落花流水の如く
(六)

「香子。そうふくれないの。――今日は、あなたを喜ばせようと思ってやってきたのだから」
 そっと香姫さまの肩に手を触れ、くいっとお引き寄せになられます。
 香姫さまは、それには抵抗しようとはされませんが、恨めしそうに陽楊さまをきっとにらみつけられます。
「ならば、そのようなこと、言わないでちょうだい!」
「ごめんごめん。あなたが、あまりにもわたしの予想通りの反応をするもので、ついおもしろくて……」
「おもしろがらないでよ! それじゃあまるで、葵瑛さまみたいじゃない! ――腹立たしい!!」
 香姫さまは、ぷんぷんと怒ってみせられます。
 どうやら香姫さま、葵瑛さまには、相当頭にきているようでございますね。
 ……まあ、無理もありませんが。あれだけ、言いたい放題、おもちゃにされては……。
「それで? わたしを喜ばせるようなことって?」
 あっさりと怒りを鎮められ、興味深げに陽楊さまを見つめられます。
 げんきんなことに、先ほどの陽楊さまのお言葉を聞いた時に、あっさりとご機嫌が直っておられたようでございます。
 本当にもう、香姫さまってば……。
「ああ、それだね……。あのね、香子。この梅雨が明け、夏になったら、嵐山(あらしやま)へでも涼みに行かないかい?」
「嵐山へ……?」
 驚いたように、嬉しそうに、陽楊さまを見つめられます。
 香姫さまと陽楊さまの後ろで控えていた棗も、「まあ!」と驚いたような表情を見せ、優しげに微笑んでいました。
「どうする? 香子」
 陽楊さまはくすっと笑うと、試すように香姫さまを見つめられます。
 すると香姫さまは、がばっと身を乗り出し、陽楊さまの衣のお袖を両手できゅっとにぎられました。
 そして、目を輝かせ、叫ばれます。
「もちろん……! もちろん行くわ! 嬉しい!!」
 ぱっと花が咲いたように、嬉しそうに微笑まれます。
 それにつられ、陽楊さまのお顔もはなやぎます。
 ゆったりと香姫さまとお二人だけの時間を過ごし、羽を伸ばすことができるとお考えなのでしょう。
 まあ、陽楊さまのことですから、香姫さまとお二人きりなら、行き先はどこでもよかったのでしょうけれどね?
 そう、たとえば、死体捨て場である鳥辺野(とりべの)辺りでも……。
 都合のよいことに、同様に死体が打ち捨てられている鴨川川原でも、羅城門でも、恐れない香姫さまがお相手ですから。
「それじゃあ、決まりだね」
「ええ!」
 香姫さまはそうおっしゃると、がばっと陽楊さまに抱きつかれました。
 すると陽楊さまは、突然の香姫さまのそのような大胆な行動に面食らっているようでございましたが、すぐににこっと微笑み、そして幸せそうに抱きしめ返されます。
 それを見て棗は、頬を少し赤らめ、ほほえましそうに、そっとその場を退出していきました。


「きゃあ〜! 姫さま、何ですか! そのお姿は!!」
 恨めしそうに、階にお姿を現された香姫さまを見て、棗は青い顔をして叫びました。
「見ればわかるじゃない。池に落ちたのよ」
 ぶすっとおもしろしくなさそうに香姫さまはお答えになると、どすどすと階を上り、簀子へ上がられます。
「棗! 着替え!」
「は、はい! 只今!!」
 衣からぼたぼたとしたたり落ちる水を絞りながら、棗にそう命令されます。
 すると棗は、慌てて香姫さまのお着替えを取りに走ります。
 そして、香姫さまが一通り水を絞り終わられた頃、棗がお着替えを持って戻って参りました。
「姫さま。奥へと……」
「ええ」
 香姫さまは、絞った水で足元の簀子をびしょびしょにしたそのままで、奥へと進まれます。
 ――香姫さまあ。どうしてそのようなところでお絞りになるのですか?
 それはやはり……ここ東の対に仕える女房たちへのいやがらせですか?
 皆、女房装束を身にまとっているのです。そこを通ると、必ずといってよいほど、香姫さまがお落としになった水で、装束のすそを濡らすではないですか。
 まあ、そのようなことなど考えずに、ただこちらで絞って中へ入っていった方がよいと思われたのでしょうけれどね?
 香姫さまは、普段、御寝所としてお使いになられている北庇までお戻りになると、棗をはじめ何人かの女房の手を借り、お着替えをはじめられました。
 そしてその最中、棗の小言が投げつけられるのは、当然のことでございましょう。
「まったく、姫さまは。また……」
 棗がそうして小言をはじめようとすると、いつもとは違い、香姫さまの反論がありました。
 いつもの香姫さまなら、甘んじて棗の小言を受け入れ、そして最後にまとめて、とどめとばかりに打ちのめされるのでございますが……。
「そうじゃないわ。お庭をお散歩していたら、いきなり誰かに後ろから突き飛ばされたのよ。それで池に落ちちゃったのよ!」
 ふんとふてぶてしい態度をとり、必死に怒りをおさえようとされます。
 香姫さまのそのお言葉を聞き、棗たちの手が止まりました。
「え……?」
 そして皆一様に、顔が青ざめていきます。
 誰かに突き飛ばされた……ということはすなわち、香姫さまに危害を加えようとしたということで……。
 それでは、このお邸の中に、香姫さまのお命を狙う不逞の輩がいるということに……?
 棗たち女房はそれに気づきましたが、当の香姫さまは、池に落とされたということに憤り、気づいておられぬご様子。
 まあ、それはそう見えるだけで、香姫さまにもちゃんとわかっておられました。
 もしや、命を狙われているのでは……!?と――
 しかし、主である香姫さまが動揺しては、それに仕える女房たちが慌てふためき、収拾がつかなくなるので、あえて気にしていないように振る舞われておられます。
 やはり、この辺りが、普通の姫君とは異なるところ。
 ちゃんと、ご自分の立場をわかっておられます。
 決して、ご自分は動揺の色を見せてはならぬと……。
 生まれながらに、左大臣の姫の素質が備わっておられるのでございましょう。


