落花流水の如く
(一)

落花流水(らっかりゅうすい)の如く……。そのように、あなたもわたしを思ってくださればよいのに……。決して叶わぬこととわかってはいるけれど……。そう望まずにはいられないのです」
 憂いを含んだ湿った妖しげな瞳で、葵瑛さまは香姫さまを熱く見つめておられます。
 暮夜(ぼや)
 ようやく夜に入った頃、音羽の滝(おとわのたき)にお二人はいらっしゃいました。
 水が滝つぼに落ちる音は妙に大きく、そればかりが耳に響いてきます。
 この滝は、都から東へはなれた場所、山中にございます。
 どうして、このような時刻、香姫さまと葵瑛さまお二人だけで、このようなところにいらっしゃるのか……。
「この滝の水は……飲めば恋が叶うといわれているのですよ? ご存知でした?」
 葵瑛さまは跪き、ゆっくりと滝つぼの水をすくあいげようと水に手を入れられます。
 その時、滝つぼの水は、一緒に葵瑛さまの束帯の袖を濡らしました。
 ゆっくりと水が衣に浸透していきます。
 しかし、それにはかまわず、滝つぼの水をすくいあげられました。
 そしてそっと、その赤く美しい唇へと運んでいかれます。
 それを思わず、香姫さまははたいてしまわれました。
 それと同時に、葵瑛さまの手の中にあった水は、全てばしゃんと地面にたたきつけられてしまいました。
 葵瑛さまはゆっくりとお顔を上げ、意味ありげに香姫さまを見られます。
「くすくすくす……。どうしたのです? いくらわたしでも、滝つぼの水を飲んだりはしませんよ。――飲むとしたら……こうして流れ落ちてくる水ですね」
 そうおっしゃりながら葵瑛さまは、今度は滝つぼの中へとぱしゃんと音を立て入っていかれます。
 そういうことではなく……。
 香姫さまが思わず手を払われた本当の理由は……。
 そのようなこと、今申しましても、甲斐ないでしょうけれど……。
 葵瑛さまは、流れ落ちる水に手を触れられました。
「もういい! もういいからやめて! お願い、葵瑛さま!!」
 そのような葵瑛さまを見て、香姫さまは叫ばれました。
 そのお顔は、真っ赤に染め上がっておりますが、どこか苦しそうで切なそうでもありました。
 そのような香姫さまのお姿を見て、葵瑛さまは大きくため息をつかれます。
「――冗談ですよ? まさか、本気にしました?」
 そう言って、おどけてみせられます。
 しかし、葵瑛さまのその表情は、いつもの腹立たしい挑発的なものではなく、どこか淋しげでございました。
 とうてい、冗談という言葉が通じるような表情ではございません。
 それに、葵瑛さまはお気づきになられているのでしょうか?
 香姫さまはいつものものとは違う、そのような葵瑛さまをご覧になり、思わず目をそらしてしまわれました。
 じっと、足元に転がる小石を見つめておられます。

 落花流水……。
 それは、花を男に、水を女にたとえて、男が女を思えば、女も男を思うといった、男女の相思相愛の意を秘めた言葉でございます。
 落花流水の如く……そのように思う方が、葵瑛さまにもいらっしゃるということなのでしょうか。


 東宮の思いが遂げられたその日の午後。
 梅雨の日の午後。
 やはりと申しましょうか、何と申しましょうか……そのまま葵瑛さまが東宮を放っておいてくださるわけがなく、東宮は東宮御所をはなれ、葵瑛さまのお邸へとやって……連れてこられておりました。
 しとしとと降る雨のお庭を、釣り殿から眺めておられます。
 ぽとぽとと池に落ちる雨粒が、池の水面に小さなたくさんの波紋を描いております。
 東宮の思いに共感したのか、さわやかな風が吹いた午前中はすぐに、現在のように雨の降る午後へと移り変わってしまいました。
 これは、梅雨の時期ですので、仕方がないことでございますが……。
「……まったく、いい加減にしてくれないか? 葵瑛。わたしは眠いのだよ。昨夜、まったく寝ていないのだからね」
 東宮は不機嫌に、たてた膝の上に頬杖をつき、じろりと葵瑛さまをにらみつけられます。
「よいではありませんか。幸せいっぱいのあなたなのですから、これくらいは。――だって、ほら、ねえ? 香姫殿も釈然としないことが多いでしょうから? ここでご説明してさし上げるのですよ」
 やけに大きな態度をとり、にやっと微笑む葵瑛さま。
 不機嫌な東宮の横に、これまた不機嫌な香姫さまが寄り添うように座っていらっしゃいます。
「わたしはねえ……そのようなことよりも……。この状況が許せないのだけれど?」
