悠久の風に吹かれて
(十五)

「……わたしは、まんまと葵瑛にしてやられたということか!?」
 東宮は大きくため息をもらされると、ばたんと仰向けに床に倒れこまれました。
 そして、両手で顔を覆われます。
 かなりお疲れのご様子です。
 もちろん、お体ではなく、精神的に……でございますけれどね?
「ええ、そうですよ。陽楊はおもしろいくらいに騙されてくれました。切れ者とうたわれる東宮にしては、あまりにもころっとね」
 くすくすと笑いながら、葵瑛さまは東宮のお顔の近くへすり寄り、そのお顔をのぞき込まれます。
「わたしはてっきり、お前は純粋に、わたしのためにつくしてくれているのだと思っていたよ。そのようなことはあり得ないのに……」
 両手をお顔からはなし、きっと葵瑛さまをにらみつけられます。
 東宮のそのお言葉通り、東宮は葵瑛さまのご性格を承知されていたのですが、葵瑛さまのその行動の逸脱ぶりが、はるかに東宮の思っていたものよりも勝っていた……ということなのでしょう。
「だからわたしは、東宮が好きなのですよ。そのような東宮だから好きなのです。そこがあなたのよいところなのですよ」
 優しげに、葵瑛さまは微笑まれます。
「……ねえ。じゃあ、もしかして、糺の森にいたのは……」
 香姫さまが、嫌〜な予感がする……といったように、確認するように、葵瑛さまをじとりと見つめられます。
「ええ、もちろん。何かおもしろいことが起こるのではないかと思いまして、観察に。そこで匂い袋を落としてきたのもわざとですよ」
 香姫さまは、袖の中で見えぬように拳をつくり、ぶるぶると震わせておられます。
 その気配だけで、東宮は、香姫さまのお怒りぶりを感じとっておられました。
 たら〜りと、東宮の額から一筋の冷や汗が流れ落ちます。
「……じゃあ、このようなまわりくどいことをしたのも……!?」
「おもしろそうだから」
 さらりと葵瑛さまは答えられました。
 その後、がばっと起き上がった東宮と、ばっと近寄った香姫さまのダブル鉄槌が、葵瑛さまに命中したことは言うまでもないでしょう。
 葵瑛さまは、今までのことは全て、ご自分が楽しむためにされておられたのです。
 呪詛やら、暗殺やら……全ては、葵瑛さまが楽しむために仕組んだこと。
 葵瑛さまは、ご自分が楽しむためなら、努力をおしまないお方なのです。
 ご自分の立てた計画通りに動く香姫さまと陽楊さまを見るのは、さぞ楽しかったことでございましょうね。
 まったく……。
 葵瑛さまにとっては、左の大臣の姫君も、東宮も関係ないようです。
 葵瑛さまにとっては、全てが遊び、楽しいおもちゃにすぎないようです。
 そういう意味においても、葵瑛さまは、宮中一の困ったちゃんなのでございましょう。


