悠久の風に吹かれて
(十一)

「これは……」
 香姫さまは、足元の踏みつけたような雑草の上に、無造作に落とされた匂い袋を広い上げられました。
 そこは、先ほど、誰かが立ち聞きをしていたあの場所です。
「匂い袋のようだね?」
 陽楊さまは香姫さまの持つ匂い袋をのぞき込まれ、ぽつりとおっしゃられました。
「それは見ればわかるわよ。ねえ、これってもしかして……?」
「ああ、先ほどの人物が落としていったのかもしれないね。普段あまりここは人が来ない。そして、この匂い袋も最近落とされたものだろうね。まったく痛んでも、汚れてもいない」
「うん……」
 何を思われたのか、香姫さまはそう返事をされると、すっとご自分の鼻に匂い袋を持ってきて、その香りをかがれます。
「どうしたのだい? 香子」
「あ? うん。あのね、この香り、どこかでかいだことがあると思って……」
「かいだことがある? ――どれ?」
 陽楊さまも香姫さまの鼻にある匂い袋にご自分のお顔を近づけ、香りをかがれます。
 いきなり陽楊さまのお顔が接近してきたので、香姫さまは驚き、とっさに少し後退してしまっておられました。
「……香子?」
 その香姫さまの行動を不思議に思われ、陽楊さまが見つめられます。
「な、何でもない!」
 香姫さまはそうおっしゃると、陽楊さまに匂い袋をぐいっと押しつけられ、そしてぷいっとそっぽを向いてしまわれました。
 陽楊さまは、また不思議そうに首をかしげられます。
「あ……!!」
 香姫さまの後ろから、そのような陽楊さまの声が上がりました。
「どうしたの!?」
 それまでのことをあっさり忘れてしまったのか、香姫さまは陽楊さまにばっと振り返られます。
 そして、陽楊さまの額から、一筋の汗が流れ落ちるのを確認されました。
「陽……楊……さま?」
 怪訝そうに、陽楊さまのお顔を凝視されます。
「あ、ああ。この香り……。思い出したよ。この香りは……葵瑛と同じ香りだ!」
「え……!?」
 一瞬にして、香姫さまのお顔から色が失われました。


 葵瑛さまの香り?
 では、先ほど、お二人の会話を盗み聞きしていた者は、葵瑛さま?
 しかし、それでは何故、葵瑛さまはあの時、逃げなければならなかったのでしょう?
 葵瑛さまには、逃げる必要はなかったはずなのですから。
 それに、葵瑛さまのご性格からして、そのようなおもしろそうな、陽楊さまをからかえるかっこうのねたを提供されながら、少しも遊ばずにその場から去る……などということは、とうていありえないでしょう。