 ばたばたばたばた……と乱暴に簀子を走る足音が、いつかのようにむすっと脇息にひじをつき、目をすわらせておられる香姫さまのお耳に届いてまいりました。
 時は夕刻。逢魔が時。
 辻辻を魔が走るとされ、恐れられている時刻。
 そのようないわくのある時刻にぴったりな、何やら事件の色を感じさせる足音でございます。
 その乱暴に走る足音は、むっつりとしたお顔で怒りをおさえ、加えて暇を潰されている香姫さまがおられる庇の御簾の前で、ぴたっと止まりました。
 そして、乱暴に御簾が払われ、陽楊さまと葵瑛さまが真っ青な顔で飛び込んでこられました。
 それをご覧になり、香姫さまはそれまでついていた肘を、ずるりと脇息からずり落とされてしまいました。
 そのような香姫さまらしからぬ美しくない体勢を慌ててたて直し、いつものどこかふてぶてしい香姫さまにお戻りになります。
「あれ? どうかなさったの? お二人とも、そのように慌てて」
 そして、陽楊さまと葵瑛さまを小馬鹿にするように、くすくすと笑い出されてしまいました。
 そのような不遜な態度をご覧になり、陽楊さまはすごい剣幕でつかつかと香姫さまへ歩み寄られます。
「どうかなさったの?ではないでしょう! 香子が池に落ちたと聞いて、慌ててやってきたのだよ。――まったく、あなたはどうしてそう……。本当に死――」
 そこまで言いかけると、ぐいっと陽楊さまを押しのけ、葵瑛さまがずいっと香姫さまの前に出られました。
 そして、ぴんと得意げに右の人差し指を立て、楽しそうにおっしゃいます。
「決まっているではありませんか。池に落ちたと聞けば、それはもちろん、あなたを笑いに来たのですよ」
 香姫さまは葵瑛さまのそのようなお姿を見て、怒るのを通りこして、あきれ返ってしまい、馬鹿にしたように目をすわらされます。
 そして次の瞬間、先ほどまで暇つぶしに香姫さまがぶらぶらともてあそんでおられた扇が、葵瑛さまのにこにことしたお顔にめりこんでおりました。
 さすがに、葵瑛さまが香姫さまのもとへやってこられることを、左大臣が阻止しているとはいえ、今回ばかりはどうにもならなかったのでしょう。
 香姫さまが池に落ちたと聞きつけ、口ではこのようにおっしゃっておられますが、心配した葵瑛さまに強行突破されてしまいました。
 そして、左大臣もそれをわかっておられました。
 今回ばかりは、あまり本気で阻止しようとは思っておられなかったのでございましょう。
「……」
 葵瑛さまは、無言で、そして無表情で、何事もなかったかのようにめりこんだ扇をとられ、すっとご自分のお袖にお仕舞いになろうとされます。
 しかし、それに気づかれた陽楊さまが、すっと扇を奪い取り、ご自分のお袖へと仕舞いこんでしまわれました。
 葵瑛さまは、物言いたげに、じと〜りと陽楊さまを非難するように見つめられます。
 すると陽楊さまは、まったく気になどしていない、むしろそれが当たり前だとでもおっしゃられているかのように、涼しい顔で「何か文句でも?」と葵瑛さまを見つめ返されます。
 香姫さまはその一連のお二人の行動をご覧になっていましたが、何もおっしゃろうとはされません。
 ただ呆れたように、お二人を傍観なさっておられます。
「それにしても、香姫殿。あなたともあろう方が、簡単に池に落とされるなどとは……」
 面白くなさそうに、葵瑛さまは香姫さまを見られます。
 その非難するかのような葵瑛さまのまなざしに気づき、香姫さまはむすっとしておっしゃいます。
「仕方ないじゃない。このような姿に水の重みが加わっては、さすがのわたしでも、そう簡単には動けないわよ。――腹立たしいことに、ようやく起き上がって追いかけようとした時には、犯人はすでに逃げ去った後だったのよ」
 そして、お下品にも、ちっと舌打ちをなさいました。
 香姫さまのそのような説明を聞かれ、葵瑛さまはまたおもしろくなさそうに、ため息をつき、おっしゃいます。
「――残念。あなたも、力だけは普通の姫君だったのですね」
 葵瑛さま……。それは、何か勘違いをされているのでは……?
 香姫さまは、その発言こそ、行動こそ、普通の姫君からは逸脱しておられますが、紛うかたなく、れっきとした姫君であらせられるのですよ?
 香姫さまは今度は震える手で、今まで肘の下にあった脇息をつかみ、葵瑛さまの頭上へかざされます。
 さすがにそれは、棗が香姫さまのお手をつかみとめましたが……。
 それにしても、香姫さま。いくら何でもそれが命中しては、葵瑛さまとて、ただではすまないような気がするのですが……?
 ――ええ、あくまで気がするだけでございますが。
 葵瑛さまなら、あるいは……?
 棗に止められ、ようやく落ち着きを取り戻された香姫さまですが、相変わらず、葵瑛さまをぎろりとにらみつけられたままでございます。
 一方、陽楊さまはと申しますと、香姫さまのこの行動を止める素振りもなく、むしろ「やってやれ。それくらいしないと、この男は一向にわからないだろう」と、冷めた表情で傍観しておられました。


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update:03/08/06