落花流水の如く
(二)

「香子……。すまないね」
 急にしんみりとした面持ちで、腕に抱く香姫さまを見つめ、陽楊さまがおっしゃいました。
 すると香姫さまは、不思議そうに、陽楊さまの腕の中で、陽楊さまのお顔を見上げられます。
「入内が決まっても、その日取りまではまだ……」
 陽楊さまは本当に申し訳なさそうに、そして残念そうに香姫さまを見つめられます。
 ところが香姫さまの反応ときたら、陽楊さまのそれとはまったくの正反対でございました。
 あっけらかんと答えられます。
「わかっているわ。入内が決まったからといって、そう簡単にいくものじゃないということくらい」
 そこまで言い終わると、香姫さまはにやりとからかうような笑みを浮かべられます。
「なあに? 陽楊さま。もしかして、そんなに早く、わたしと暮らしたいの?」
 にやにやとした嫌な笑いです。
 それは、葵瑛さまに負けず劣らずといったほどでございましょう。
 もちろん、そのような香姫さまの言葉を耳にされ、葵瑛さまは感心したようにうなずき、そしてこの上ないというほど楽しんでおられます。
 ――まったく……。香姫さまも葵瑛さまも!
 陽楊さまは、これでもまがりなりにも東宮なのですよ!? その東宮に向かって、その暴言!! なんたることでございましょう!! 
 ――図星だったのでございましょう……。
 陽楊さまは、香姫さまがそうおっしゃられると、かっと顔を赤く染め、ぼんと頭から湯気を噴き出してしまわれました。
 そして、悔しそうにぷいっとそっぽを向かれます。
 このようなところは、香姫さまのすねた時と似ていて、かわいらしくも感じられます。
 しかしまあ、これが御年二十歳の殿方のとられる態度かと思うとそれは……。
 陽楊さまのそのようなお振る舞いは、池に降り注ぐ雨をじいっと見つめ、まるで何かを懸命にごまかしているようでもありました。
 しかし、香姫さまを抱く腕だけは、そのままでございます。
 ……陽楊さま……。まったく、そういうところにだけは、ぬかりがないのでございますね?
 そのような陽楊さまの態度を見て、香姫さまも葵瑛さまもさらに楽しそうに笑い、左大臣と棗は慌てふためいておりました。
 そのような時です。
「こほん……」
 香姫さま方がいらっしゃる釣り殿と寝殿を結ぶ渡殿から、そのような咳払いがふいに聞こえてきました。
 それに気づかれた葵瑛さまが、お答えになられます。
「……どうしたのだい?」
 すると、女房の声がしました。
 しっとりとした気品のある声色です。
 とうてい香姫さまには真似のできない、艶のある声でした。
「梅若さまがお見えになりました」
「……そう」
 葵瑛さまは、扇を口元へ持ってこられ、その扇の向こうでにやりと唇を動かされます。
 どうやらまた、この宮様は、何かよからぬことを企んでおられるようですね……?
「通しなさい」
「かしこまりました」
 葵瑛さまがそうおっしゃると、女房はまた来た時と同じように、足音を響かせず寝殿の方へと戻っていきます。
 ただ衣擦れの音だけが、妙に雨の音とうまい具合に混ざり合って、しっとりとした音楽を奏でておりました。
 このような歩き方をするものですから、咳払いをした時のように、近づいてくるその気配にすら、どなたもお気づきになられていなかったのでございますね?
