落花流水の如く
(五)

「これはまた、ひどい言われようだ……」
 葵瑛さまはすっと御簾をさけ、御簾の陰から姿を現されると、にこにこと微笑みながら、さきほど香姫さまが投げ捨てられたわら人形を拾い上げられました。
 そして、すっと懐へと忍び込ませます。
 その葵瑛さまの陰から、梅若が、ちろりと様子をうかがうように香姫さまをのぞき見ます。
 香姫さまは、そのような梅若に気づかれました。
「ちょっと待って……。梅若が時機よくここにいたということは……またあなたが裏でよからぬことをしているのじゃあないでしょうね!? 梅若!!」
 そう怒鳴られ、葵瑛さまの陰に隠れる梅若のもとへ、どすどすとお下品な足音を立て、歩み寄られます。
 梅若は「ひっ」と小さく声をもらし、一歩後退してしまいました。
 よほど、香姫さまが恐ろしく思えたのでしょう。
「お待ちなさい、香姫殿」
 次第に近づいてくる香姫さまを、葵瑛さまがおとめになります。
「うるさいわよ。どうせ、またあなたの差し金じゃないの!? この陰険鬼畜破綻親王!!」
 う〜わ〜……。香姫さま。さすがに、そこまでおっしゃられましては……。
 ――と申しますか、もう陰険だけではないのですね?
 この短期間で、鬼畜と破綻という冠まで戴かれますとは……さすがは宮中一の困ったちゃん、葵瑛さまです。
 ……と、そのようなところで感心している場合ではございませんね。
「違いますよ。どうやら、この雨で梅若の到着が遅れたようですが、今からこちらへ参りますというあなたへの文をもたせただけですよ。――ほら、このように」
 そう言って葵瑛さまは、梅若の胸元から、すっと一通のお文を取り出されました。
 意味ありげに、撫子の花を添えたお文を……。
 香姫さまは、葵瑛さまがそうしてお示しになったお文をむんずとつかみとり、またしてもぐしゃぐしゃと丸めて、御簾を持ち上げ、今度は雨の降るお庭へと投げ捨ててしまわれました。
 それを見ていた女房たちは、ぎょっと目を見開き、そして梅若はあわあわと、まるで泡でも食ったような表情をしております。
 今さらですが、誰にでもわかります。
 とんでもないことをされてしまったのですよ? わかっておられますか? 香姫さま。
 あろうことか、葵瑛さまがお送りになられたお文を、そのように扱うなどとは……。
 しかし、そのような誰でも容易に想像できるであろうその後の展開は、誰も予想しなかったものへと移っていったのでございます。
 「やはり、楽しませてくれますね、香姫殿は」と、感心したように、にこにこと微笑んでしまわれたのです。葵瑛さまが。
 これはもう、本当に誰も予想していなかったことでございましょう。
 さすがに葵瑛さまも、ここまでされてはお怒りになり、そして香姫さまへの攻撃がはじまると誰しも思っていたことでしょう。
 ――しかし、それはまだまだ甘いのですよ、みなさま。
 それをご存知の葵瑛さまご本人と香姫さまだけが、にこにこと微笑み合っておられます。
 ……ただし、その間に、妙な火花が一方的に散っていることを、忘れてはいけません。
 葵瑛さまは本当に愉快そうに微笑まれておりますが、香姫さまの微笑みからは、明らかな怒りを感じとれます。
 そして、さわやかすぎるほどさわやかな笑顔で、香姫さまはおっしゃいました。
 語尾にハートマークをつけて。
「二度と、く・る・なっ」
 その語尾のハートマークに、底知れぬ怒りを感じてしまうのは、気のせいでございましょうか?
 ……いえ、決して気のせいなどではございません。
 香姫さまは、これでもかというほどに、お怒りなのでございます。
 ところで、葵瑛さま。最近、やけに香姫さまに近づいてやしませんか? それでは、陽楊さまのよからぬ誤解を招いてしまわれますよ?
 それにしても、二度続いたこの怪事件。
 一体……これは、何を意味しているのでしょうか?
 それとも、それは考えすぎで、たんなる偶然……?
 しかし、偶然でこのような人の悪意を感じるようなことが起こるものでしょうか?
 これはやはり……何かよからぬ嵐の前兆?
 激怒しておられる香姫さまの前から、清々しく退出されようとした葵瑛さまは、何を思われたのか、おもむろに振り返られました。
「ここまでされては、さすがに陽楊に知らせないわけにはいかないでしょう。――よろしいですね? 香姫殿……」
 そうおっしゃると、香姫さまの返事も確認せずに、そのままお姿を雨の中へとやつしていかれます。