 一通り楽しんだ葵瑛さまが、深夜の東宮御所からご退出なさり、そろそろ(あかつき)から(あけぼの)へと移り変わろうとしている頃。
 この頃にはもう、雨も上がっておりました。
 梅雨の時期に時折見せる、少しの雨のない時間。
 まだ香姫さまも東宮も眠らず、じっと寄り添ってお庭を眺めておられます。
「香子……。その……入内のことだけれど……」
 東宮は確かめるように、恐る恐る香姫さまを見られます。
 ご自分が東宮であると打ち明けられた時から、ずっと東宮のお心の隅に引っかかっていたこと。それは、香姫さまは、今でも東宮妃入内がお嫌なのか……ということ。
 東宮妃入内が嫌で、家出をされてきた香姫さまでございます。
 そして、香姫さまは、その辺りの軟弱な姫君とは、一味も二味も違うのです。
 一筋縄ではいかない姫君。誇りと破天荒の姫君。
 そのような香姫さまのことです。もしかして――
 香姫さまは、じっと東宮を見つめ返されました。
「やっぱり、東宮なんて嫌いよ。だって自分勝手なのだもの。そして、わたしの大切な人を苦しめたわ」
「……香……子!?」
 東宮のお顔から、血の気が引いていきます。
 まさか、ここまできて、このような展開になろうとは、東宮は思ってもおられなかったようです。
 一応確認はとってみたものの、当然、東宮のお心の中では、もうこのまままっすぐと、ある終着へと向かっていくはずだったのですから。
「だって、騙していたもの。正体を偽って、わたしの言動を楽しんでいたのだわ。さすがは、あの葵瑛さまのご親友ね。東宮もまた、わたしを煩わせる方なのよ。わたしは、わたしを騙していたということが、何よりも許せないのよ」
「香子! それは違う。それは違うのだよ……!!」
 慌てて、東宮が香姫さまのお言葉を否定されます。
「何が違うというの?」
 疑わしげに、馬鹿にするように、香姫さまは東宮を見られます。
「……違うのだよ……。わたしはただ……。わたしはただ、あなたとわかり合いたかっただけなのだよ」
「……」
 香姫さまは、慌て、そして真剣な眼差しで見てこられる東宮のお顔を、じっと見つめられます。
 東宮のお話を聞いてやってもいいとでも思われたのでしょう。
「あなたは……わたしが東宮だと知っていれば、絶対、わたしを認めなかったでしょう?」
 今度は東宮が、香姫さまにそう尋ねてこられました。
「え……?」
 香姫さまはその質問の意図が一瞬おわかりになれなかったようですが、すぐに何かに気づき、気まずそうにこくんとうなずかれました。
「だからです。だから、わたしは瞬時に、あなたには、わたしが東宮であるということを言ってはいけないと思ったのです。そうしているうちに、あの文を拾ってしまった――」
「……」
 香姫さまのお顔には、もう先ほどまでの否定的なご様子はありません。
 東宮のお話に聞き入っておられます。
「あの文を見つけた時、わたしは思ったのだよ。自分のことを他人に任せたくはない。どうしても、自分の力で解決したかった。いつも他人にさせてばかりいる自分に、憤りを感じている時でもあったからね。……時機が、合ってしまったのだよ」
 香姫さまは、この東宮のお言葉に、東宮という方がどのような方なのか、わかりかけたような気がされました。
 「だた一人の妃を、生涯愛しぬく」。
 そうおっしゃられるだけのことはあると、そう思われました。
 そうおっしゃられる東宮だからこそ、ご自分のことはご自分で……。
 そう思わずにはいられなかったのでございましょう。
「それにね、第一の理由は……短期間でもともに行動すれば、少なからずあなたはわたしを理解し、そしてあなたと親しくなれるかもしれない……。そのような下心からだったのだよ?」
 少しおどけるように、だけど愛しそうに、東宮は香姫さまを見つめられます。
「あなたは、思っていた通りの姫君だった。いいえ、それ以上にわたしはあなたに惹かれていった……」
 東宮は、おずおずと香姫さまの右手に手をのばされます。
 しかし、その手をふいとよけると、香姫さまはじっと東宮を見つめ、おっしゃられました。
「だけど、わたしをたばかっていたことにかわりはないわ」
「……」
 東宮は何かをおっしゃろうと口を開きかけましたが、そのままのかたちでとめ、そしてまた口をつぐまれました。
 東宮には、その後のお言葉をおっしゃることができなかったのです。
 何しろ、香姫さまがおっしゃることはもっともなこと。今まで香姫さまをたばかってきたのは、本当のことなのですから。
 しかもそれは、ご自身の利己からくるもの……。
 香姫さまのお怒りはごもっともです。
 ……全て、香姫さま欲しさの利己からくる東宮のわがままなのですから。
 ……まあ、それに、葵瑛さまがよからぬ思いにかられ、加担さえしなければ、このようなことにはならなかったのでございますが……。
 東宮はご自身の願望を自覚されておられたので、弁解の言葉も思いつかなかったのでございます。
 すっかり沈んでしまい元気を失った東宮をご覧になり、香姫さまはくすっと小さく声を出し微笑まれました。
 東宮はばっと顔を上げ、香姫さまを不思議そうに、だけど期待を込めて見つめられます。
「東宮は嫌いよ。だけど、陽楊さまは好き。わたしはね、陽楊さまじゃなきゃ嫌なの。陽楊さまとじゃなきゃ、結婚なんてしたくない。――知っていた? わたしにも下心があったのよ? もしかすると陽楊さまなら、わたしを東宮妃入内から救ってくれるのじゃないかしらってね?」
 香姫さまは、にこりと東宮に微笑みかけられます。
 東宮は驚いたように香姫さまを見つめ、そして嬉しそうに抱き寄せられました。
 これは、今まで散々こけにされた香姫さまの精一杯の仕返し、精一杯の意地と抵抗だったのでございましょう。
 ですが、結局最後には、東宮を喜ばせてしまうのですから、香姫さまもまだまだ甘いようでございますね?


 朝日に身を染めるおニ人の間を、頬をかすめるように髪をなで、この時期には珍しくさわやかな悠久の風が吹き抜けていきます――


悠久の風に吹かれて おわり

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update:03/06/23