「葵瑛さまの香りって……それ本当なの!?」
 香姫さまは、陽楊さまの直衣の袖をぎゅっとつかまれました。
 その手は、微かに震えているような気がいたします。
 陽楊さまは、直衣の袖を握る香姫さまの手にそっとご自分の手を重ね、優しく微笑まれます。
 それが、香姫さまには、痛々しく思えてなりませんでした。
 どうしてもわかってしまいます。笑顔をつくっていても悟ってしまいます。今、陽楊さまが胸に抱える、その苦しみを。辛さを。
 信じていた人に裏切られ……いいえ、信じられなくなりつつある。
 そのお心が、胸が締めつけられそうなほど伝わってくるのです。
「……確認しましょう。ここで話していても、らちがあかないわ」
「香子?」
「もうここまできたら、あたって砕けろよ! 葵瑛さまが何ともなければそれでいい。だけどもし、何かあれば……」
 勢いよく叫びはじめたのはよいのですが、おっしゃっているうちに次第に自信がなくなったのか、不安になったのか、最後まで言い切ることができませんでした。
「……ああ。そうだね。だらだらと時間をすごしている暇はなかったね。……東宮のお命がかかっているのだから」
 陽楊さまはきっぱりとした口調で、香姫さまを見つめてそうおっしゃいました。
 もうそこには、今までのような迷いはございませんでした。
 どうやら、陽楊さまは決意されたようでございます。
 しかし、香姫さまのお心は、まだどこかきゅっと痛みを感じておりました。
「香子は、また東宮御所へ上がっていてくれないかな? 葵瑛にはわたしが確認してくるよ」
「え? だけど、それじゃあ一人で……」
 香姫さまの表情がゆがみます。
「心配はいらないよ。わたし一人で大丈夫だから」
「……」
 香姫さまは、陽楊さまを見つめられます。何もおっしゃらず、じっと……。
 そして、ふうっと大きなため息をつき、あきらめたようにおっしゃいました。
「わかったわ。……それじゃあ、わたしは東宮御所で待っている」
「ありがとう……」
 陽楊さまは、それまで直衣の袖をつかんでおられた香姫さまの手をすっとはなし、ぎゅっと両手で握り締められました。
 熱く、強い眼差しで香姫さまを見つめられながら。
 香姫さまを、再び東宮御所へ上げる理由は簡単でございます。
 これから、もしかすると東宮暗殺を企てたかもしれない人物に接触しに行くのですから、そのような危険な場所へ、香姫さまをお連れすることはできません。
 そして、たとえお連れしたとして、恐らく……陽楊さまには、香姫さまをお守りする余裕などないでしょう。
 それは、陽楊さまにそのお力がないのではなく、そのお心に余裕がないからです。
 それを香姫さまはわかっておられました。
 だからあえて、今回は身を引かれたのです。
 陽楊さまと葵瑛さまの今までの関係がどれほど親密なものだったか、香姫さまにもわかってしまっておられるから……。
 この場合、陽楊さまと葵瑛さまの間に、何人たりとも割って入ることは許されないでしょう。
 もし、葵瑛さまが首謀者だとすれば、それを諭すのも断罪するのも、陽楊さま以外あり得ないのです。
 湿気の香りの混じった、不気味なその糺の森の生ぬるい風が、香姫さまと陽楊さまの頬をかすめます。
 それはまるで、何かよからぬことの前兆のような、そのような不安をお二人に運びました。


 陽楊さまは、葵瑛さまに確認される……。
 そう決意され、香姫さまが再び東宮御所へ上がられてから、二日が過ぎました。
 外はもう梅雨に入ったのか、うっとうしい雨が、糸のように弱々しく降り続いております。
 その雨は、もちろんここ、東宮御所にも降っております。
 そのような折、東宮御所に激震がはしりました。

「また、東宮の御寝所に呪詛されたですって!?」
 香姫さまは、簀子で雨をぼうっと眺めながら陽楊さまからの報告を待っておられました。
 しかし、突然そのような言葉が耳に飛び込んできて、ばっと立ち上がられます。
「栞さん!?」
 栞らしくなく取り乱して叫んでおりましたので、香姫さまは驚き、栞に駆け寄られます。
「か、香さん。ごめんなさい。わたくしとしたことが……」
「いいえ。それよりも、また……とは?」
 香姫さまは、じっと栞を見つめられます。
 すると栞は、蒼白な顔をして、香姫さまに言いました。
「え、ええ。またですのよ。今度は……呪詛……というよりは、脅迫かしら?」
「脅迫?」
「ええ……。その……」
 栞はそこまで言うと、もごもごと口ごもってしまいました。
「栞さん!」
「え……あ……。ごめんなさい。そのね……。石にまきつけられたお文が、御寝所に投げ込まれていたのよ。幸い、今回も東宮はいらっしゃらなかったからよかったものの……」
 やはり、どこか本題に触れたがらない栞。
 そのような栞に業を煮やし、多少いらだちながら、香姫さまは栞の両腕をぎゅっと握り締められます。
「それで……!? そのお文には何と!?」
 栞は香姫さまの迫力におされ、たじたじです。
「え? ええ……。それで……お文には……『左大臣の姫の入内を取りやめろ。さもないと、東宮の御身に災いが降りかかるだろう』と――」
 香姫さまの表情が、一瞬にして変わりました。
 その表情は、まるで般若のようでございます。
「もう、完全にあったまきたーっ!!」
 そう叫ばれると、ばっと簀子へ飛び出し、どたばたと御寝所とは反対の方向へと走って行かれます。
 先ほどの香姫さまの表情に驚き、栞は腰を抜かし、その場に座り込んでいました。
 それにしても、この場合、御寝所へ行かれるとばかり思っておりましたのに、何故香姫さまはまったく反対方向へ……?
 それは簡単です。香姫さまには犯人の目星が、腹立たしいことについておられたのです。
 恐らく、今回の犯人もまた――


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:03/06/23