悠久の風に吹かれて
(十二)

「やっぱり、またあなただったのね!!」
 東宮御所のお庭の中で、香姫さまはそう叫んでおられました。
「何だよ! また言いがかりか!?」
 香姫さまに腕をつかまれ、だけど振り解けず、もがく殿上童が叫びます。
 その殿上童は、東宮の御寝所に螺鈿の文箱が置かれる少し前に香姫さまとすれ違った、羅城門まで追いかけて行った、あの童でした。
「言いがかりなものですか! 今度ばかりはもう許さないわよ!!」
「うるさい!! ぼくは何もしていないよ! ぼくはただ頼まれて、お文をここの女房に……」
 童はそこまで言いかけて、言葉を止めました。
 どうやら、この騒ぎを聞きつけ、女房たちや警備の者たちが、わらわらと集まってきたことに気づいたようです。
 そして、舌打ちをしました。
「観念なさい」
「……観念? 一体、何のことだい?」
 追い詰められているにもかかわらず、相変わらずその不遜な態度は変わりません。
 この童、その心の臓は、相当強くできているようです。
「ふ〜ん。ああ、そう。じゃあ、いいのね?」
 にやりと、不敵な笑みを香姫さまが浮かべられます。
「何が!?」
 殿上童も負けじと、香姫さまをきっとにらみ返します。
「何がって……。――そうねえ、幸い、ここに御所中の人間が集まってきちゃっているようだし?」
 さらに嫌な笑みを童に向けられます。
 それで童も悟ったのでしょうか、顔色がさあっと青く変化します。
「くす……。それじゃあ、みなさんにお聞きするわ。この中に、この童からお文を受けとった方はいらして?」
 香姫さまは、そこに集まった者たちを見まわされます。
 しばらく待っておられましたが、誰一人として名乗り出る者はおりませんでした。
 ただ呆然と、香姫さまと殿上童のやりとりをみているだけです。
「おかしいわね〜。いないじゃない。あなたからお文を受けとったという者は」
 にやにやと笑いながら、わざと嫌味な言い方で、殿上童に話しかけられます。
 まだ、ぎゅっと童の腕をつかんだままで。
「……くそっ。そうだよ。ぼくがやったよ! 頼まれてね!!」
 開き直ったかのようにそう叫ぶと、ふんとそっぽを向いてしまいました。
 香姫さまはそれをご覧になり、やった!という表情ではなく、険しい表情になり、そして問いかけられます。
「……誰に頼まれて?」
「……」
 童はじとりと恨めしそうに香姫さまを見つめ、何も言おうとはしません。
「誰に?」
「……」
 まだだんまりのままです。
「誰に!?」
「……」
 香姫さまのお声が、次第に荒げていきます。
「誰に頼まれたかと聞いているのよ!!」
 仕舞いには、そう叫んでおられました。
 そして、童の腕を握る手に、力がさらにこもります。
 すると、殿上童はとうとう観念したのか、また舌打ちをし、はき捨てるように言いました。
「……さる、親王さまに」
 その言葉を聞いた瞬間、香姫さまの中では、その人物が確定されてしまいました。
 香姫さまが思い浮かべられる親王さまは、悔しいことに、ただ一人しか存在しなかったのでございます。


 わたし、気づいてしまったの。
 気づきたくなどなかったけれど、気づいてしまったの。
 だから、もう、この気持ちを、不安をとめることは、わたしにはできない。

 この東宮暗殺計画が無事解決すれば……わたしはもう、陽楊さまと会うことはない――

 陽楊さまがどこのどなたで、何をなさっていて、家柄は地位は……そのようなつまらないことはどうでもいいの。
 わたしはただ、あの方をお慕いしてしまって、あの方がよいというだけ。

 あの方のことをもっと聞きたい、あの方のことをもっと知りたい、あの方のことをもっと理解(わかり)たい――
 そのような願望だけがどんどんふくらんでいき、わたしの心を支配する。
 この願望は、次から次へと湧いてくる。

 東宮では嫌なの。わたしは、陽楊さまでなくては、陽楊さまでなければ、嫌――

 だけど、わかっているわ。わたしには、それは許されないということを。
 このわがままは、もうすぐ終わりにしなければならないということも。
 わたしはきっと、これがすめば、自らお邸へ帰るわ。
 そのような気がする……。
 わたしにはわかっているから。これはもう、どうにもならないということを。
 恐らく、思い人のいらっしゃる東宮とは、一生、相思相愛などと、そのような夢みたいなことにはなれないだろうけれど、それは仕方がないこと。
 わたしを侮辱した相手でも、わたしがこれからお仕えしなければならない方は、次の帝。尊いお方……。
 そして、わたしの心も、決して東宮へ傾くことはないでしょう。