 香姫さまは、ぎろりと憎らしげに、葵瑛さまをにらみつけられます。
「おや? この状況とは?」
 葵瑛さまは首をかしげ、何のことやら?ととぼけてみせられます。
 そうすると、あの香姫さまのことでございます。
 もちろん、どのような反応を返されるかは、目に見えております。
「すっとぼけるのじゃないわよ! 陰険親王に、腹黒左大臣!!」
 いきなりばっと立ち上がられると、葵瑛さまとそのななめ後ろに控えておられた、香姫さまのお父上である左大臣にびしっと指をさされます。
「これ! 香子!!」
 左大臣が真っ青な顔をして、慌てて叫びます。
 葵瑛さまは、指をさされ、そのような暴言をはかれたにもかかわらず、涼しげな表情で香姫さまを見ておられます。
「……陰険? はて?」
 そして、そのように、またしてもすっとぼけてみせられるのでございます。
「陰険といったら陰険なのよ! 陰でこそこそ動きまわりやがって!! ――そして、父さま!! 父さまも父さまよ! 裏でこんな邪悪な宮様とつるんでいたなんて!! ――ああ、もう!! 思い出しただけでも腹が立つ!!」
 香姫さまは両手を胸の前で握り締め、悔しそうにじだんだを踏まれます。
 それにしても、何ともまあ、大臣の姫君に似合わず、品のないお言葉遣い……。そして、このお振る舞い……。
 東宮……。一体、この姫君のどこがお好きなのですか? どこをお見初めになられたのですか?
 ――これではもう、そのご趣味を疑われても、文句はおっしゃれませんよ?
 香姫さまと東宮は、葵瑛さまに、「今回の一連のご説明をいたしましょう。ですが、東宮御所では、醜聞(スキャンダル)好きの女房に聞かれてしまうので、わたしの邸へ下がりましょう。そこでなら、安心して詳しい説明ができます」と、半ば強引に連れてこられました。
 すなわち、現在の香姫さまと東宮は、敵の懐に飛び込んだも同じなのでございます。
 また、すでに葵瑛さまのお邸には、香姫さまのお父上であられる左大臣と、香姫さまのお付き女房の(なつめ)がおられました。
 そうして、事の次第を聞かれているうちに、香姫さまは爆発されてしまったのです。
 ――もうこれといって詳しい説明など必要がなかったにもかかわらず、葵瑛さまはあえてそのようにおっしゃられて、お二人の邪魔をして楽しまれている……。
 そのようなことがやすやすとわかってしまうので、香姫さまも東宮も、ご機嫌ななめなのでございます。
 わかっていても葵瑛さまに逆らうことのできない、このもどかしさ!
 ――まあ、それ以前に、一晩中起きておられたのですから、寝不足がいちばんの原因のような気がしないこともないのでございますが。
 葵瑛さまのこのような傍若無人ぶりは今にはじまったことではないと、香姫さまも東宮も十分ご承知のはずでございますから……。
「――ところで……棗殿。あなたも、おっしゃりたいことがおありなのでしょう?」
 じだんだを踏み、憤る香姫さまをあっさりと無視し、葵瑛さまはご自分の後ろに控える左大臣、そしてその後ろに控えている棗に声をかけました。
 葵瑛さまに声をかけられた棗は、一瞬焦ったような様子を見せましたが、すぐにきっと顔を強張らせ……いえ、鬼のような形相をして、ぎろりと香姫さまをにらみつけます。
「ええ、そうです! 姫さま!!」
 棗のそのあまりもの形相に、香姫さまは一瞬びくっとされました。
 しかし、さすがは香姫さまでございます。まけじと棗をにらみ返されます。
 棗も慣れたもので、このような香姫さまの態度にも微動だにいたしません。
「よりにもよって、わたしがお暇をいただいている時に、お邸を抜け出すなんてあんまりではないですか……!!」
 棗は今度は、今にも泣き出してしまいそうに、恨めしそうに香姫さまを見つめます。
 香姫さまはというと、「あら、そう? だから?」とでも言いたげに、あっけらかんとおっしゃいます。
「だからよ。棗がいる時に抜け出しては、すべてあなたの責任になるでしょう? だから、棗がいない時をわざわざ狙って抜け出してあげたのよ? せめてものわたしの心遣いじゃない」
「……というか、わたしがいては、そう簡単にはお邸を抜け出せないからでございましょう?」
 棗はどっと疲れたように、ため息をもらします。
「そうとも言うわねっ」
 そのような棗を見て、香姫さまは楽しそうにころころと笑われます。
 まったく反省の色がございません。まるでそれがごく自然で当たり前のことのようにおっしゃいます。
