落花流水の如く
(三)

 陽楊さまと葵瑛さまとの間で、そのような会話がかわされていたなど露知らず、香姫さまは、後宮へ上がるためのお妃教育に勤しんで……いらっしゃるわけがございませんね。
 まじめにお妃教育を受けられるはずがございません。
 相変わらず、まわりの者をからかって遊んだり、お庭へでて走りまわったりと……まるで女童のような行動力を発揮されております。
 ……さすがに、陽楊さまにきつく言われているので、町へお一人で散策に行かれる……ということはございませんが、それでも香姫さまの破天荒ぶりは衰えることがありません。
「姫さま。姫さま、どちらにいらっしゃいます?」
 東の対から、そのように香姫さまをお探しする棗の声が聞こえてきます。
 香姫さまは、それに気づいておられますが、長い雨の中、ようやくのぞかせた太陽をその体いっぱいに浴びたいとばかりに、お庭の池のほとりにたたずんでおられます。
 何か思いふけっておられるのでしょうか、じいっと久しぶりの青空を見上げておられます。
 簀子へ出てきた棗は、ようやく、そのような香姫さまに気づきました。
 そして、叫びます。
「姫さまあっ!! まったく、そう簡単にお庭をほっつき歩かないでくださいよ! ――ほらあ、姫さまにお文が来ていますよ!!」
 棗はぶんぶんとお文を振りまわします。
 やはり、この主人あって、この女房……。
 香姫さまの女房なだけあり、棗の行動も香姫さまに感化されつつあるのか、かなり豪快なものになってきているようでございます。
 当の棗は、それにまったく気づいていないようですが。
「お文? 今行くわ!」
 香姫さまはそう答えられると、ばっと駆け出し、すぐに棗のもとまでやってこられました。
 東宮妃入内の決まった香姫さまに、殿方からのお文が届くわけがなく――まあ、もとから殿方からのお文など、香姫さまのお噂から皆無に等しかったのでございますけれど――そして、香姫さまにお文のやりとりをするご友人もおられるはずがなく、一体どなたからのお文が届くというのでございましょう?
 だからと申しまして、陽楊さまや葵瑛さまが、今さら香姫さまへお文を送るなど、とうてい思えるはずもなく……。
 もちろん、香姫さまもそれをご存知でしたので、はて?と首をかしげておられます。
「どなたから?」
 そこで、香姫さまは棗にそうお聞きになります。
 すると、棗の表情が瞬時に曇ってしまいました。
「……それが……このお文を受け取った者に言わせると、決して名を名乗ろうとしなかったようでございまして……。そして、お返事も不要とのこと。ただ、このお文を姫さまへと――」
「何それ……。奇妙ね……」
 香姫さまは怪訝な顔でつぶやき、棗の手からお文を受け取られました。
「一応……危険なものは仕込まれていないようでしたので……」
 香姫さまが受け取られたのを確認すると、棗がおずおずとそう言いました。
 やはり、棗もさすがにこのお文は怪しいと思って、危険なものでないかどうかの確認はしていたようです。
 そしてもちろん、棗も承知しております。
 悲しいことに、香姫さまにお文を送る者など、この都にいるはずがないということを……。
「そうね。そのようなものを、棗が持ってくるわけがないものね。――でも何、このお文から香る香り……。やけにきついわね」
 香姫さまは困ったように微笑を浮かべられると、かさりと音を立て、そのお文を開けられました。
 お文が開いた瞬間、その中から、はらりと、黒百合の花が一輪舞い落ちました。
 その黒百合を見た瞬間、棗は「ひっ!」と声をあげ、思わず後退していました。
 そして、顔色も見る間に青ざめていきます。
「ひ、姫さま! このお花……!!」
 身震いをしながら、震える指で、床に落ちた黒百合の花を指します。
 しかし、香姫さまといえば、やはりと申しましょうか、その並々ならぬお強い心の臓をお持ちなので、顔色一つ変えてはおられません。
 そして、こともなげに、黒百合の花を拾い上げてしまわれました。
「――呪いね……。くすっ。わたしに喧嘩を売ろうだなんて、いい度胸じゃない」
 そうおっしゃった香姫さまの表情は、何ということでございましょう。まったくもって楽しんでおられるご様子。
 まったく……どこのどなたなのでしょう。よりにもよって香姫さまに喧嘩を売ろうだなどという、勇気のある方は……。いえ、お知恵が一つも二つも足りない方は。無謀な方は……。
 このようなものを送りつけられては、香姫さまのことでございますよ? 恐れるどころか、喜んで返り討ちにあわせられることでしょう。
 どのようにしてこらしめてやろうかと、心弾んでしまわれるのですよ?
