落花流水の如く
(四)

 梅雨。
 まだまだ、雨はしとしと降り続いております。
 昼間、久しぶりに太陽が顔をのぞかせたと思ったのもつかの間、葵瑛さまが左大臣邸よりご自分のお邸へ戻られた頃には、またしとしとと雨が降り出しておりました。
 よほどそこがお好きなのか、寝殿へお入りにならずに、直接釣り殿へと歩いていかれ、そして、池を見渡せる場所へと腰を下ろされました。
 今宵は風もなく、風にあおられ内へ雨粒が侵入してくる恐れもなく、安心してそこへお座りになっております。
 どこか物憂げに、波紋を描く池を見つめる葵瑛さま。
 匂い立つような色気をかもし出しておられます。
 そしてその目は、どこか……愛しい君でも思っておられるのかと見受けられる、そのような色を放っております。
 ――浮名を流す葵瑛さまに限ってそのようなことは思いもよらないのですが、たった一人の姫君に恋焦がれているという、そのような瞳。
 ひたひたという足音が池を見る葵瑛さまのお耳に入ってきたかと思うと、葵瑛さまの帰りを待っていた梅若が、おずおずと近づいてきておりました。
「おや? 梅若……。どうしたのですか?」
 ゆっくりと池から梅若へと視線を移し、どこか淋しげな微笑を浮かべられました。
 その葵瑛さまのご様子を見て、梅若の顔に苦渋の色が広がります。
「宮様、本気ですか!?」
「……本気……とは?」
 梅若がそう尋ねると、葵瑛さまのお顔が一瞬のうちに曇りました。
 険しいお顔で、梅若を見つめられます。
「そのようなお顔をされるということは、ぼくが言いたいことをちゃんと理解されているということですね?」
「……はて?」
 葵瑛さまはおっしゃると、葵瑛さまを見つめる梅若を馬鹿にするように一瞥されます。
 そしてまた、池に浮かぶ波紋へと目線を移されます。
「誤魔化さないでください! 師匠に横恋慕だなんて……。――相手は東宮ですよ!? 不毛すぎます! 正気じゃない!」
 梅若は苦しそうに叫びます。
 そして、そのような暴言をはかれてもなお、静かに池を見つめたままの葵瑛さまへばっと駆け寄り、お袖をぎゅっとつかみました。
 梅若は今にも泣き出してしまいそうなほど、苦しげな表情を浮かべております。
 すると葵瑛さまはまた、池から梅若へと視線を移し、悲しげに、そして嘲り笑うかのようにおっしゃいます。
「――そういう君も……人事ではないでしょう?」
 浮かべられたその表情は、梅若への嘲笑の表情にも思えますが、おっしゃられたその言葉は、梅若への言葉にも思えますが、本当は……自らに……葵瑛さま自身に言い聞かせる言葉、表情だったのかもしれません。
 自らを嘲り笑う……。
 他の男を思う姫君を好きになってしまった……そのような苦しい恋をしている表情でございます。
 ――梅若はともかくとして、葵瑛さまは、本当に香姫さまのことが……?
 気の毒ですが、今の香姫さまでは、どう頑張っても、決して葵瑛さまに……陽楊さま以外の殿方に振り向くとは、とうてい思えないのですが……?
 何しろ、あのロマンチストで頑固者のおてんば姫が、陽楊さまを一生の人と決めたのですから、そう簡単に心変わりするなどあり得ません。
 ……いいえ、意地でも心変わりなどしないでしょう。
 香姫さまとは、そういうお方なのでございます。
 いちばんでは嫌。たった一人の人がいい。そうおっしゃられて、陽楊さまをお選びになられた香姫さま……。
 もちろん、そのようなことは、お二人を結びつけた葵瑛さまご自身が、いちばん、痛いほどご承知なのでしょうけれど。
 葵瑛さまとて、まさかご自分がこのようなお気持ちになるなど思いもよらなかったので、だからお二人の恋を助けたのでしょうけれど……。
 何やら、いたたまれませんね。
 ところで、そうは申してまいりましたが、本当に葵瑛さまは香姫さまを……?