 ――まあ、香姫さまにとっては、自然で当たり前なのでしょうけれど……。
 何しろ、世の姫君から逸脱された姫君でございますから。
「ところで、香子。わたしのことは、今まで通り陽楊でいいよ?」
 棗をからかい遊ぶ香姫さまに、もうそのくらいでよしておきなさいと言うように、東宮……陽楊さまが微笑みかけられます。
 それに気づかれた香姫さまは、不思議そうに陽楊さまへと振り返られます。
 どうやら、香姫さまは、棗いびりよりも、陽楊さまの発言に興味をお持ちなられたようでございます。
「え?」
「そう不思議そうな顔をしないの。――わたしとあなたの仲。東宮ではあまりにもよそよそしいでしょう? ――わたしは、あなたにそう呼ばれたい」
 陽楊さまはすっと右手をのばし、香姫さまを抱き寄せられます。
 熱い視線を香姫さまに向けられます。
 ――やめてください。陽楊さま。今、まさに今、あなたのご親族の葵瑛さま。そして、臣下の左大臣で香姫さまのお父上がいらっしゃるその前で、そのように当たり前のように香姫さまを抱き寄せられるのは……。
 まあ、当たり前でもよいのですが……見ているこちらが恥ずかしくなりますよ。
 ――しかし、そのようならぶらぶムードをかもし出されたい陽楊さまとは裏腹に、香姫さまはきょとんとして、まじまじと陽楊さまを見つめておられます。
 陽楊さまのお気持ちを知ってか知らずか……。
 まだまだ香姫さまにはその気はない、ということでございましょうか?
 ――嗚呼。お気の毒に……。陽楊さま……。
 しかし、やはり陽楊さまでございました。先ほどのらぶらぶムードは撤回いたします。
 ただ陽楊さまは、葵瑛さまはおいておいて、そこに控える左大臣と棗をからかいたかっただけなのかもしれません。
「それにね、これからも、このようにあなたと遊ぶためには、陽楊の方が都合がいいのだよ。いつ何の拍子に東宮と出るかわからないからね? それではやはり、まずいでしょう?」
 にこりと、いたずら好きの少年のような微笑をお見せになられます。
「くすくすくす。それでこそ、陽楊だよ」
 それに合わせるかのように、葵瑛さまも、にやりと策士のような表情をのぞかされます。
 ……もとい。策士のような……ではなく、策士そのものと言っても過言ではありませんでしたね……。
「東宮!! 宮様!!」
 もちろん、陽楊さまと葵瑛さまのそのようなお言葉を聞いた左大臣は、このような反応をされます。困ったようにたしなめられます。
 ――陽楊さま曰く、陽楊さまとなかなかの仲=c…という左大臣は、陽楊さまがこういうお方だとはわかっておられても、一応は……ね?
 このような陽楊さまだからこそ、都一の破天荒な姫君、香姫さまをお妃に……と望まれるのでしょう。
「不思議だったのだけれど、どうして、陽楊さまに葵瑛さまなの? だって御名は、常永(ときなが)親王に、高良(たから)親王でしょう?」
 今までの陽楊さま方の会話がなかったかのように、切って捨てられる香姫さま。そして、ご自分の疑問を問われます。
 この辺りも、香姫さまらしくてもう言葉がございません。
 他人のことなどどうでもよい。ご自分がこうと思えば突き進まれる……。
 ――まあこれは、陽楊さまにも葵瑛さまにも言えることなのですが……。
 まったく、身分高き方々とは、皆様このようなのでしょうか? 
 ……いいえ。恐らく……絶対に、このお三方だけでしょう。
 その中でも葵瑛さま。葵瑛さまほど、たちの悪いお方もいらっしゃらないでしょうけれど。
「それはね、同じ理由だよ。やはり、市井を楽しむには、それではまずいでしょう? だから、このために二人で呼びやすい名を考えたのだよ。……遊び心で、大陸風のものにしてみたのだよ」
 にこりと、どこか意地悪な表情をお見せになる陽楊さま。
 もちろんその前には、さらに意地悪な微笑みを浮かべる葵英さまがいらっしゃいます。
 そのようなお二人を見て、香姫さまは疲れたようにため息をもらされ、抱き寄せられているお体を、とんと陽楊さまにもたれかけられます。
 そして、左大臣と棗は、この困った皇族お二人と高貴な姫君には何を言っても無駄だと、がっくりと肩を落としています。
 ――もう、この親王さま方にかかれば、都一の権力者の左大臣ですら、かたなしでございます。


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update:03/07/31