 ただお一人、葵瑛さまを除いては……。
 しばらくして、寝殿の方から、ばたばたとこちらへかけて来る慌しい足音がいたしました。
 それは次第に大きくなり、そしてこれ以上ないというほど大きくなった時、梅若が飛び込んできました。
 もちろん、それはあらかじめわかっていたことなので、誰一人として驚いたりなどされません。
 ……しかし、この品のない走り方。まるでどこかの姫君を見ているようではありませんか。どなたとはあえて申しませんが。
 ――梅若。
 この童は、殿上童に化け、東宮御所へ侵入し、あろうことか、東宮の御寝所に呪詛をしかけたその童でございます。
 そして、香姫さまや陽楊さまに追いかけられていた童。
 ……まあ、すべては、こちらにいらっしゃる、香姫さまがおっしゃるところの陰険親王、葵瑛さまの策略だったのですが……。
「よくきたね、梅若」
 葵瑛さまがそうおっしゃると、梅若はちらっと葵瑛さまに視線を向け、すぐにぷいっと顔をそむけました。
「おや?」
 葵瑛さまは、興味深げに梅若をまじまじと見つめます。
 一方、梅若はと申しますと、顔をそむけたそのままで、相変わらず陽楊さまに抱き寄せられている香姫さまを見つめておりました。
 その視線に、香姫さまもようやくお気づきになられます。
「……え?」
 香姫さまが微かな動揺の色をお見せになると、梅若はばっと香姫さまの目の前へ駆け寄り、がばっと座りました。
「師匠とお呼びしてもよいですか!?」
 そして、そのような突拍子もないことを叫びました。
 香姫さまはもちろん、そこにいた誰もが目を見開き、驚いておられます。
 ……ただ……葵瑛さまだけは、相変わらず興味深げに、にやにやと微笑まれていますが……。
 梅若は目をきらきら輝かせ、香姫さまを見つめ力説いたします。
「実は、ずっとあなたに憧れていたのです! 世間に噂される香姫さま。男顔負けのその男前っぷり。尊敬に値します〜!!」
 そう叫んだ瞬間、もちろん、額に青筋を立てた香姫さまの鉄拳が、梅若へと炸裂しておりました。
 さすがは、男顔負けの男前っぷりをお持ちの姫君でございます……。
 梅若に天誅を下すために香姫さまに振りほどかれた陽楊さまは、ぐすんとすねた素振りをお見せになり、香姫さまを抱いていたそのままのかたちで腕をとどめておられます。
 これみよがしに、梅若へのあてつけのために。
 まったくもう、本気なのか遊んでおられるのかは存じませんが、それが東宮のされることでございますか!? 陽楊さま!
 ――ああ、そうでございましたね。陽楊さまは、普通の東宮ではありませんでしたね……。
 葵瑛さまは感心したように、楽しげに香姫さまと梅若を見ておられます。
 ――ただ……もう、左大臣と棗は、真っ青な顔で、ぱくぱくと口を動かすしかできないでいるようでございますが……。
 殴られた梅若もまた、目をうるうる輝かせ、喜んでいるようでございます。
 そして――
「さすがは師匠です〜!」
あまつさえ、そのようなことを言ってのけます。
 香姫さまはもちろん、梅若は反撃に出るであろうと思われていたものですから、予想外にこのような反応をされて、ぽか〜んとあきれてしまわれました。
 その様子を見て、陽楊さまと葵瑛さまは、本当に愉快そうにくすくすと笑っておられます。
 陽楊さまってば、先ほど、あれだけすねていらしたのに、楽しいことがはじまり、もうすっかりご機嫌を回復されたようでございます。
 まったく、げんきんなのですから。
 梅若は、さらに香姫さまへ詰め寄り、そしてがばっと香姫さまのお手をとりました。
 その瞬間、陽楊さまのお顔が般若へと変化し、憎らしげに梅若をにらみつけたことは言うまでもございません。
 しかし、梅若はそれに気づいているにもかかわらず、ふんと鼻で笑うと、じいっと香姫さまを見つめました。
 これは明らかに……陽楊さまを挑発しております。
 香姫さまは、もう好きにして……と、どこか投げやりな態度をとっておられます。
「朱雀門であなたに腕をつかまれた時、ぼく、どうしようかと思いました。心がはずむほど嬉しかったのです。それを、どれだけ大声で叫びたかったことか……! このまま、時間が止まればいいのに……とさえ思ってしまいました」
 梅若は、うっとりと自分の世界へと入ってしまいました。
 それを見て、香姫さまも葵瑛さまも含め、皆一様に絶句されてしまいました。
 さすがの香姫さまや葵瑛さまですら、まさか梅若がこのようなことを言い出し、果ては、陶酔するまでに香姫さまへの歪んだ愛情を表現するなどとは思っておられなかったので、それはごく自然の反応だったのでございましょう。
 そして、何かある毎に、香姫さまを熱く見つめていたあの梅若の視線。その理由(わけ)がわかったような気がいたします。
 ――こういうことだったのですね。……納得でございます。
「ところで葵瑛さま。この困ったぼくちゃんとは、どういうご関係なの?」
 香姫さまはようやく正気に返られ、ぶんと梅若が握っていた手を振り払われました。
 すると梅若は、「あんっ」と小さく声をもらし、淋しそうに恨めしそうに香姫さまを見つめます。
 香姫さまのそのお言葉に、他の方々も、ようやく正気に返られつつあるようです。
 それにしても、香姫さまや陽楊さまはともかく、あの葵瑛さままでをも絶句させてしまうこの梅若という童は、一体……?