 わたしは、微かな望みを持っていたの。
 もしかしたら、頼めば、陽楊さまはわたしを救ってくださるかもしれないと。
 精一杯お願いすれば、陽楊さまなら、あるいは……。
 そう思っていたの。
 陽楊さまなら、わたしを東宮妃入内という政略結婚から救ってくださるかもしれない。
 だけど、それは叶わぬこととなったと悟ったわ。
 だって、陽楊さまには、思う人がいらっしゃるから。
 その思う人のために、陽楊さまはどれだけ苦しみ、どれだけ思いをはせていらっしゃるか、この短期間で、行動をともにしてわかりかけてきた……わかったの。
 陽楊さまが、どれほどその方のことを思われているか……。
 ――わたしには、望むことすら許されない。
 そう悟った時、わたしは陽楊さまにすがることができなくなった。
 あれほど強く思う人がいらっしゃる方に、どのようにすがろうとも、誰も幸せにはなれない……。

 あの方は、今もこんなに遠い――


 その夜になっても、まだ雨は降り続いております。
 雨雲のおかげで月は隠され、東宮御所は頼りなげな燈台(とうだい)の灯りだけで、かすかにその場をたもっております。
 先ほどの殿上童は、腕を縄で縛られ、そして東宮御所のいちばん大きな柱に結びつけられておりました。
 それを取りかこむようにして、香姫さま方がいらっしゃいます。
 どうやら、東宮がお戻りになるのを待っているようです。
 東宮のご判断を仰ぐために……。
「それにしても、わたくし、うっとりでしたわ」
 女房の一人が、そのようなことを言いました。
 すると、それにあわせ、別の女房もため息まじりに言葉をもらします。
「ええ。香さんのあのりりしいお姿。この童を捕まえているところを見た瞬間、思わずときめいてしまいましたわ」
 ちょっとお待ちください、女房さま方。あなた方は、どこか論点がずれているのでは!?
 しかし、そのような反応をするのは、何も彼女たちだけではありませんでした。
「わたくしも驚きましたわ。まさか香さんに、このような特技があったなんて」
 雅も彼女たちに合わせそう言うと、すすいと香姫さまにすり寄ります。
「み、雅さん?」
 すり寄られた香姫さまは、どう反応すればよいのかわからず、動揺しているご様子です。
「あの時は、もう必死で……。今思えば、あの時のわたくし、はしたなかったですわね。わたくしったら……お恥ずかしいですわ」
 香姫さまは、そのようなしおらしい、心にもない台詞をおっしゃられます。
 どうやら香姫さまは、必死に取り繕おうとされているようでございます。
「あの大立ち回りを見せられては、世の殿方なんて目じゃありませんわよ! それに、箏の琴も、お歌も、薫物も、素晴らしい腕前。このような才色兼備の姫君がいらっしゃると知れば、世の殿方は放ってはおきませんわよ!」
 志木までもが雅にあわせ、そのように香姫さまを追い詰めるような言葉を投げかけます。
「志木さんまで! みなさんで、わたくしをからかうのはやめてくださいな」
 おどおどとしてみせられる香姫さま。
 そのお言葉とは、態度とはまったく正反対の香姫さまであるにもかかわらず。
 そして、湿気を多く含んだ夜風が、燈台の火を揺らしました。
 その時、ぽつりと栞が言葉をもらしました。
「あら……? この香り……」
 すると栞に合わせ、雅もつぶやきます。
「ええ……。あり得ないことと思って、今まで無意識のうちに気づかないようにしていたけれど……。もしかしてこの香りは、東宮の香りと同じ……?」
 雅がそう言った瞬間、女房たちの間にざわめきがはしり、じっと香姫さまを見つめます。
「え……?」
 香姫さまは何のことだかわからず、どぎまぎと女房たちを見つめ返されました。
 すると、女房たちはその発言を確認するかのように、じりじりと香姫さまににじり寄ってきます。
「香さん……。あなた、もしかして……」
「え……? ちょ、ちょっと、みなさん!?」
 香姫さまが女房たちから逃げるように、少しずつ手ではうように後退しはじめられた頃でした。
「あ〜あ。とうとうばれてしまいましたね」
 そうおっしゃりながら、葵瑛さまが御簾を押しのけ姿を現されました。
 その後ろから、半分呆れ顔の陽楊さまも姿を現されます。
「陽楊さま!? 葵瑛さま!?」
 香姫さまはそう叫ばれると同時に、ずるりと手がすべり、こけそうになられました。
 それをあわやというところで食い止め、体勢を立て直されます。
 香姫さまがようやく体勢を立て直された頃、今度はこのような言葉が女房たちの口から叫び出ました。
「東宮!! 兵部卿宮!!」
 へ? 東宮……!?
 香姫さまは訳がわからず、目を白黒させ、目の前の殿方お二人と、女房たちを交互に見つめられます。
「東宮……って、誰が?」
 そして、そのようなすっとんきょうな言葉をもらすと、女房たちは一斉に香姫さまに叫びました。
「今、あなたの目の前にいらっしゃる方に決まっているじゃない!」
 香姫さまと女房の目の前で、陽楊さまは気まずそうに香姫さまを見て苦笑いを浮かべ、葵瑛さまはやはり、楽しそうに微笑んでおられました。


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update:03/06/23