 わたし、陽楊さまが好きよ?
 陽楊さまが、実は東宮だとわかった時、騙された、嘘をつかれていたと、とても衝撃を受けたけれど、それ以上に、陽楊さまが東宮だったことが嬉しかったの。
 わたしの好きになった方が、わたしの夫となる方……。
 このような偶然、すごいじゃない?
 わたし、きっと、この都でいちばん幸せな姫だわ。
 そう思えてならないの。
 陽楊さまが、東宮さま……。
 この上なく嬉しかったわ。
 だけど、素直に喜べなかったの。
 すぐに陽楊さまを受け入れることができなかったの。
 だって、陽楊さまは知っていたから。
 わたしが、東宮妃入内が嫌でお邸を抜け出したこと。そして、東宮の暗殺計画を楽しんでいたこと。
 そのようなわたしが、陽楊さまが東宮だとわかった瞬間、手のひらを返したように、あっさりと入内を受け入れてしまうなんて、あまりにも虫がよすぎる気がするじゃない?
 それに、それはわたしの誇りが許さないの。
 どのような時でも気高くいたいじゃない?
 たとえ世間でどのように噂されようとも、信念だけは貫きたいじゃない?
 それが、わたしの美学なのよ。そして、わたしの精一杯の誇りなのよ。
 どれほど陽楊さまのことが好きでも、どれほど陽楊さまに愛されていようとも、それに胡坐をかく気などさらさらないわ。
 そのようなことで普通の姫になるなんて、おもしろくないじゃない?

 陽楊さまが好きよ。
 それは胸を張って言えるわ。
 陽楊さまが他の方を思っていると思っていた頃、どれほどわたしが胸を焦がしていたかなど、胸を痛めていたかなど、陽楊さまは知らないだろうけれどね?
 でもね、それくらい好きなのよ。
 その思いに気づいてしまったら、もうとめることはできないわ。
 日増しにどんどん加速し、わたしの中の陽楊さまへの思いは大きくふくらんでいくの。
 陽楊さま、好きよ。
 だけど、恥ずかしいから、素直に言ってあげない。
 だって、あなたが選んだ姫君は、この都広しといえど、たったの一人しかいない、はちゃめちゃ破天荒、変わり者の姫で有名な、このわたしなのですもの。
 ――それくらい、もちろん覚悟の上でしょう?


