまったのだわ。
 東宮の思い人に手を出しては、その思い人も、陽楊さまもお命はない。
 ……陽楊さまはそれでもよかったのだと思う。だけど、思い人の命は救いたかった。
 そうなるとやはり、陽楊さまが身を引くしか……。
 だけど、そうはいっても、思いは強く、東宮を恨まずにはいられなかったと思うわ。殺してやりたいと思ったかもしれない。
 しかし、それでもやはり、思い人のことを思うと、東宮には生きて、そして思い人を守ってもらわなければならない。思い人の幸せのためにも……。
 そして、思い人を守ることは、陽楊さまではなく、恐らく東宮にしかできない……そう思ったのかもしれない。
 そのため、陽楊さまは意にそわぬこととはいえ、思い人のために、東宮暗殺を阻止しようとしているのではないかしら?
 いい加減な人……と思っていたけれど、実はそれほどでもないのかもしれない。
 むしろ、誰よりも誠実で、誰よりも一途で、誰よりも熱い人なのかもしれない……。
 ――やっぱり……そのようなことを平気でしてしまえる東宮は嫌い。
 そして、もし本当に、葵瑛さまが裏切ったのだとしたら、許せない。
 陽楊さまを苦しめるものすべて、許さない。


 香姫さまは、一人お庭に出て、池のほとりでたたずみながら、そう思いめぐらせておられました。
 その結果、香姫さまの中で、陽楊さまの評価が変わりました。進化しつつあります。
 そしてようやく、ご自分の中に生まれた、陽楊さまを苦しめるものすべてへの憎しみに、気づきはじめておられました。