 そこがいちばんの問題でございます。


 あのお文事件のほとぼりもさめない二日後のこと。
 またしても、事件が発生してしまいました。
「あら? 梅若? どうしたの?」
 いまだに梅雨が明けず、雨がしとしとと降る簀子に、いつものように香姫さまがおでましになられると、その簀子を歩いてくる梅若に気づかれ、お声をかけてあげられました。
 梅若は香姫さまに気づくと、嬉しそうに駆け寄ります。
「師匠〜っ!!」
 そして、あろうことか、香姫さまに抱きつこうとしました。
 が、もちろん、そのようなことを、香姫さまがお許しになるはずがございません。
 すんでのところで、見事に香姫さまのかかと落としが命中いたしました。
 もう今さらすぎて言葉にもできませんが、香姫さまは……。
 それはおおよそ、どう軽く見積もっても、姫君のなさることとは――
「ひ、ひどい。師匠〜」
 梅若は脳天をおさえながら、涙目で香姫さまに訴えかけます。
 どうやら、香姫さまご本人は認めていらっしゃらないのに、香姫さまの意に反し、結局、師匠≠ェ定着してしまったようでございます。
「何がひどいものですか! お前には常識というものがないの!?」
 香姫さまはそうおっしゃると、先ほどかかと落としを下されたその同じ場所へ、今度は手刀をお見舞いしてあげられました。
 そして、ふんと鼻で笑い、ふんぞり返られます。
 梅若は、とうとうぴーぴーと泣き出してしまいました。
「……姫さま〜……。そのお言葉、そっくりそのまま姫さまにさし上げますわ。姫さまには、常識というものがないのですか!?」
 香姫さまの後を追って、簀子へ恨めしそうに姿を現した棗は、瞬時のうちにきっという顔つきになり、そして香姫さまの衣のお袖をぎゅっとつかみました。
 棗のこの言葉は、もっともでございます。
 香姫さまにこそ、常識という言葉を備えていただきたいものでございます。
 そう、東宮妃入内が嫌でお邸を抜け出し、鴨川へお逃げになられたり、羅城門まで不逞の輩を追いかけていったりなど、そのような殿方でさえ滅多やたらになさらないことをしておしまいにならないよう、常識という言葉を。
「な、棗!?」
 香姫さまは棗を確認されると、あっちゃ〜とでも言いたげに、面白くなさそうな表情を浮かべられます。
「とっととお戻りになってください! お妃教育の続きをいたしますよ!!」
 そして、嫌がる香姫さまを、また御簾の内へと引き戻そうといたします。
 そのような時でございます。
 とうとうと申しましょうか、やはりと申しましょうか、いかにも香姫さまがお好きな、香姫さまを喜ばせる声が、香姫さま方の耳へと届いてまいりました。
「きゃあ〜っ!!」
 案の定、ただではすまなかったようでございます。
 雷でも落ちたかのような、そのような女性の悲鳴。
「何事!?」
 香姫さまはその言葉とは裏腹に、目をきらきらと輝かせておられます。
 明らかにその言葉とは違い、その顔はいきいきとし、大喜びしておられます。
 嬉々とした笑顔をお見せになられます。
 嗚呼……。やはり、こうなってしまうのですね?