 黒百合。
 その花は、高山に咲くことからとても珍重されておりますが、それと同時に、人を幸せにすることもあれば、不幸にすることもあるという、いわくのあるお花でございます。
 香姫さまも棗も、その黒百合に込められた意味を、呪いととられたようでございます。
 ――まあ、無理もないでしょう。
 何しろ、あけられたそのお文には、文字は一つも書かれていなかったのですから。
 ただ、紙に包まれていたこともあり、お文の内側に、少しの黒百合が押しつぶされ出た汁がついているだけで……。
 香姫さまは持っていらした黒百合を嫌がる棗に手渡すと、すぐに葵瑛さまへお届けするようにと命じられました。
 どうやら、香姫さま、何か思うところがおありのようでございます。
 このような香姫さまが好みそうな楽しい出来事を、他人に、しかも陽楊さまでなく葵瑛さまにお知らせするなどとは……。
 何やら、起こらなくてもよい騒動の、嵐の予感が、そこはかとなく漂ってまいりました。


 香姫さまに黒百合が送られたその夜。
 左大臣邸は東の対へ、早速、葵瑛さまがやって来ておられました。
 それは、陽楊さまにも……そして左大臣にも内密で。ニ人だけでお話がしたいという香姫さまのご意向を尊重されて……。
「やあ、香姫殿。このような夜更けにお呼びとは……わたしに浮気の申し込みでもなさるおつもりですか?」
 棗によって忍ぶように香姫さまのもとまで導かれた葵瑛さまは、香姫さまがいらっしゃる庇と、その前の簀子を仕切る御簾を扇で持ち上げて、簾中へと入ってこられました。
 その後に棗も続き、御簾の内へと入ります。
 普段なら、左大臣の姫君、そして親王さま、姫君に仕える女房が一つ同じ場所を共有するなど許されるはずがありませんが、それはこの三人の親密な関係と、そして今からお話しようとすることに関係して、それも許されてしまっております。
 何しろ、香姫さまの思い人である陽楊さまにも、誰にも秘密のお話なのですから……。
「馬鹿言っていないで、さっさとお座りなさい」
 香姫さまは、扇でばしばしとご自分の前の床を叩かれます。
 それにしても、香姫さま。相手はまがりなりにも親王さま。それなのに、そのお振る舞いは……。
 ――まあ、相手が葵瑛さまでございますから、礼もへったくれもないのでございましょうけれど。
 そして、葵瑛さまの反応も決まっております。普通の親王の反応をされるはずがございません。
「……冗談ですのに……」
 つまらなそうに口をとがらせながら、香姫さまがお示しになった場所へ腰を下ろされます。
 そのような葵瑛さまへ、香姫さまの冷たい視線が注がれます。
 そして、はあ……と大きく、わざとらしくため息をつかれます。
 それを見た葵瑛さまは、冗談はここまでと言わんばかりに、そのゆるんでいた冗談まじりの顔を、きっと険しいものへと変えられます。
「――陽楊には、伝えていないのですね……?」
 葵瑛さまがふいにそのようなことをおっしゃると、香姫さまはじっと葵瑛さまを見つめ、こくんとうなずかれました。
 ようやく本腰を入れて、まともにお話をするつもりになられたようでございます。
「賢明な判断ですね。下手に騒ぎ立てる必要もないでしょう」
 葵瑛さまはため息をつかれ、胸元から、折りたたんだような紙を取り出されました。
 そして、その紙を開けると、中から、昼間、香姫さまに送られてきた黒百合が出てきました。
「それにしても、たちの悪いいたずらですね……」
「……ええ。葵瑛さまも、やはりいたずらだとお思いかしら?」
 香姫さまは扇で口もとを隠し、ほうっと気だるそうなため息をもらされます。
「いたずらでしょうね。時期が時期ですから……。――いいえ、正確には、いやがらせですけれどね」
「やはりそうなのね。それじゃあ、このまま放っておいても大丈夫かしら?」
 香姫さまは答えを求め、じいっと葵瑛さまを見つめられます。
 すると、葵瑛さまもまた、ため息をもらされます。
「おそらくは……。そのうちやむでしょう」