 糺の森(ただすのもり)
 ここには、連理の賢木(れんりのさかき)と呼ばれる、もともとは二本の木が途中から一本に融合してしまった、それはそれは不思議で、不気味とすら感じてしまう大木があります。
 糺の森は、古くて広い森。
 その森のどこかに、はえている不思議な木。
 その木は枯れると、同時にまた森のどこかに生まれるという、世の不思議を一身に背負ったような木でございます。
 悠然とたたずむその賢木の前に、香姫さまと陽楊さまがいらっしゃいました。
 ここも、神泉苑同様、あまり人が近寄りません。
 ……いいえ。ここにはあやかしの類が住むともいわれ、あまり人は近づきたがらないのです。
 ですから、ここは香姫さまと陽楊さまが密会するには、うってつけの場所でございました。
「……おどろおどろしい木ね……」
 香姫さまは賢木を見上げながら、ぽつりとつぶやいておられました。
 香姫さまでなくても、誰しも、この木を一目見れば、そのような感想を覚えることでしょう。
 それほどまでに、人の心にやきついてしまう不思議な木なのでございましょう。
「……ねえ、陽楊さま。聞いてもいいかしら?」
 賢木を見上げたまま、香姫さまがおっしゃいました。
 同じように賢木を見上げておられた陽楊さまは、香姫さまがそうおっしゃると、少し驚いたように、まだ賢木を見上げる香姫さまを見られます。
「……何を……?」
「――あの時の続き……。東宮の思い人……」
 香姫さまは、視線を、賢木から陽楊さまへゆっくりとずらされます。
 そして、悲しげに見つめられました。
 その香姫さまのお姿をご覧になり、陽楊さまは苦笑いを浮かべられました。
 どうやら……気づかれてしまったのでしょうか? 香姫さまの、秘める思いに……。
 ですが、その思いはまだ、確かな形を持ってはいません。
 何しろ、当の本人である香姫さまにすら、まだそれが確かなものなのかどうかわかりかねていらっしゃるのですから。
 ただ……動き出した……ということだけは、香姫さまもなんとなくは気づいておられるようです。
「どのような方なの? 東宮がお気に召す姫君だなんて、興味あるじゃない?」
 先ほどとはうってかわって、香姫さまはおどけてそのようなことをおっしゃいました。
 どうやら、これは興味からくるもので、香姫さまは決して、そのようなお気持ちでおっしゃられたのではないと、陽楊さまに印象づけられたかったようでございます。
 それを察してか、陽楊さまも、香姫さま同様少しおどけたように、明るく振る舞われます。
「あはは! さすがは香子だね。言いたいことを言う。……いいよ。教えてあげよう」
 しかし、そう言い終えた陽楊さまの表情には、どこか陰がありました。
 やはり、叶わぬ恋のお相手のお話になると、平静ではいられないのでございましょう。
 しかし、香姫さまには、もうおっしゃられてしまっているのです。
 陽楊さまは、東宮の思い人を大切にされていると。
 その思いは直接的ではないにしろ、今もなお続いている思いでございましょう。
 そしてそれに、香姫さまも協力させているのです。
 望む望まずにしろ――
 香姫さまは、やはり聞くべきではなかったか……?と、少し後悔されているご様子です。
 しかし、聞かずにはいられなかったのです。確かめたかったのです。
 陽楊さまが香姫さまに、思い人のことを話されたその真意を。
 そして、今もやはり……?
 また、香姫さまがたてられたあの仮説、あれを打ち消す事実が欲しかったのです。
 香姫さまには、一縷の望みもないのか……と――
 陽楊さまは、そっと賢木に触れられました。
 賢木には、一体、どれだけ生きればこれだけつくのか、苔が幹から葉の生い茂る枝まで、ところどころ表皮を残してついております。
「……半年ほど前のことだよ。わたしは、さる名のある貴族の邸で催された管弦の宴に、こっそり参加したのだよ。少し……家の方に事情があって……。――わかるよね? あなたにも。貴族社会には、隠された確執があるとこは……。それでね、どうしても忍んで行かねばならなくてね……」
 陰鬱とした眼差しで、香姫さまを見つめられます。
 香姫さまは、「どうしてそのようなことまでして、宴に出たかったの?」とはお聞きになりませんでした。
 香姫さまにもわかるのでございます。貴族社会の確執とやらが……。
 そして、そうまでして、宴に出たかった理由が……。
 恐らく陽楊さまは、思い人に一目会うために……。
「そこで、あの方を見つけたのだよ。御簾越しに宴を楽しまれているあの姫を……」
「え!? ちょっと待って。その姫に会うために忍んで行ったのではなくて、忍んで行って見つけたの!?」
 香姫さまは顔をゆがめ、合点がいかないと首をかしげられます。
 すると陽楊さまは、何かに気づかれたのか、ああ!というようなお顔をされ、くすくすと笑い出されました。
「そうだよ。どうやら香子は、何か勘違いをしていたようだね。……その……ね、わたしの立場上、その貴族の邸へ表立って行くことは許されないのだよ。その……政治的にね? だから、忍んでだよ。その貴族には、内々にちゃんと招待されていたよ?」
 陽楊さまのそのお言葉を聞き、香姫さまは一気に頭のてっぺんから足の先まで、真っ赤に染め上げてしまわれました。
「あなたがいけないのでしょう! そのようなまわりくどい言い方をするから! まったく、なってないわね!!」
 そして、そのようなむちゃくちゃな理由で、まくしたてられます。
 あくまでも、ご自分の否は認めない。もしくは、開き直り逆切れする……。それが香姫さまなのでございます。
 恐らくそれをご存知で、陽楊さまもわざとあのような言い方をされたのでしょう。
 香姫さまをからかって遊ばれているのです。
 まったく、陽楊さまも怖いもの知らずでございます。
 香姫さまを本気で怒らせたら、それはもう……。
「まあまあ。悪かったよ。それで? 続きはどうする?」
 試すように、からかうように、にやっと陽楊さまが微笑まれました。
 すると香姫さまは、きっと陽楊さまをにらみつけられます。
「もちろん聞くわよ! もったいぶらないで、さっさと言ってちょうだい!」
「くすくす……。ああ、わかったよ。それじゃあ、続きを……」
 まだ半分笑いながらそれだけをおっしゃると、すぐさま陽楊さまの顔はまた先ほどのような、どこかはかなげで悲しげなものに戻りました。
 だけど、愛しいもののことを語る、そのような目をしておられました。
 それをみとめると、香姫さまの胸が、ずきんと音を立てます。
「御簾越しにあの姫を垣間見、そして一目ぼれしてしまったのだよ。瞬殺だったね」
 くすっと、困ったような笑みを見せられました。
 それがさらに、香姫さまの心に悲鳴を上げさせます。
 そろそろ香姫さまも、気づきはじめている頃でしょう。その悲鳴の理由(わけ)に。
 しかし、意地っ張り、負けん気の強い香姫さまは、まだそれを認めたくはないのです。
「それで? それからどうしたのよ? 東宮の思い人とわかるまでに、いろいろあったのでしょう?」
「いいや。何もないよ」
 あっさりきっぱり、陽楊さまがそうおっしゃられました。
「はあ!? だって、あなたがそれほどまでして守りたい姫君なのでしょう? それ相応の……」
「あるわけないじゃないか。相手は、やんごとないご身分の方なのだから」
「でも……」
 香姫さまはそこまで食い下がると、そこでやめられました。
「そっか……。うん、わかった。もう聞かない」
 むんとふてぶてしい態度をとられる香姫さまを、陽楊さまはご覧になり、くすっと困ったように小さく苦笑いを浮かべられます。
 もちろん、香姫さまはそれには気づいておられません。
 ただ、重厚な雰囲気を帯びたその森にさわさわとそよぐ、もう梅雨に近い湿った風の音だけが、香姫さまの耳に、目に入っていたのです。
 その時でした。
 香姫さまと陽楊さまが話すそこから、いくらかはなれたあたりでしょうか。
 落ちた枯れ枝を踏んだような、ぽきっという乾いた音がしました。
 この森は静寂に包まれていますので、そのようなかすかな音でも大きく聞こえてしまいます。
「誰……!?」
 香姫さまはその音に気づき、ばっと音のした方を振り返えられました。
 同時に、陽楊さまも振り返っておられます。
 もちろんそれに答える声はなく、十分に陽光が差し込んでいない森の地面に、生命力豊かに生える雑草を踏み、走り去る音だけが聞こえてきました。
「今の話……もしかして、聞かれていた?」
 香姫さまは苦虫を噛み潰したような、そのような表情を浮かべられます。
 しかし陽楊さまは、ご自分の秘める恋のお話を聞かれたかもしれないというのに、どこか落ち着いて、そして何かを考えこんでいるようでございます。
「……陽楊さま……?」
 そのような陽楊さまに気づかれ、香姫さまは怪訝そうに見つめられました。


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update:03/06/23