悠久の風に吹かれて
(十三)

 目の前にいらっしゃる方といえば、陽楊さまと葵瑛さま。
 そして、葵瑛さまは、兵部卿宮ということは明らかなので……。
 そうすると、残るは陽楊さましか……。
 それでは、陽楊さまが東宮とおっしゃるの?
 今まで精一杯、そのお命を守ろうとしてきた東宮が、陽楊さま……?

 香姫さまは、まだ事態が飲み込めず、まるで狐につままれたかのようなお気持ちで、お心は(くう)をさまよっておられました。

 香姫さまの思考は停止しております。
 いいえ、香姫さまは今まさに、ご自分の耳に飛び込んできた言葉を確認するかのように、頭の中で反芻させておられました。
 その言葉は、香姫さまにはとうてい信じることのできない、信じてはならないと、ご自分に言い聞かせる言葉でございます。
 くわらんくわらんと頭の中味を転がす香姫さまの横に、葵瑛さまが楽しげに、軽い足取りですっと歩みよられます。
 その後に、無表情の陽楊さまが、葵瑛さまとは正反対の足取りで続かれます。
「ところで君たち、香殿をどう思うかな?」
 まるで空気がよめていないのか、はたまたこれが葵瑛さまなのか、今度のこととはまったく関係のない質問を、そこに控えている女房たちに投げかけられました。
「ど、どうと申されましても……」
 栞が律儀にも、葵瑛さまのおかしな質問に答えようとしています。
「香殿を、どう思っているのかということだよ。君たちは、香殿の働きぶりをみて、どう思ったのかな? 使えなかったかい?」
「そんな、滅相もございませんわ! 使えないどころか、香さんは、それはもう、その辺りの姫君などくらべものにならないほどの、気品と教養をお持ちの方ですわ!」
 戸惑う栞を押しのけ、志木が乱入してきました。
「ええ。わたくしも同感です。香さんは素晴らしい女性ですわ! 教養だけでなく、勇気もお持ちの!」
 雅も志木に加勢します。
 栞だけが、何か思うところがあるのか、疑わしそうな視線を、それとはわからぬように葵瑛さまへ向けておりました。
「ほう……。君たちは、それほどまでに香殿のことを?」
 葵瑛さまは興味深そうに、まじまじと女房たちの話に耳を傾けておられます。
 その横で陽楊さまは、「あちゃあ〜……。またはじまった」といったご様子で、葵瑛さまと女房の会話を傍観しておられます。
 ただ……今話題の人となっておられる香姫さまのご様子だけが心配なのか、時折ちらちらとご様子をうかがいながらではございますが……。
 ところが当の香姫さまは、それどころではなく、思いふけっておられます。
「もちろんですわ!」
 女房たちは、先ほどの香姫さまの大立ち回りを思い浮かべながら、うっとりと答えます。
「ほほう。では、これでもそう言っていられるかな? 今、ここにいるこの香殿こそが、君たちが噂する、あの左大臣の姫、香姫であると言えば?」
 あっちゃあ〜……。葵瑛さま、とうとうばらされてしまったのですね? 
 あなたって方は、本当、人を困らせて楽しむのがお好きなのですから……。
 もちろん、そのような思いもよらぬ、あり得ない告白を受け、女房たちは目を点にしております。
 ただ、ばらされてしまった当の香姫さまだけが、違う反応をされました。
「どうしてあなたが、そのことを知っているのよ!?」
 ぐいと葵瑛さまの束帯の胸元をつかみ上げ、ぎろりとにらみつけられます。
「それはね〜、秘密です」
 その明らかに馬鹿にした葵瑛さまの態度に、香姫さまはいらだちを募らせていかれます。
 しかし、葵瑛さまはあっさりとそれをかわされ、香姫さまの手を振りほどいてしまわれました。
「それでどうなのかな? 君たちは、それでも香殿が好きかい?」
 そう言われた女房たちは答えに困り、互いに見つめ合っています。
 重い、気まずい空気がそこに流れました。
 何しろ女房たちは、今まで散々、香姫さまその方を前に、言いたい放題、悪口の数々を言ってきたのですから……。
「ええ。それでも好きですわ。わたくしは、香さんだから好きなのですわ」
 答えようとしない女房たちの中から、そのような言葉がもれてきました。
 葵瑛さまはまた興味深そうに、その発言をした女房を目で探されます。
 その発言をした女房は、栞でした。
 栞は目を閉じ、そして決意したように再びあけました。
「どうやらわたくしたち、今まで噂に踊らされていたようですわ。こうして香姫さまに会って、はじめてどのような方かわかった気がします。この方なら……入内されても、わたくし、うまくやっていける自信がありますわ」
 そう言って栞は、にこりと香姫さまに微笑みを向けます。
 それに気づかれた香姫さまも、困ったように微笑まれます。
 今まで(かおり)≠ニ名乗り、彼女たちを騙してきたにもかかわらず、それでも栞は、香姫さまを受け入れる……というのです。
 この短期間に、香姫さまと女房たちの間には、そのような絆が生まれていたようでございます。
 その場に流れる空気は、再びその緊張を解きほぐしていきます。
 そして、他の女房たちも、互いに見つめあい、こくんとうなずきあいました。
 それを確認されると、葵瑛さまはくすっと笑われます。
「噂とは、実に愉快なものだね」
 葵瑛さまのそのお言葉が、再びその場の空気を汚したことは、言うまでもございません。
 葵瑛さまは、いつも何か一言が余分なのでございます。