 あのようにおしゃっていましたが、葵瑛さまは陽楊さまにはまだ何もお伝えになっていないのか、何も知らないといった感じで、平然と陽楊さまが香姫さまのもとへとやってこられました。
 いえ、陽楊さまのことですから、知っていて、あえてそのように振る舞われているにすぎないのかもしれませんけれど……。
 本日もまだ、相変わらずの雨模様。
 今年の梅雨は例年よりも長いのでは?と思わずにはいられないほど、この梅雨はうっとうしく続いております。
 ですからもちろん、この方が、退屈をしてご機嫌がななめになっていないわけがございません。
 それをわかっているので、陽楊さまは、この方のご機嫌うかがいにやってこられたのでございましょう。
 そう、この方。天下無敵の東宮さまが、帝すら恐れぬ東宮さまが、あの葵瑛さまですらこの方には及ばないほどに、この方だけは怒らせたくはないのです。この方だけは、ご機嫌を損ねたくないのです。
 この方……こちら、左大臣邸の東の対にいらっしゃる香姫さまのご機嫌だけは……。
「香子。どうだい? お妃教育は順調かな?」
 当たり前のように御簾を上げ、陽楊さまは簾中へと入ってこられました。
 東宮への入内が決まった姫君のもとへ殿方が通っている……などと、そのようなことが世間で噂になれば、香姫さまの東宮妃入内のお話など、あっさり白紙になってしまう恐れがあるにもかかわらず、陽楊さまは気にもとめておられない様子で、このようにやってこられます。
 もちろん、香姫さまのお父上である左大臣は、それをよく思ってはおりませんが、何しろ相手は陽楊さま。左大臣ごときが、どうこうできるお相手ではございません。
 ――まあ、陽楊さまに関しては、いざとなれば、陽楊さまその方が、実は東宮ご自身だと暴露してしまえばそれですむ……とはあまり思えませんが、どうにかなるでしょう。
 何かと理由をつけるなり、言い訳をするなりすれば、陽楊さまが香姫さまのもとを訪れることを、どうにか誤魔化しようもございます。
 しかし、陽楊さまだけでなく、葵瑛さままでもが香姫さまのもとを訪れるとなると、さすがに左大臣もお顔を渋くせずにはいられません。
 まさか、東宮のおいとこで、そして無二の親友だという葵瑛さまと、香姫さまの取り合いをしているなどといった口さがない噂が広がれば、香姫さまの人生は終わってしまうも同然でしょう。
 香姫さまに残された道は、尼になる。
 それくらいになってしまいます。
 さすがに、普段、おてんばだの、破天荒だのと言って、大臣が頭をいためる原因となっている姫君だとしても、ご自分の娘でございます。かわいくないはずがございません。
 香姫さまに、そのようなお辛い思いをさせたくないと思うのが、親心でございましょう。
 たとえ、このような姫君でも。
 ですから、いつもなら陽楊さまが香姫さまのもとへやって来る時に、当たり前のようにくっついている葵瑛さまですが、本日は、何やら左大臣に寝殿で足止めをされてしまっているようでございます。
 ――本日、お二人が香姫さまのもとへとやってくる……そのような情報を入手すると、左大臣はお勤めを早退して、さっさとお邸へ帰って来ておられたのです。
 「大臣。――あなたも、なかなか侮れないですね?」と、今頃、渋いお顔をされている葵瑛さまのお姿が、目に浮かんでくるようでございます。
「順調なものですか! 誰がそのようなしち面倒なことを……。――陽楊さま? もしかして、お妃教育に奮闘するわたしを、笑いにでもこられたのかしら?」
 香姫さまは不機嫌な顔つきで、脇息にひじをつき、陽楊さまを恨めしそうに見つめられます。
「あはは……。やはり、退屈していたのか」
 そのような香姫さまのお姿をご覧になり、陽楊さまは苦笑いを浮かべられます。
 棗は、陽楊さまのお姿を確認するなり、今まで自分のいた香姫さまの横を、陽楊さまへとお譲りしました。
 それに気づいた陽楊さまは、棗にありがとうとでもいうかのような微笑みを向け、棗の提供した香姫さまの横の特等席へと腰を下ろされます。
 すると棗は、すすっと陽楊さまに寄り、すっと陽楊さまのお手元に脇息を差し出しました。
 陽楊さまは、無言でそれを受け取られます。
「当たり前でしょう? 今さらお妃教育なんて、わたしには必要ないのよ! ――まったく、馬鹿にしているわ。左の大臣の姫に、このようなことをさせるなんて! 何たる侮辱でしょう! 教養なんて、嫌というほど叩き込まれているわよ!」
 香姫さまは一気にそうおっしゃると、おもしろくなさそうに、ぶすっと陽楊さまを見つめられます。
 すると陽楊さまは、にこりと微笑まれました。
「薫物の腕前は、からきしなのに?」
 先ほどから、香姫さまから香ってくる香りに気づかれていた陽楊さまは、少し意地悪げに、そして嬉しそうにそうおっしゃいました。
 それは、香姫さま唯一の弱点。どれほど頑張ろうと、決して巧くなることがなかった、合わせ薫物……。
 ――嗚呼、くわばらくわばら。
 香姫さまは、やはり微かに怒りをたたえた目で、じっと陽楊さまを見つめると、ふいににこりと微笑まれました。
「これはわざとよ? だって、陽楊さまと同じ香りをさせていたいじゃない?」
 ――待ってください、香姫さま。その言い訳は、あまりにも……。
 たしかに、葵瑛さまが冗談半分で、薫物の苦手な香姫さまに、陽楊さまの香をお渡しになりました。
 そして、香姫さまが今もなお、その香をお使いになることは、決していけないことではございません。
 しかし……その理由が、言い訳がそれとは……。
 それは明らかに、陽楊さまを喜ばせ、そして調子づかせることになるのですよ? おわかりですか? 香姫さま。
「では、そういうことにしておきましょう」
 陽楊さまは、もちろん、薫物が苦手なことを誤魔化す理由としてそのようなことを持ち出してきたと百も承知ですので、呆れたようにため息をもらされます。
 ……しかし、そのようなことでも、陽楊さまは、内心とても嬉しいようです。
 たとえ苦し紛れの言い訳だとしても、香姫さまから、このようなしおらしい、そしてかわいらしいお言葉を聞けるとは、思ってもいなかったのですから。
 まあ、今もなお、香姫さまが陽楊さまと同じ香りをさせているというだけで、それだけで、陽楊さまを喜ばせるには十分なのでございますが。
「何か……含みのある言い方ね」
 香姫さまは、陽楊さまのお返事を聞き、おもしろくなさそうに、ぷいっとそっぽを向いてしまわれました。
 本当は……もちろん薫物が苦手なので、このまま陽楊さまの香りをさせていよう……そのような気持ちもおありでしたが、やはり、先ほどおっしゃられたこと、実は全部が全部、言い訳ではないのですよ?
 香姫さまは、本当に、心の一部では、陽楊さまと同じ香りをさせていたい……そのように思っていらっしゃるのですよ? ――陽楊さま。
 まだまだ、香姫さまのこと、わかっていらっしゃらないようでございますね?
 いちばんでは嫌、たった一人がいいとおっしゃられる香姫さまなのですから、そのような乙女ちっくなことを考えていても、決して不思議ではないのですよ?


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update:03/08/06