「ひ、姫さまの御寝所の方ですわ!」
 さすがは香姫さま付きの有能な女房です。
 棗は、香姫さまよりは動揺しておりますが、このような状況下でも、しっかりと気をたもっております。
「行くわよ! 棗!!」
「は、はい!」
 香姫さまはそう叫ばれると、がばっと御簾を払いのけ、東の対の香姫さまが御寝所として使われている庇へとかけて行かれます。それに続き、棗も駆け出します。
 その様子を、梅若はじいっと見つめておりました。
 そして、ゆっくりと足を踏み出します。香姫さまの御寝所へと……。

 香姫さまが御寝所へとやってこられると、そこにはすでに何人かの女房がやってきており、そして皆一様に青ざめた顔をして、がたがたとふるえていました。
 ある一点に視線を集中させ……。
 いえ、あまりの恐ろしさに、そこから視線をはずすことができなかったのでしょう。
 何しろ、女房たちの視線の先には、いちばん太い柱のちょうど目線よりは少し下の高さの位置に、五寸釘で打ちつけられた、わらでできた人形があったのですから。
 香姫さまはそのわら人形を目にされると、女房たち同様青ざめるでも震えだすでもなく、つかつかと歩み寄られます。
 棗ですら、他の女房と同様に、がたがたと震えているにもかかわらず、香姫さまのこの気丈さ……。いえ、無神経さは、もう尊敬に値するでしょう。
「ひ、姫さま! おやめください! 不吉です! のろわれますよ!!」
 棗は香姫さまにそう叫びますが、まるで足が床に張りついたようになって、そこから一歩も動くことができません。
 その場に立ちつくし、がたがたと足を震わせております。
 そして、涙声で懇願いたします。
「ひ、姫さま〜っ!」
「うるさいわよ、棗。少しお黙りなさい!」
 香姫さまはばっと棗に振り返ると、きっとにらみつけられました。
 香姫さまとて、わら人形を全く恐れていないわけではないでしょう。
 しかし、そこは香姫さまでございます。恐ろしいよりも何よりも、よりにもよって香姫さまの御寝所にこのようなことをされては、我慢ならないのです。怒りの方が強いのです。腹立たしさでいっぱいなのでございます。
「は、はい……」
 香姫さまに怒鳴られ、棗はしゅんとなり、気落ちしてしまったようです。
 激怒されているはずの香姫さまですが、そのような棗を確認されると、またくるりとわら人形が打ちつけられている柱へと振り返り、おもむろに扇を取り出し、ぱらりと開かれました。
 そして、口元へとゆったりと持ってこられます。
「くすっ。おもしろくなってきたじゃない」
 扇の内でにやりと微笑まれ、そうつぶやかれました。
 そして、ふんと鼻で笑い、わら人形へ手をやると、五寸釘だけを残して、引きちぎっておしまいになられました。
 それを見ていた女房たちは、ぎょっと目を見開きます。
 もちろん、棗も例外ではありません。
 そのような女房たちの様子を知ってか知らずか、ぽいっと扇を放り投げられたかと思うと、香姫さまはその引きちぎったわら人形をぐいぐいっと両手で押し丸め、そしてぽいっと放り投げてしまわれました。
 するともちろん、女房たちの間から、「ひーっ!」という、声にならない悲鳴が上がります。
 まったく香姫さまってば、怖いもの知らずなのですから……。
 棗ではありませんが、さすがにそこまでしてしまっては、のろわれてしまいますよ?と言わざるを得ないでしょう。
 それにしても、天下無敵の香姫さま。この姫君には、この世で恐ろしいものはないのでしょうか?
 その辺りの強靭な殿方ですら、さすがにこれを見ては、うろたえようものでしょうに……。
 そして、そこまでは、決してなさらないでしょう。
 ――あの葵瑛さまですら……。
「くすくす……。やはり、わたしの見込んだ姫君だ」
 突然、そのような言葉が、香姫さまと女房たちの耳に飛び込んでまいりました。
 香姫さまは、きっと険しい顔で勢いよく振り返り、叫ばれます。
「今度は何の用よ!? 陰険鬼畜親王!」
 ……ということは、やはり予想通りと申しましょうか、その言葉を発せられた人物は、あの方ですね……。
 左大臣の姫君も東宮も関係ない、ご自分が楽しめれば、それさえもおもちゃにしてしまうというあのお方。兵部卿宮、葵瑛さま……ですね?


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update:03/08/06