 そう言って、また黒百合を紙で包み、懐へとしまわれました。
「この花は、わたしが預かっておきましょう。……また何かしでかした時の、よい証拠になるかもしれませんからね。――さすがですね、香姫殿。証拠をちゃんととっておかれるとは」
 葵瑛さまは、葵瑛さまに似合わない、優しさの混ざった感心したような微笑を浮かべられます。
「当たり前じゃない」
 感心したように誉める葵瑛さまを馬鹿にするように、香姫さまはそう言って鼻で笑われました。
 まったく……香姫さま。せっかく誉めていただいたというのに、その言いようはないでしょう。
 それでは、葵瑛さまも甲斐がないというものです。
 まあしかし、相手はあの葵瑛さまでございますから、裏で何を考えていらっしゃるかわかったものではございません。
 よって、香姫さまもそのような反応をされるのでございましょう。
 ――と、葵瑛さまのお味方をしたいところですが、そのような香姫さまの反応は百もご承知なのでしょう。
 予想通りの反応が返ってきて、葵瑛さまはやはりご満悦顔でございます。
 ですから香姫さまも、そのような葵瑛さまの相手をしても仕様のないことと、さらりと無視しておしまいになられました。
「ところで葵瑛さま。わたし、また新しいあなたの情報を仕入れたのよ?」
 いきなりにやっと笑い、そのような今までの話とは関係のないことを、香姫さまは持ち出されました。
「わたしの……噂ですか?」
 葵瑛さまも、それはそれで興味深いと、楽しそうに香姫さまのお話に耳を傾けられます。
「ええ。――あなた、最初は困ったちゃんではなかったのですってね?」
「はい?」
 さすがの葵瑛さまも、香姫さまのこのような突拍子もない発言に、脱力されてしまったようでございます。
 しかし、そこは葵瑛さま。決して、ぽかあ〜んとしたような、間抜けな表情はお見せになることはございません。
 脱力したとはいえ、あくまで腹立たしい得意げな表情をお崩しにはなられません。
 このようなところがまた、葵瑛さまの憎らしいところでございます。
 それにしても、香姫さま……。それは本当に、突拍子もないと申しましょうか……一体、何の意味がおありで……?
「最初は、出仕した当初は、葵瑛さまのそのおかしな行動を理解できない宮中の人々の間で、不思議くんと呼ばれていたけれど、次第にその本性が明るみになってきて、それでは生ぬるいということで、困ったちゃんと呼ばれるようになったのですってね? ――葵瑛さまってば、小さい頃から、もうすでに、葵瑛さまだったのねえ〜」
 香姫さまは、本当に愉快そうにころころと笑われます。
 何やら、葵瑛さまの弱点を握ったかのように、ご満悦顔でございます。
 そのようなものが、葵瑛さまの弱点のはずがございませんのに……。
「一体、それをどこで……。――と、聞かなくてもわかりますね。例の東宮御所仕えの、ユウノウな女房三人衆ですね」
 葵瑛さまは、憎らしげに、そしてはき捨てるようにそうおっしゃいました。
 そして、まだ楽しげにころころと笑う香姫さまにも、少しはなれて控えている棗にも、聞こえないような小さな声で、ぼそりとつぶやかれます。
「あの三人。覚えていなさい。――後悔させてあげますから」
 ちなみに、葵瑛さまがおっしゃるところの東宮御所のユウノウな女房三人衆とは、香姫さまが東宮御所へもぐり込んでおられた頃に、香姫さまと仲良くなった、栞、雅、志木のことでございます。
 ですからもちろん、葵瑛さまともそこそこに面識があります。
 ……いいえ。そこそこではないかもしれません。
 彼女たちもまた、今ではすっかり、宮中での葵瑛さまのよいおもちゃとなっているのですから。
 どうやら、よりにもよって、この京で、いえ、この国でいちばん敵にまわしてはいけないお方を、敵にまわしてしまったようでございます。
 ご愁傷さまです。東宮御所仕えの、ユウノウな女房のお三方……。


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update:03/08/03