「あ、ああ、そうだったね。梅若はね、わたしの父の妹の息子なのだよ。つまりは、わたしのいとこだね?」
 多少、葵瑛さまらしからぬ、どもりを含んだ口調でそうおっしゃられました。
 いとこですか……いとこ。
 ――それもまた、納得でございます。
 この葵瑛さまあって、この梅若あり……でございますね?
 は〜あ。それにしても、葵瑛さまのいとこには、まともな方はいらっしゃらないのでしょうか?
 陽楊さまといい、梅若といい……。


 梅若が乱入したその日の夜。
 相変わらず、うっとうしく雨はしとしとと降り続いております。
 そのような空模様は、まるで今の陽楊さまのお心を代弁しているようでございます。
 雨雲のおかげで月は隠され、今宵は月明かりもなく、燈台や釣燈篭の灯りだけが頼りです。
 香姫さま、そして左大臣と棗は、左大臣邸へと帰って行かれました。
 その道すがら、牛車の中で、香姫さまが、これでもかというほどに、棗に小言を言われているであろうことは、容易に想像がつくことでございましょう。
 そして、左大臣邸に着くと今度は、左大臣の攻撃が香姫さまに炸裂するであろうことも……。
「くすくすくす……。今頃、香子はたじたじだろうね?」
 少し淋しげに、陽楊さまは池に浮かぶ波紋を見つめおっしゃいました。
 釣り殿の端に腰を下ろされていたので、時折、しとしとと降る雨が、陽楊さまを濡らします。
 陽楊さまよりは内へと腰を下ろされていた葵瑛さまは、そのような陽楊さまのお言葉に興味をもたれたのか、陽楊さまと同じように端までゆっくりとやって来て、そして並ぶように再び腰を下ろされました。
 葵瑛さまも陽楊さま同様、池の波紋へと目を移し、困ったように、そして趣深く、ほうっとため息をもらされます。
「半年前のあの時、あれほど懸想しないでくださいと申しましたのに……。やはり好きになってしまわれたのですね」
「え……?」
 陽楊さまは、少し驚いたように、まだ池の波紋を見たままの葵瑛さまへと視線を移されます。
 すると、それに合わせ葵瑛さまも、陽楊さまへと視線を移されます。
 そして、いつものように、どこかいらだつ憎らしげな微笑を浮かべられました。
 それに気づいた陽楊さまは、またからかわれてはなるものかと先手を打って出られます。
「それにしても、葵瑛。あれはないだろう」
「あれと申しますと……?」
 葵瑛さまは、そのようなことはないのに、はて?という、何のことを言っているのかわからないという、わざとらしい振る舞いをされます。
 これはいつものことですので、陽楊さまはあえてそれには触れず、何もなかったかのように続けられます。
「あれだよ。――わたしのもとへ投げ込んだ、石に巻きつけた文の文面だよ。さすがに、あれはこたえたよ」
「ああ……あれですか?」
「そう、あれ」
 たいしたことではないという表情の葵瑛さまに対し、陽楊さまは少し怒りを込めたような表情を浮かべられます。
 葵瑛さまは、少しの間、何やら考え事をしたかと思うと、すぐに口を開かれます。
「――今とて、認めてはいませんよ? あの時、香姫殿にときめいてしまったのは、何もあなただけではないのですから。――嫌ですね。血が近いというのも……」
 そのお言葉通り、嫌そうに顔をゆがめ、そして困ったように陽楊さまに微笑みかけられます。
 何やら意味深長に……物言いたげに……。
 そして、陽楊さまはというと、そのような葵瑛さまの意外なお言葉に目を見開き、訴えるように見つめられます。
 すると、葵瑛さまは、くすくすと楽しそうに笑い出してしまわれました。
 ということは、あれですね? いつものあれがまた……。
「冗談ですよっ」
 嗚呼。やはり……。やはり、こうなってしまうのですね。
 ――陽楊さま。そろそろお気づきになられてもよろしい頃では?
 いくら先手を打ったところで、結局は葵瑛さまのよいおもちゃになってしまう……ということに。
 まあ、いつまでたっても葵瑛さまのよいおもちゃにされてしまうところが、陽楊さまのよいところと言えば言えなくもないのでしょうけれど。


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update:03/08/03