「誰か。その童の縄を解きなさい」
 葵瑛さまがそうおっしゃると、そこに控えていた者たちは互いに目配せをし、本当にこの童を解き放ってもよいのかと確認し合いました。
 先ほどの葵瑛さまの発言から少し後、いきなりまた、葵瑛さまはそのようなことを言ってしまわれたのです。
 まったく……この方の行動もそうですが、発言も予想がつきません。
「よいから放しなさい。これは命令ですよ」
 葵瑛さまが再び念を押すようにおっしゃると、女房の一人が、あまり気がすすまないといった様子で、殿上童の縄を解きました。
 それは、もっともなことでございます。
 東宮へ呪詛をしかけたとして、先ほど、香姫さまがせっかく捕まえたのですから。
 取り調べれば、この童が本当に呪詛をしかけたのか、しいては童の後ろにいるであろう本当の犯人が、黒幕がわかるかもしれないのですから。
 そのような重要人物を、簡単に解き放てるわけがございません。
 殿上童は、縛られていた腕をわざとらしく痛そうにさすりながら、不機嫌に立ち上がり、葵瑛さまのもとへやってきて、その前でうやうやしくひざまずきました。
「梅若。お前は先に邸へ戻っていなさい」
 葵瑛さまは梅若に視線を移すことなく、冷たく言い放ちました。
 すると梅若は、衝撃を受けたような表情をし、すごすごと立ち上がり、そのまま姿を消して行きました。
 その光景をそこにいた女房たちも、香姫さまも、物言いたげにじいと見つめておられました。
 そして、完全に梅若の姿が見えなくなると、香姫さまはゆっくりと葵瑛さまへ視線を向けられます。
 その葵瑛さまを見る目には、憎しみと疑惑の光が満ちているようでございました。
 先ほどの梅若の態度、葵瑛さまのお言葉で、香姫さまは確信してしまわれたようでございます。

 やはり……葵瑛さまは、陽楊さまを裏切っていた――

 香姫さまは訴えるように、葵瑛さまの横に並ぶ陽楊さまをじいと見つめられました。
 叫びたくて、怒鳴りたくて仕方がない言葉を、必死にぐっとこらえておられます。

 陽楊さま、あなたは、今までわたしをたばかっていたの!?

 陽楊さまが東宮であるということを知らず、ともに行動してきた香姫さまがそう思われるのは、無理からぬことでございます。
 しかし今、そのようなことを言い争ったところで、どうなることでもございません。
 だから香姫さまは、必死にこらえておられるのです。
 香姫さまは哀れなことに、姫君にしては聡く、そして高い誇りをお持ちでございますから。
 その視線に気づき、陽楊さまは困ったように苦笑いを浮かべられました。
「今、香子がわたしに聞きたいことはわかっているよ。香子は……何故、わたしが今までそれを黙っていたか。そして、葵瑛は本当に……ということだね?」
「……」
 香姫さまは、無言でこくんとうなずかれます。
「わかった。まずは、葵瑛のことから話そう。……葵瑛は、首謀者だったよ」
「……!?」
 香姫さまの表情が瞬時に変わりました。
 驚きと、落胆、絶望に満ちたような表情でございます。
 今の今まで、信じていたかったのでしょう。
 やはり何といおうとも、香姫さまも心のどこかでは、ずっと葵瑛さまを信じたかったのでございます。
 そのような香姫さまを見て、陽楊さまはまた困ったように微笑まれます。
 そして、葵瑛さまを押しのけ、すっと香姫さまを抱き寄せられました。
「だけど、安心して。呪詛だとか……暗殺だとか、それらは、全て狂言だったのだよ」
 また香姫さまの表情が変わりました。
 今度は、驚きと呆れ、そして疑惑の表情です。
「……待って……。頭が痛くなってきたわ。順を追って説明してくれないかしら?」
 先ほど、声も出ないほど驚いておられた香姫さまですが、もうすでにいつもの調子を取り戻しつつあるようでございます。
 どっと疲れが出たように頭を抱え、陽楊さまの胸をとんと押し、陽楊さまからはなれられます。
 陽楊さまはあらぬ方向へ視線をやり、誤魔化すようにおっしゃいます。
「う〜ん……。それは、話せば長くなるのだけれど……」
「いいから、おっしゃい!!」
 香姫さまの怒声が飛びました。


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:03/06/23